キュクロプスの桎梏 -2ページ目

 映画「リズと青い鳥」二回目を鑑賞。一度目に比べると、個々のキャラクター表情だとか、特に楽器の演奏面に注意することができましたが。本稿で述べることは、大きくふたつです。キャラクターの性格や芝居について、そして本作の演出に関わることです。
 本作はテレビアニメ「響け!ユーフォニアム」の続編スピンオフ作品になります。二期では、二年生の傘木希美が吹奏楽部に復帰するのに、鎧塚みぞれや部員たちとの間にひと波乱ありますが……詳しくはそちらをご覧ください。彼女たちは三年生になって、いよいよ進路をどうするか決めなければなりません。大会の本番も近づいています。

 


 

 本編の主人公である、傘木希美と鎧塚みぞれはとても対照的な人物として描かれています。人当たりがよくて後輩の面倒見がよい希美に対して、人とは距離があって誘われても後輩と馴染もうとしないみぞれ。全く対照的なふたりです。
 個性の違いは、見た目だけではなく仕草にも出ています。左右に跳ねるポニーテールの髪、不安になって長髪を撫でる癖、足を組み替える仕草、踵の着地や膝の開きかた。動と静の違いです。身体を斜めにしたり、直立したり。
 ただ気になったのは、序盤はあまり差がないことです。リズムや動作は違うのだけど(あと音効も)、表情の違いは少なめです。あまり目が動かないんですね。気になって目パチをカウントしながら観ていましたが。はっきりと違いが表れるのは、パート練習の後輩女子トークになってからです。朝食はフレンチトーストですね。

 


 俳優で大切な演技の一つが『目の芝居』です(といってもここではアニメですが)。俳優は台詞と目で芝居のタイミングをとります。なので「目の動き」に自覚的なのです。演技の間で気持ちの流れを表現するからです。
 ふたりの芝居を「俳優の演技で」解釈すると、希美は目の瞬きの多い、パチクリした演技になります。周囲の話題にビビッドに反応して、ピントが合った芝居になる筈です。だからこそ「目に見えないもの」は見えません。視界がクリアで見え過ぎているからです。
 対して、みぞれは「希美以外のもの」がハッキリ見えません。希美だけにピントがあっているからです。例外は、オーボエです。それも手段だから、まあ同じに含めても構わないでしょう。彼女と一緒にいたいから演奏するのです。

 


 だから、もっと希美の目は多くのもの追い駆けるし、反対にのぞみはじっと視軸を据えたような目つきをするはずです。ほんの僅かに心が揺れるから、瞬きの回数もずっと少ない。外界にピントが合いません。役者の演技や役作りはこんな具合です。
 無論、アニメは情景を切り取るものでもありますが。キャラクターの個性を、演技や役作りの観点から分解したら、という話です。ここまでが話の前半です。

 

 ベッキー事件の論点は、大きくふたつある。ひとつは「強制があったのか」。もうひとは「不特定多数の視聴者がみる番組で適切だったか」。 繰り返して述べるが「暴力表現と実際の暴力とは違う」。ドラマやスポーツは暴力ではないし、SMプレイも区別すべきだ。ただし強制があれば、暴力になる。売れない芸人やアイドルであれば、無理強いされるケースもあるだろう。ただしベッキーの知名度キャリアであれば、それは考え難い。
 それから安全管理だ。撮影に危険はなかったか。バラエティ番組でも、数年おきに大怪我や死亡事故はある。この場合は、ムエタイも女子選手を使っているので、キックの手(脚)加減や一定の配慮はなされたことになる。

 

 

 ガキの使い特番、笑ってはいけないは大晦日に移動してから11年目になる(トータルで14年)。毎年恒例の番組だ。芸能人が知らないはずはないし、一般視聴者でも番組名くらいは聞いたことがあるだろう。
 ベッキーも然りで、出演すればタイキックなり受けることを覚悟していた筈だ。そうでなくても酷い目に合うことは想像ついただろう。芸能活動は彼女の本業であり、言ってしまえば、「身体を張った仕事」だ。格闘家やプロレスラーに近い。
 アレはつまり「暴力表現」なのだ。キックが痛くて可哀想と思うのは自由だが、それをもって責めるのはお角違いだ。そもそも事件性はない。どこにも被害者はいない。ひとつめの論点は、これで消えたことになる。

 ふたつめだ。「不特定多数の視聴者」だが、これは避けられない。11年も継続していればと思うが。つい知らずに視聴して「暴力表現」にショックを受けたというのであれば、それはもう出会いがしらの事故としか言えない。
 だが需要があって番組が続いていることも忘れて欲しくない。番組を嫌うのは勝手だが、好きなひとも数千万人いるのだ。遠ざけて関わらないのが得策だ。あとついでにいえば、「暴力表現」をイジメに擬えるのはスジが悪い。パワハラや暴力行為は区別すべきだ。

 


 長話にお付き合い頂いて恐縮だが。願わくば、他のバラエティやスポーツ、ドラマに飛び火しないことを。由々しき問題だ。世間には、暴力と「暴力表現」の区別のつかない人があまりにも多過ぎる。

 現実とフィクションとの違いも然りだ。そこからパワハラやイジメ問題に議論は発展する。テレビに限らずとも、俗悪とされる表現がスケープゴートになるのが現状だ。身近で叩き易い材料だからだろう。監督責任もだが、暴力行為の責任は当事者にある。これは鉄則だ。

(全角1900字)

 大晦日に日テレ系で放送された「絶対に笑ってはいけない アメリカンポリス24時」、タレントのベッキーがタイキックを受けた件で非難轟々だが。個人的に思うところがあるので、ブログに記しておく(古くて新しい話題だ)。

 


 論点はいくつかあるが、それほど複雑な話ではない。「暴力表現」の問題だ。これに関する錯誤(誤解というべきか?)がある。これはエンタメ全体に関わる問題だ。暴力的なパワハラ、またイジメを助長するといった論理で語られることが多いが。両者は明確に違う。
 なおベッキーの不倫問題に関しては言及しない。興味関心がないし、全く詳しくないからだ。同様に、罰ゲームの禊(みそぎ)に関しても言及しないでおく。知らないことは語れないからだ。

 まず前提として「暴力表現」と一般的な暴力は違う。映画ドラマにおける危害は「暴力表現」だ。フィクションなので被害者はいない、事件性もない。あくまで劇中で起きてることで、現実の事件と混同するひとは少ないだろう。
 次に、ボクシングやK-1やプロレスといった格闘技だ。俗にコンタクトスポーツと呼ばれる。肉体にダメージを与える競技だが。これは暴力だろうか。それも違う。プロ選手にはライセンスがあって、決められたルールがある。競技を裁く審判やドクターもいる。興行でもあるが、これを暴力という人はいないだろう。

 


 では話が逸れてしまうが、SMプレイはどうだろうか。こちらは性的嗜好であり、「加虐的な暴力行為を楽しむ」ものだろう。サドマゾの役割分担とも言える。ウエルカムの人がいるかもしれないが、誰でも良いわけでもない。
 金銭のやり取りや、信頼関係があって成り立つものだ。偶発的な事故も起きるが。当人たちの了解が前提にある。趣味や性癖に関して、他人がとやかく口を挟むようなことではない。

 もうひとつ行こう。動物を使った大道芸、猿回しはどうか。無理やり芸をしこんだり、餌を与えなければ「動物虐待」になる。芸事(神事)に関しては、慎重に扱うべきだと思うが。動物と人間が違うのは、対等の関係ではないこと。本人の意思が認められないこと。自然の倫理観もあるが、強制性の問題になる。

(後編につづく)