the Enterprising HORSEMAN (2)
<前回から続く>
1つの州に、というよりも、1つの縄張りに1つのオフィス、というのが、当時のNWAの掟。テキサスには元会長アドキッセンが、ダラスとフォートワースを中心に仕切り、睨みを効かす。ヒューストンのポール・ボーシュは、NWAにも顔を効かす一方で、MSWAと協定し、AWAとも友好した。
MSWAとAWAが、裏で、というよりもほぼ表で堂々と、NWAと通じていたのは周知の事実。独立系と言われていたグループは数あれど、WWAがAWA系で、ICWもシークとつるんでいたことを考えるなら、本当にほぼ独力で踏ん張っていたのは、当時サンアントニオのサウスウェストだけに見えた。そしてそれはまた、ターリーの、メジャーなチャンプへの道を閉ざすのではないかとの危惧も意味した。
ダラスでは、三男デイヴィッドが、ほぼ世界に就くことで、ハナシがまとまりかけていた。アドキッセン元会長の夢。デイヴィッドはテキサス・タイトル、フロリダでサザン・タイトル、そしてミズーリ・タイトルを制し、フレアーにも連続挑戦を開始した。
ジョーがダラスのマッチメーカーとしてターリーに肩入れしたとして、エリック王国でデイヴィッドを倒し得たかどうか。もちろん我々はターリーを応援しただろうが、スポータートリアムの黄色い声援が何を物語っていたか、それはジョー親父でなくとも容易に判断出来た。
実力者ターリーに、世界への道は最初から無かったのだろうか。否、そうではなく、システムを根底からひっくり返すことで、機会は平等になるという思考回路。ターリーはヴィンセント・ケネディよりも先に、NWAをぶっ潰すことを考えていたかもしれない。少なくとも一番最初に、実際にNWAの首に手を掛けたのは、間違いなくターリーだった。
実はNWAを潰そうという動きは、内部からもかつて脈動した。70年代後半のJCP。若きネイチュアボーイを中心に起こった“レッスルマニア”。人口35万程度のグリーンズボロやノーフォークの、1万超級のアリーナが、連日満員になった。JCP内部ではジョージ・スコットが、NWAを抜けて全米に進出するべきだとの、強行論を口にしたと聞く。ビジネスとして何を選択したらいいかの答えは、既に出ていた。旧式のNWAシステムは必ず古新聞になる。このままではNWAは、いずれどこかに寝首を掻かれる。次のアイホーンは、よりパワフルになって、間違いなく現れるー。
それを本気で最後まで分からなかったのは、ダラスのアドキッセンとセントルイスのオコーナー一派の、NWAの主流派と言われた連中だったか。本気で最後まで、保守本流を貫いたNWA一族は、実際にダラスだった。
NWAの寝首を掻こうとしていたのは、サウスウェストのターリーだった。あの事件の、全ての糸を引いていたのは、プロモーターのジョーではない。若干29歳の若頭、ターリー・ブランチャードだ。現在RAWを流すUSAネットを、一番最初に取りつけたレスリング・オーガニゼイションは、サウスウェスト・チャンピオンシップ・レスリングだった。だからターリーは順調に事が運べば、ヴィンス・マクマンになっていたかも知れない人物なのである。
ターリーは全米ネットのUSAで、伝説の王者ルー・テーズより、必殺のバックドロップを伝授されるシーンを、特別プログラムとして流した。そして83年6月、テリー・ファンクを参加させた上で、NWAベルトのイミテーションを作り、アンディスピューディッド世界ヘヴィー級王者決定トーニーと銘打って、ヒューストン・サミットで、大々的なショウダウンを開催した。
USAネットの、SWCWの元に集う、独立系の雄達。ICWのポッフォ親子が遂に動き出し、セントルイス・レスリング・クラブを独立した、マチニクの子飼いビューロクラット、ラリー・マティシックの新会社、グレーター・セントルイス・レスリング・エンタープライズも、待っていたかのように参加を表明した。<続く>
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