03年ニューイヤーの2連戦
終わってみればメダル倍増、団長弁舌軽し。が、かつては宮原が、国内予選では決まって一色をサイドスープレックスしていたグレコの事は、触れられず終い。
グリースの息吹。その名を冠した伝統競技。高浜の言葉を借りれば、オリンピックにおいて柔道など野犬。古田よならば、オリンピックの本質について語らねば。我々も古代オリンポスの神々を称えるべく振舞おうと。
お腹で跳ね上げ、サイの爆発力と前部三角筋の吊上力で頭部後方へ弧を描いて投げ飛ばす美しいスルーを発想したのは、紛れもなくグレコローマンのレスリング。自分と同じ重さの生きている肉の塊を空中で大回転させるなど、どれだけ難しいかという驚事。これを実現せしめた時のヒトの肉体は、どれほどまでに鍛え上げられることになるか。美しく神々しい光を放つことになるだろうかと。
相撲の二丁投げや柔道の裏投げの技巧とも違う、対し向かい組み止めた相手をそのまま後方へ投げるという力勝負。愚直なまでの肉体への信仰。それは神に近づくというギリシャローマの人々の思想。
グレコローマンで、背負いや首投げで勝つなどがそれほど意味のあることとは思わない。俵返しでも物足りない。グレコをヤルなら真正面から、オーヴァーヘッドスープレックスと向かい合わねば。グレコのスープレックスを出来なければ、レスリングをやったことにはならないとも思える。
アトランタのチャンプ、カート・アングル。フリースタイルのコンペティターだが、見事なオーヴァーヘッドスープレックスを披露する。しかもアングルは、スタイナーズやレスナーほど大きくもない。そのスタイナーらにしても、カレッジスタイルのビッグエイトクラス。レイガンス、オルブライト、サヴォーン、タズ ・・ アメリカのアマチュアは皆見事なスープレックスを打つ。
対して日本のプロ。グレコの代表を経験しても、ビッグパパパンプのようなライトなスープレックス打ちはまれ。いないといってもいい。強いて言えば4種類を操る時代の鶴田だが、その鶴田にしても、バスケットからの転向を当初は、大学レス部に断られたりした日本の異端。馳の北斗は、ダックアンダー方式の野犬打ち。
つまり日本のレスラーは、マトモなスープレックスが打てるのだろうかと。だとしたらそれをなさしめないトレーニングは正しいのかと。スープレックスが打てないレスリングに意味はあるのかと。スープレックスを打つ肉体を作れない古代のボディビルディングに、と。
イギリスが、白兵戦優位のために練り上げた、キャッチフリーの蛇の道。東インド会社のためのインディアンアーリア論の如き。神に近づくグレコとは違う、地べたをなめ這う人の知恵。純粋なレスリングの本質を言うならそれは、グレコローマンのスープレックスに軍配は挙がる、かもしれない。
ただ、タタカウということは、これもその本質において、強大な敵がいなくては成立もしない概念。それは同時に純粋なパフォーマンスを培うアマチュアのみでは、レスリングが完結しないということをも表している。今回もよりクリンチ度が増して、ゲームとしては分かり易くもなってはいたが、こういう刈り揃えられた近代オリンピックなどで、よもやレスリングが結実するなどと思ってはなるまい。
グレコのスープレックスは、エシックなレスリングにおいては、純粋なパフォーマンスとしてベビーを司ってくれる。それがトリプルHが自らの“スティムボート”に、スコット・スタイナーを起用した意味。人の知恵は神という概念を、必要に駆られたがゆえに生み出し、それゆえに自らそれに従いもし、またそのシリアスな相手をも務める。ウェイトリフティングのパワーやハイジャンプの跳力は、“パテラ”として、何倍も魅力的なアートになる可能性を秘める。直接的な戦いを経ずして、生まれ得た躍動は本当にあるのかというハナシ。今回もウィーラーその他、未見のアングルやヘンリーの進化系などに、挑戦せずにいられようものなのか。本編はそれからのハズだ。
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