久々に友人と食事をともにする。この2か月、友人から化石と呼ばれていた私にしては、楽しさこのうえない時間だった。なぜ化石と呼ばれていたか、それは、私がとある試験の勉強のために、自習室に籠りっきりになっていたからである。ほとんど自習室から出てこない私の様子が、土の中で眠っている化石のようだというのである。人が目標に向かって我武者羅になっている様を化石と呼んで笑うとは、何とまったく失礼なことだと思った。しかし、ある視点から見れば、それは彼らのユーモアであり、だからこそ私が彼らを好きなのであるから、失礼ではあるけれども、特に問題はなかった。私の中で、「失礼と思うこと」と、「好きだと思うこと」とは矛盾しないのである。
雑談はさておき、その食事の席で、またしても私の試験勉強への取り組み方の話になった。私は、また自分のことを化石と言われて、私が適当に笑ってまぁ楽しくその場を終わるのかと思っていたら、話は少し違った具合に進んだ。どう違っていたかというと、私はその試験勉強で頑張りすぎたから、少し休めというのである。彼らからみると、「私はやりすぎた」らしく、今は何もせずボーっとしているべきらしい。確かに、この度の試験勉強への取り組み方は、傍から見た人にしては、ちょっとやりすぎたと思えるのかもしれない。それほどまでに自分を追い込んだという、妙な、なんとも意味のない自信はある。
しかし、何をもってやりすぎと言えるのか。やりすぎというからには、どの程度の勉強が適度で十分かということが明らかでないといけない。試験勉強、とりわけ受験勉強においては、確かに一般の受験生より少し良くできるくらいで試験には通る。しかし、それは、「一般の受験生がこれぐらいである」という自身の認識の確かさが前提にあって初めて成り立つ話である。その認識が常に確かとは限らない。しかも、受験に臨む者の心理状況は、私自身がいささかいやかなりの小心者であることを考慮に入れたとしても、やはり不安である。どれだけやっても不安であり、「一般の受験生がこれぐらいである」という程度より少し上に自分がいると認識していたとしても、それでもなお不安になるものである。
結局、何が言いたいのかというと、何をもってやりすぎと言えるのか、その判断をするには、それなりの判断基準がなければならないが、その判断基準は、基準を立てる者の認識の確かさに依って立つものであり、かつその基準を立てる者の精神的な不安という要素にも影響されるということである。要は、受験生は、勉強しすぎかどうかの判断基準を正確に立てられない、特に私のような小心者にとっては確実にそうであるというのが、つまるところ私の言いたいことである。
とまぁ、なんともくだらない、蟻のような論点にしかならないことについて、ぐだぐだと書いてみた。だからといって、私が人と違って別段暇だというわけでもなく、政策課題の調査や読書など、やらなければならないことはたくさんある。しかも、私のことを心配してくれた友人の発言に対して、全くもって、心から反論する気はなかった。確かに、やりすぎた。しかしなんだか、書いてみたくなったのである。ただそれだけである。まったくもって他の要因はなく、少しは文章の練習でもしようかという気になった、というのがこれを書いた率直な理由である。