
前置きは はしょります
からの~いきなり
本来無一物
この五文字の 「禅語」偈
禅宗の寺院などで
良くみるものです
見た方もおられると思います
(知っておられる方はスルーして下さい)
(禅に精通されてる方も恥ずかしいので)
では 続きを
神秀の偈(げ・詩)を聞いた慧能は
神秀の偈に和韻を用いて次の偈(詩)
を人に書いて貰いました。
菩提本樹無し
(じゅな)
明鏡も亦台に非ず
(まただい)(あら)
本来無一物
(ほんらいむいちもつ)
何れの処にか塵埃を 惹かん
(いず) (じんあい) (ひ)
*こんな意味合いだと思います*
菩提という樹も
(菩提もなければ)
明鏡という心もない
(煩悩もない)
本来無一物
塵埃の寄りつくところもないのだから
払拭の必要も無いではないか
この偈を見た門弟たちは仰天しました
禅の絶対性がうたわれているから
しかし、弘忍大師はこの偈に対して
(ぐにん)
「末だし」
(いま)
この一言でこの問題は解決したかに
弘忍大師は密かに衣鉢(正統の禅風)を
慧能に引き継がれたのでした
この時の慧能はただの米つき人夫でした
(学もない下っ端の弟子)
(慧能が門弟になるエピソードなんかもあるのだが)
弘忍大師は慧能を南に逃がし
(高弟達がただの下っ端に渡った衣鉢を取り返そうと)
逃げ延びた 慧能禅師
南方で栄えたのが南宗禅
仏に直結して修行から一気に気付かせる
(悟らせる)
「頓悟」
(とん)
北部で栄えたのが北宗禅
(神秀が率いる)
修行第一に順おって悟りを得る「漸悟」
(ぜん)
この二派にわかれました
慧能禅師の高次の観点から「本来無一物」
「本来なにもない」と絶対的否定
すべての執われる心を「空」しつくした
純粋の「魂」人間性から見た認識です
修行を積み重ね到達した頂点からもう一歩
飛躍してお釈迦様や慧能の得た禅の奥義
「禅心」を
この世は 「無」
万物は実体ではなく「空」に過ぎない
執着するべきものなど何もない
過去や未来にとらわれない
今、生きている この一瞬、一秒を
日々の生活の中で一歩一歩
「ほんまもん」に
近づけたらいいですね
今回はこんな感じになりました
オヤジ的にはどうかな~⁉モヤモヤ)
今はこれで勘弁
模索しながら また書いてみます。
禅を語るには やはり
不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏
この四つの偈を語らなくては!です
不定期ブログになりましょう
期待はしないで下さいね
おもろないブログにお付き合い頂きまして
有り難く思います
*煩悩(欲望、執着、怒りや心身の苦しみを
生み出す精神の働き)
では また