時間割通りに仕事を上げてオフィスを出て、
気付きました。胃が痛い。

食事、睡眠…と思い返しても心当たりがなく、
それでも自分を見渡して、思い出しました。
あれだ。先日受けた、あの言葉。
刺さった棘を抜いた気でいたけれど、
見ないフリをしてきたけれど、
ちょっと膿んでいるらしい。

ーーー

たぶん私は諦めが悪くって、
「できない」とか「無理」という言葉に
アレルギーがあるのです。
「あなたはあの時XXだったからYYできない」とか、
「あの人はAAだからBBできない」とか、
「この団体はCCだからDDは無理」とか、
なんでもいい、
自分や他人に向けられる、可能性を閉ざす言葉を
生理的に受け付けられない人間であるように思います。


可能性を掴むために泥だらけになって試行錯誤する
ベンチャー企業にいたし、
「元気に生きてればいいから好きにしなさい」と
見守られて青春時代を過ごしたのも、
アレルギーに拍車をかけているようです。
可能性の純粋培養で育ってきています。


だからこそ、周りの人にも勉強をアドバイスした上で、
「やってみなよ~」とゆるく応えられます。
私の専門分野でいえば、
別にアラビア語を喋らない人に
アラブは語れないなんて思ってないし、
パレスチナ問題を勉強していない人に
パレスチナ問題が語れないとも思っていないのです。
一人一人の視点、言葉の温度に価値があるから。
一部の限られた人ばかりが話したって、世の中は動かない。


一方で、ブレーキのない車は欠陥車。
私は今更、ブレーキを装備できるんだろうか?
30も後半に差しかかれば、
もっと現実的な保守派になれるんだろうか?


なんて、不似合いなことにエネルギーを使うよりは、
ブレーキ役に隣にいてもらったほうが、いいんだろうなぁ。
まずは、アレルギーだけなくしてしまおう。
私が可能性を信望しているのと同じ熱量で、
他の誰かは現実性を信望しているのだもの。


そう思いつつ胃をさすって帰る、夜の京浜東北線です。
早くなおれー。