田園
かつて横綱大乃国を、張り手一発で2回KOした実績を持つ小結板井曰く、大相撲は80%が八百長だと。八百長をしないのは若貴や大乃国など、一部の者だけだと。千代の中盆だったという板井は、八百長クラブに大乃国を引き込むために、八百長を受け入れないと小結クラスの俺にすら、このように負けるよと、大乃国に圧力を掛けたなど、当時はチラホラ。
初優勝。終盤戦で大関小錦をがっぷりから寄り切った、前頭十何枚目琴富士の強かったこと。いつでも自由に優勝できるとの印象すら与えた、関脇琴錦の神懸り的な強さよ。そして次場所は当たり前のように負けて下に落ち、また舞い戻るエレヴェーター。エレヴェーターのメカニズムが何を意味するかなど、天才的な科学者か羞恥心の人以外なら、自身へ沁みさせることで誰だって見当は付く。
フィジカルに全力でぶつかり、怪我をも恐れず、一戦一戦をひとつづつ勝ち抜く。15戦全勝を目指して。そんな真っ直ぐな思弁しか働かない人間でもまた、エコノミズムは行き詰る。15日間中、勝ち負けのバランスを計算し、今場所の体調とも相談しつつ、勝負を掛ける場所とそうでない場所を選ぶ戦略をする権利ぐらい、ないとは言わせない。戦略上無気力な戦いを挟んだっていいだろうし、言えば八百長の自由だってあっていいではないか。勝敗の債権化という金融商品だ。CO2排出量の取引みたいなものだ。少なくともあれより罪はない。
何にどうやっていつ勝つかということは、人それそれに決める権利がある。相撲で何回も優勝をし、相撲界のトップに立った人に対して我々は言っている。それがどうした、と。相撲など取れなくたって、ドラマの脚本や漫画を書いて、ボフのチャンプを見下してもいる。
横綱なんて偉くない。それは前頭の者にとっても同様の認識だ。俺たちだって偉くもないのにしんどいだけのババを引くのはいやだと。やがてこう思う。見下されるのは、真っ直ぐな思考しか働かない人間だというシヴィリアンコントロールを、押し付けられているゆえだと。八百長くらいするのは、ドラマの脚本や漫画を書くことと同じ位、文化人風なことだと。天下り先企業に便宜を図るくらい、官僚的手腕だと。中盆はビッグディールをまとめる、ウォールストリートのホワイトカラーと同じ位、クールなビジネスマンだと。
でぶった腹は、例えばつり出しの際に必要な機能なのだという。しかし千代や霧島は、腹は出ていなくとも実績を残し、あれが無意味なものとの答えを出してしまった。つまりお腹は、丁髷やまわしと同じ、伝統的なファッションの一部でしかないと。競技や健康に支障をきたしかねないクルーエルなファッションを伝統として暗に強いておくのは、まさかわざと見下すためではあるまいな、と。相撲取りにそれしきの知恵も持つなというのは、今時さすがに無理がある。
露西亜力士の逆提訴に恥を知れと文科相。大分の教育委員会を棚に上げて、自分よりはるかに大きな外国人の若者をしかりつける。文科省管轄の国技であるといっても、われわれ国民は全員、相撲を取ろうとするわけでもない。文科相自身、一度でも真剣に国技を競技した経験はあるか。外国人の若者から、文句があるのだったら、カネを渡して文科相やジャーナリスト、お前が国技でその真相を確かめてみたらどうだと言われたとして、例えば文科相や脚本家や新聞屋が力士を恐れないのは、そこにカネで白星を買っているのと同じパワーバランスが、厳然と働いているからだとは言えないのか。
99年正月のジョージアドームでナッシュとハリウッドがやったことを、朝青と白鵬でやってみたら、いっそのこと痛快だろうか。我々がとっくの昔に歩み切った、KfEraの田園地帯。それでは価値はないのか、或いはそれでも価値はあるのか。ところで見分けて我々は、我々自身の心柱に、何を観て何を叩き込んで来たか。
公的資金投入で、それでも守られる貨幣制度。それは笑ってしまうほどの八百長っぷりでもあり。ひとところで八百長があらば、八百長のドミノはどこまでも余波せねばまた均衡を失う。相撲の八百長は、それは銀行が潰れないから起こる、とも言える。
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