キュクロプスの桎梏 -3ページ目

 最近考えることに「意識を細くする」というのがある。内観の話だ。かなり抽象的な説明になると思うので、その御心算で。

 


 真っ直ぐ引かれた白い線をイメージして、そこを踏みながら辿っていく。視点はぼんやりと構えて、特に固定しない。意識だけを足もとの線に集中する。肩幅よりも少し狭いイメージだ。
 情緒が不安定になったとき、人は支えを必要とする。強く踏ん張ったり、何かに持たれたり。倒れないように腕を突っ張って体重を支えようとする。そういうことは一切しない。白線の上を歩くように、リラックスして滑らかに意識を滑らせる。
 独楽を想像して貰うと分かり易いが、高回転になるほど軸がぶれない。垂直になる。あんなイメージだ。動くものを目で追いかけたり、支えになるものを探していると、つられて身体が大きくぶれる。ピントを合わせずに視界の隅で捉える感覚だ。


 何かに強く惹かれたり、あるいは反発するのは、心理的に不安定な状態だといって構わない。生の実感を得るために、感情的になったり、好んで衝突を繰り返す人もいるが。相手まかせの態度だと言えるだろう。体当たり主義だが、そうでない人もいる。トラブル上等を他人に薦めるのも困りものだが。
 おそらくパニックと忘我を混同してるのだろうが。アドレナリンを分泌したり、前後不覚を好むという意味では、あまり酔っ払いと違わない。そう昔は酔漢を「トラ」に擬えたのだ。恐いもの知らず、の意味だ。どうして虎なのかは諸説あるので調べてみよう。

 


 

 話は変わるが、迷子にもいくつかパターンがある。典型的な例だが「関係ないものを既知の情報と結びつける」。つまり誤認だ。何となく見覚えがあるもの、目印を追いかけるうちに、まったく違う場所に出てしまう。錯覚や記憶の混同が原因だ。注意の方向が限定的で、しかも散漫なのだ。
 これを防ぐには、いったんスタート地点に戻って、最初からやりなおすことが有効だ。勘だとかアドリブで辻褄を合わせようとするので、さらに悪いことになる。後手のなし崩しから、弱り目に祟り目といった状況だ。

 それらに共通するのは「周囲に気を取られ過ぎて、注意力が散漫になる」こと。自分の体勢が崩れていることに気づけない。ピンチで判断が鈍ってる証拠だ。何かを行動の支えにする、起死回生のヒントを探そうとする時点で、かなり軸がぶれているのだが。まあ難しい。
 ちなみに僕は、乗り物で移動すると方向感覚が狂うスキルの持ち主だ。徒歩や自転車だと平気だが(身体感覚や処理能力の問題だろう)。歩きだったら一度で道を覚えてしまうし、大型駐車場でも迷わない。ただし車の運転やナビには向かない。(全角1103字)

 

 映画「ゴッホ~最期の手紙~」感想。なかなか公開日が決まらなかった本作だが(各所の調整が難航したのだろう)。正式なリリースは約6週間前。少々待ちくたびれたが、ようやく観ることができた。
 個人的な興味はふたつあって、ひとつはロトスコープという、映像技法に関すること。もうひとつは、画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに纏わることだ。原題「Loving Vincent」は彼のファーストネームだ。
 本作は、物語の案内役アルマンの目を通して、数奇な画家ゴッホの死の真相に迫るという方式。ピストル自殺の謎をとく、所謂探偵ものに分類されるだろう。ネタバレは控え目だが。ここでは技法と演出論について、主に語ることにする。

 


 僕にとっては、こちらがミステリーになるが。まず結論から書いてしまえば、本作は「ロトスコープである」。油絵であり、アニメーションであり、ロトスコープだ。特に違いを見い出せなかった。
 原理的には、実写動画をベースにしたアニメーションだ(デジタル化が進んだので手描きには拘らない)。論点としては、以下のみっつ。画面の構図やカメラアングルが共通であること、人物の輪郭線が一致すること、動きの角度や芝居のタイミングが同じであること。それらが基本線になる。
 ただし背景もアニメーションなので、実写と同じとは限らない。同様に、服装やメイクが違うこともあるし、アニメーションだから動きはコマ打ちになる。つまり表現による制約を受ける。原物は油彩だが、メタモルフォーゼ(変容)表現は完全にアニメのそれだ。

 以上の理由からだが、ロトスコープに相反する根拠を見つけられなかった。

 


 

 作品について掘り下げると、アルマンが登場する場面はカラー、ゴッホの回想パートはモノクロと、色やタッチが劇中で使い分けられている。アルマンの夢のなかで、両者は混然として溶け合う。ピストル自殺事件を追う彼がゴッホになった瞬間だ。
 物語が進むにつれて、油絵表現も成長していく。ただし、白黒カラーにせよ、重くてアクの強い絵柄なのは変わらない。カロリー過多で脳が疲れるので、もう少し工夫が欲しかった。音響プランが真っ当過ぎると思う。絵は濃厚なのに、場面変化に乏しい。
 彼の創作よりも、ドラマチックな事件や生涯に観客の関心が向きがちなので、意図的に抑えたのだろう。見た目は派手でドギツイが、むしろ淡々とした語り口。音楽もドキュメンタリの手法を採っている。だが娯楽よりの相乗効果が欲しかった。



 

 探偵役のアルマンの功罪だが。これは歴史的な人物を取り扱った映画なので、あまり無茶な冒険ができない。独自にエピソードを盛り込もうとすれば、オリジナルの人物が必要になる。その意味では、アルマンの存在はなかば成功してる。
 だが問題は、これが謎解きの会話劇であること。現場の聞き取りなので、テキスト過多だ。さらに字幕とゴッホの絵柄との相性はかなり悪い。なるべくであれば、未見だが吹替版をお薦めする。
 何せあまりにも映像美術が楽し過ぎて、ほとんど字幕が頭に入らない(8割はスルーだ)。これだけ字幕に向かない映像もないと思う。ロトスコープより、ゴッホの作風が罪作りだ。功罪あるとは、そういう意味。

 

 

 話を纏めるが、本作にはふたつのミスマッチが存在する。ひとつは映像と音楽との関係性。もうひとつは、ロトスコープと字幕との相性。どちらも演出に関わることだ。さらに動きのない会話劇を選んだことで、スローペースになった感は否めない。
 ひと言で感想をいえば「映像の満腹感は高いが、満足度はそれほどでもない」。眼福には違いないが、物語としては味気ない。熱意はあるが、ストイックで真面目過ぎるのだ。それはゴッホと、数多の製作者が正面から向き合おうとした結果だ(ヴィンセントと敬意を込めて呼ぶべきかな)。だからこそ、こうなったと言えるだろう。

 


 芸術家のスキャンダルや、彼の関係者の嫉妬や孤独な死の影といった、劇的なドラマを求めるのであれば、あまり本作はお奨めしない(類書もあるだろう)。だが何かしら薫陶を授かりたい、世界中のアーティストたちと一緒にヴィンセントを近くに感じたいというのであれば、これほど適した映画はないように思う。

(了:全角1747文字)

 都心に単館系の映画を見に行ったときの話。所謂ミニシアターで、ファーストデーの平日だった。初めての場所だったが、そこそこ混んでいた。
 座席は自由席で、右の通路側を選んで着席すると、すぐに前後が埋まった。幸いにも隣りには誰も来なかった。受付で貰った三つ折りのチラシに目を通すと、二ヵ月先の特集プログラムが記載されていた。シネマ会員募集の案内もついていた。

 


 お上りさん気分で、館内を眺めていたが。地元とは明らかに客層が違う。高齢者が多いが、若い人もまばらにいる。男女比でいえば、3対1だろうか。
 お土地柄なのか、女性の客層はバラバラ。水商売風の人もいれば、美大生みたいな人もいる。有閑マダムもいれば、30手前のライターのような人もいる。パンツスタイルの黒づくめだったり、20年前のエアロビクスのダンサーのような原色だったり。懐かしいがフラッシュダンスだ。トンボのように、大きなサングラスをしてないのが不思議なくらい。
 生活スタイルも違えば、行動時間も違う。雑多な人種が一堂に会してる印象だ。ああ都会だなあ、と密かに思った。

 


 

 ひるがえって男性客の見た目だが。これがよく分からない。サラリーマンと、その他に分類されるか。20代から60代までの服装が同じなのだ。違うのは、帽子と白髪頭くらい。ユニクロのようなカジュアルな普段着。スニーカーにチノパンだ。
 どうしてこんなに格好が似てしまうのか、不思議なくらいだ。背中のリュックサックや、肩から斜めに下げたバックを見た方が判別し易い。あとは通勤鞄をもった(おそらく仕事中の)スーツ姿のサラリーマンが、影に隠れてチラホラと見てとれた。

 


 

 客席の男女間のギャップに妙に感心したが。映画自体は実話ベースで面白かった。型破りで破天荒な主人公と、それを眺める画一的な顔ぶれのオッサンたち。何だろうこの落差は……と感慨に浸らずにはいられなかった。
 人生に波風もなくという表現が、適切かどうかは分からない。往年の映画青年がそのまま老けた雰囲気。若作りのセミナー講師が近いかも。昼間から映画が見られるのだから、暇も余裕もあるのだろう。見た目の服装だけが、今の若者と同じなのだ。
 そのせいか途中で「自分はゾンビに囲まれてるんじゃないか?」という、奇妙でSFチックな連想に襲われた。映画ゾンビだ。たぶん暗闇の中にいる自分も、そのうちの一人だろう。(了:全角990字)