gnomes of the plate
3日?は節分だったという。平原に鹿を追うならここが正月の方がいいなどととも思いつつ、ビル・マーレイとアンディ・マクダウェルのあの映画は、しつこさが面白かったなどとも思いつつ。
ギリシャの黒豆だとは例の番組。豆をぶつけたところで、チューリヒの小鬼一匹倒せるわけでは、もちろんない。相変わらずの力士やタレントin神社だが、本当に意味の分からないことには、やたらと軽薄に参加などするものではない。
グランドホッグとは、プレーリードッグみたいなものなのだろうか。迎春にこいつを用いるのは微笑ましいとしても、さてところで、鬼とは何事だろうと。角の生えた妖怪魔物とはされるものの、そんなものがいるわけもなし。鬼が悪しきものの擬人化だとしても、悪しきものとして想定される、その付随するオブジェクトとは何ぞやと。ずっと妖怪としていぢめられて貶められ続けている、モデルの人物とは誰かと。
桃太郎が百済の太郎かどうかは別として、奪ってきたお宝はおそらく鉄である。あれは当時の最強兵器たる鉄を作るタタラ場を強奪するため、まつろわぬ敵国を襲うハナシである。まつろわぬ者は妖怪とされる。隼人や熊襲と同じ。土蜘蛛とはこれまたひどいが、怪奇蜘蛛男のわけはなく、蜘蛛と言われても、それは我々と同じ人間である。
赤鬼の赤銅肌は、タタラ製鉄による火焼けであるとは沢史生。赤銅色は、もっと年季を増すとペールブルーに光る。鬼の一種である一つ目小僧やからかさ小僧も、鉄の温度を見、タタラを踏み続ける事の弊害を語ったものだと。
やがて山にいる、まつろわぬ不審者は全て鬼として、妖怪視される。河に居れば河童。全国津々浦々で個々の文化を持つ河童も、川に実在した誰彼だ。もちろん妖怪などというものがいないとすれば、それらは全て、我々と同じ人間に決まっている。
まつろわぬ者には異音たるレッテルを貼って、妖怪として差別するという、古代からの為政の手法。差別はこの島の確固たる伝統でもある。オバタリアンとか新人類とかコギャルとか、ライトな妖怪は近現代でも日々生み出されている。伝統はそう簡単に潰えない文化だから伝統となる。
田村麻呂が征夷大将軍する幾多の絵模様で描かれる東北エミシの姿は、下顎から牙が飛び出し、まるで鬼か餓鬼の様相である。大体征夷の夷とは恵比須であり蝦夷である。確実に現代東日本人の祖先の一種に対し、何たる差別かというのだ、今や。
それが大豆であれピーナツであれ、砲弾、銃弾、少なくとも矢の雨あられを模していることに変りはない。まつろわぬ者には矢雨を浴びせて黄泉の外へ追いやり、吹く(鞴)はいただき、では、時折起こる公園其他でのJH集団によるマサカーを、日本の伝統もしくは節分の儀式だと居直られたとして、何のやり返しようがあろうか。
迎春にひどい差別の語り儀式に、それほどわけもわからず加担するのはもうそろそろやめにして、百太郎麿よ古代のエミシの勇者と、正々堂々と一対一で角力で、あらためて戦ってみたらどうだ。
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