キュクロプスの桎梏
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(※こちらは前回の試論の続き。ブログの更新日は違うが。2018年7月末から、二週間後に加筆したものだ。なお内容的には、ツイッター同様に一部重複する。ツイートが分散してるので探すのは大変だが、読み比べてみるのも良いだろう)


 アナログとデジタルが分かり難ければ、『砂山とブロック山』でも同じこと。アニメは、中間の芝居が雑味(混色)になる。実写と違って曖昧さの許容量が低い。記号や象徴性の表現だからだ。「過程の芝居」が余計な雑味になる。前回はヒントで「モーフィングと塗り絵の違い」だと述べた。

 


 映像表現のモーフィングには、『どちらでもないorどちらでもある』領域がある。見る側の感性や想像力が試される。男と女の顔、男でも女でもない顔、男でも女でもある顔。俳優の芝居は『過程を見せる』ものだ。マクロからミクロまで。演技のニュアンスを積みあげる。
 アニメではそうした過程のズレが、キャラクターとの同調を妨げる。混色や雑味になる。映像に追いつけずに、3合目、4合目で置き去りになる。だから「遅い」という。声優は『自分の間ではない』。役の気持ちの速度が違う。俳優の中途半端で舌足らずな芝居がやたらと目につく。

 


 舞台俳優でも、軽量級と中重量級くらいの隔たりがある。ドラマ俳優だと、もう打撃と組み技くらい性質が違う。だから「歌手やコント芸人の方がまだ適性がある」と述べた。無論、場合によってはだ。普段のイメージが役の印象を左右することもあるが、それは当たり役でも同じだ。
 俳優は役作りのノウハウを活かせるが、基本的な技能が追いつかない。発声の基礎が甘いのもあるが。演技性が正反対なのだ。普通は声の表現力を磨いてからナチュラルに段階が進む。そのステップが大きく抜け落ちてる。声の演技の曖昧さが、観客に違和感となって伝わる。

 キャラや台詞を立てる演技ができなければ、基本向かない。私小説風のリアリズムでは駄目なのだ。贅肉を削ぎ落してコンパクトな、しかも飛躍した芝居の方が有効だ。だが実際には、俳優は流れもツナギも充分に作れていない。芝居の掛け合いも寸刻みでバラバラだ。
 


 実写では、自分を重ねて切り取ることで演技を組み立てる。キャラクター芝居はそうではない。主体と客体との違いだ。このあたりは感覚なので、受け手によって解釈が変わる。誤解を防ぐために詳細は省くが。受け取り方次第では真逆になると注意しておこう。

 俳優は自分の感覚で、普段どおりに役を掴もうとして大体失敗する。キャラクターだから、それは当然だ。アニメ表現は写実よりも、もっと上っ面。表層的で記号象徴的でテクニカル、テンポと切替の芝居。それこそがアニメの長所。

 俳優が演じる場合、まずアウェイからになる。苦手種目に挑戦するようなもの。だが起用する側が、俳優や声優の演技を理解していない。マーケティング戦略にせよ、フシアナだ。

 


 打撃(声の演技)を教えるのに、張り手がある大相撲(俳優)よりはレスリング(芸人)の方が適性があることもある。全身でぶつかって組みにいくのが癖になってる。生っぽさや存在感では物足りない。まあ声優も注意しないと『素振り』にしかならないが(特にゲーム系は)。

 本稿は表現と演技論のための個人的な備忘録である。思い込みも多くて熟慮が足りず、甚だ不完全なものであることをまず申し上げる。くれぐれも注意して取り扱うことをお薦めしておく。ご利用の際には自己責任でお願いする。

◆声優はデジタルの芝居
 まず声優と俳優の違いについて説明しよう。声優はアニメや吹替やゲームもあるが、映像に対して声をあてる芝居だ。またナレーションや企業CMもあるが、ここでは扱わない。あくまで演技に限定する。俳優は映画ドラマ、舞台が活躍の場になる。
 演技の違いには、いくつかあるが(細かくいえば沢山ある)。主観と客観のアプローチの違いになる。役者の感覚では「自分の間で演じるか、他人やキャラクターのタイミングに合わせるか」だ。勿論、アニメの場合は作り手がまた別にいて、彼らが芝居のタイミングを決めている。
 俳優の演技というのは、過程をみせるものだ。喜怒哀楽が仮にあるとして、AからBへの変化を自分の心情に合わせて変化させて見せていくことが、演技の基本になる。つまりアナログだ。演技にはグラデーションがある。
 物語全体の大きなものも、短い台詞でも、それは同じだ。過程の変化を丹念に拾い上げていく。マクロもミクロも同じだ。声優とは、ここに大きな相違がある。アニメ声優の基本はデジタルなのだ。なかば不連続の芝居が前提になる。アニメに必要なのは、演技の速度と切替だ。場合によっては、歌手や芸人の方が向いていることもある。リズム感や演技の軽さが有利に働くからだ。

 


 

 アニメは連続するコマによって構成されている。1秒24コマというフレームによって、映像が作られている。特にリミテッドアニメと呼ばれる手法だが。作画で描くには自ずと限界がある。芝居をみれば、かなり誇張されて飛躍した表現だ。
 俳優が勘違いをしがちなのは、アニメの情報量を落とした芝居でも、自分の速度で演じようとしてしまうことで、タイミングから間合いから何から狂わされる。細かく割る必要がない場面でも、自分の心情に則して演じようとするので、アニメに全く追いつかずに振り落とされる。中途半端で舌足らずな演技をするのは、それなりの理由がある。アニメ用に演技を省略できないことが、根本的な原因だ。

◆モーフィングと塗り絵
 俳優の芝居を、CGの映像表現に喩えれば、モーフィングになる。モーフィングというのはグラフィックス手法で「ある物体が他の物体に変形する」映像だ。物体Aが物体Bに変化する流れを見せるものだ。俳優の演技もこれに近い。
 その変形の過程には「AでもBでもある」瞬間や、「AでもBでもない」瞬間も含まれる。見る側は想像力を働かせて、役の心情をそれぞれに投影する。極端なことをいえば、何も考えてないのかもしれない。カットが適切に繋いであれば、そこに意味は生じる。それが実写の強みだ。翻って、そうした芝居がアニメでは不純物になる。

 


 俳優の演技はグラデーションがあってアナログだが、アニメ表現は基本デジタルだ。むしろ色分けされた方が、演技的には適っている。赤と黄色の中間色を出そうとすれば、かえって色彩は淀んで鈍くなる。芝居は濁ってキレがなくなる。そうした愚を俳優は犯してる。色数が増えるほど、くすんで全体が沈んでしまう。ボソボソした喋りと声調の技術不足が、それに輪をかける。気持ちはあっても、表現の幅がずっと狭い。
 声優の芝居というのは、ある意味で「塗り絵」に似てる。声色の境目がクッキリしてる。アニメ表現の特性と結びついたものだ。ずっと純度が高い。深みがないじゃないかと思われるかもしれないが、そうではない。軽重の切り替えで演技に厚みを出している。二枚刃、三枚刃といえば分かり易いか。キレや速さが中心で、モーフィングではない。それも俳優が誤解しがちなポイントだ。まるで表と裏に顔が描かれた団扇にように、演技がパタリと変わる。

◆俳優の演技とは何なのか?
 アニメは象徴化された芝居で、昨今は表現力の向上も著しいが、映像で描けるものには限界がある。生身と比べたら映像の情報量は、かなり少ない。俳優は動かずに黙ってるだけで芝居になる(極論だが)。逆にいえば、そうした状況に甘えてることに、俳優は無自覚だ。ぼそぼそ喋る方が自然に見える。マイクも拾ってくれる。カメラマンが助けてくれる――それらの演技が、アニメではマイナスに働く。
 例えば、子役を例に挙げよう。ハキハキした元気な子供は、作り過ぎで気持ち悪いと感じるだろう。そんなやつはいねえと。たぶん探せばいるだろうが。現実感覚はそういうものだ。アニメでは最低限それが必要になる。滑舌が悪い役者は使えない。
 アニメの芝居は記号化されたもので(パクというが)、口の動きをみても台詞は分からない。数パターンの口の形で構成されたものだから、口舌が悪いと意味が伝わらない。おいてきぼりにされる。キツイ訛りやモゴモゴした台詞が御法度なのは、そのせいだ。ナチュラルな子供は、それだけで声優として使い難くなる。それは俳優も同じだ。最後にまとめよう。

 


 

◆仮初めのまとめ

 俳優の演技はアナログで、実写の演技術はアニメでは基本マイナスに働く。ナチュラルな演技もそうだが。根本にあるのは、心情変化に対する役者の考え方の違い。俳優は「自分の間で演じる」方法論に慣れ過ぎていて、発想の転換がまずできない。
 アニメ演技というのは、映像の補助的な役割であり、その基本は声調や誇張だ。実は「省略」の芝居でもある。ニュアンスを摘まめない、演技の省略ができない役者は向かない。キャッチさと速度と切り替えが優先される。その不要な物の見極めがつかないと、何度でもミスを繰り返すだろう。 (2400字)

 さて、ここからは作品の演出に関わることです。前編を踏まえたものになります。山田監督はインタビューや取材で「ふたりの歩調は噛み合ってないし、実はズレてる」という話をしていましたが。その言葉は半分正しくて、半分は間違っているように思います。



 

 映画のタイトルにある「リズと青い鳥」は、劇中劇の童話であり、それを題材にした課題曲です。つまり現実の映画、童話、演奏する音楽の三重構造になっています。
 この発想のベースにあるのは『比翼連理』でしょう。中国の故事で、白居易の言葉です。劇中では女子高生の関係ですが。本来は男女の睦まじさ、特に夫婦関係に使われます。どちらが欠けても成立しない、二人で一組という意味です。
 ここに謎かけがあるように思います。まったく対照的なふたりが、コミュニケーションの取れなさ、リズムの噛み合わなさを表現するのに、どうして比翼連理なのか?

 


 具体的に話をしましょう。物語後半、新山先生の個人指導から、第三楽章、理科室のハグまでが『希美の転機』です。あそこで「ふたりの芝居は入れ替わって」います。
 本稿の前編で長々と説明しましたが、みぞれのオーボエにショックを受けた希美は「外界とピントが合わなく」なります。足もとの現実が揺らいで、視界はボヤけて、音楽も遠くなります。自分の現実が覆されたからです。
 反対に解放されたみぞれは、伸びやかに羽ばたいていきます。愛情やしがらみを捨てることが、相手のためになると信じたからです。力強く澄み切った演奏は、部員たちの心を動かします。あの場面で、ふたりの住む世界は入れ替わっています。
 ここまで言えば、説明は不要でしょうが。ふたりは本来的に同じものなんです。前半のみぞれに足りないのは、後半の希美の芝居。前半の希美に足りないのは、後半のみぞれの芝居。ただ、それはまだ二人の間で顕在化していません。

 


 たぶん忘れてる人もいるでしょうが。エンディングの下校シーン。ハッピーアイスクリームの会話ですが、みぞれの表情が柔らかくなっています。彼女の驚いた顔が、希美にそっくりなんです。それに前を歩く希美は気づきませんが。
 もう一歩、もう半歩足りないと書いた理由はそれです。ふたりは似ていないようで、実は似ています。似させることは可能です。ふたりの歩調。青春のつづら折りのような心境変化だけでなく、相補的な関係性にまで、演出が踏み込めたら良かったなと思いました。(2200字)