素粒子の観察者効果を
ご存知だろうか。
ざっくり言うと
素粒子は観察されることにより変化する
というものである。
物質を紐解いていくと
分子→原子→原子核→中性子・陽子
→素粒子、となり、
万物は全て、素粒子から成る。
その全てを構成する素粒子が、
変化する要因の「観察者」の定義が
難しい。
「観察者」と言うと、
何か人間のような有機体の
意識を持ったものを想像してしまうが、
量子力学の観察者効果とは、
意識の有り無しは関係ない、
つまり生命体ではなくていい
ということらしい。
それは、意識を持って、
「見る」ということが「観察者」
なのではなく、
意識の介入がなくても
そのモノと違うモノがそこに現れると
それが「観察者」になり得る、
ということである。
意識のある人間でなくても
ただの物質であってもいいのだ。
しかしそれは逆に考えると、
そこに意識を持った人間が介入すると
観察者効果は大きくなる、
と言えるのではないだろうか?
意識のないただの物質で
観察者効果があるなら
意識的に見ることが出来る
人間ならなおさら、ということだ。
人間が意識をもって観察することは
大いなる効果をもたらす、
と言えるのではないだろうか。
つまり、それこそ
ポジティブなことを意識すれば
素粒子レベルでポジティブなことに
変化していく、ということになる。
全てのものは、
素粒子から成るわけであるから
ポジティブ素粒子が
増えれば増えるほどいい、
自分の意識で万物を変えられる
ということだ。
自分も含めて、この世の全てを
自分の意識で変えられるのである。
それはスピリチュアルの世界では
「引き寄せ」と言われている。
だとしたら、常に
ポジティブでいればそれでいい、
なんでも引き寄せられるじゃん、
と思われるだろうが、
そう簡単ではない。
ここでネックになるのが、
以前書いたように、
人間の心は一念三千である、
ということなのだ。
人間が、いつもいつもポジティブで
それのみを、ひたすら考えられる
そんな生き物であるなら、
すぐさま自分をとりまく世界は
変えられるだろうが、
人間の心は一念三千であるから
そうそうすぐには
変えられないのである。
素粒子は不確定で、
「観察者」のような
ちょっとしたことにも反応し、
すぐさまその形を
変えてしまうのであれば、
ポジティブなことにはそれに反応し
ネガティブなことにも反応する。
様々な心でいるうちは、
ポジティブもネガティブも
心の中に混在している状況である。
ポジティブであろうとするならば、
いかに自分の心を
顕在意識も潜在意識をも
仏の境界に出来るか、
ということが重要になってくるのである。
仏の境界とはつまり「慈悲」である。
「慈悲」とは、
「いつくしみ」と「あわれみ」
一切衆生の幸福を願い、
苦しみから救いたい、
と願うことである。
ちょっと壮大過ぎて
良く分からないかもしれないが、
親の、子に対する愛情、無償の愛が、
慈悲に近いのではないかと
思われる。
親は子供を想う時、
そこに見返りを求めたりせず、
ただ子供が幸せであることを願い、
子供が苦しみを感じていたならば、
それらから何とかして救いたい、
と思うものである。
その心こそが、本当の意味での
ポジティブであり得ると
思うのである。
他者の幸福を願えない、
我欲のみの願いであれば
それは単なるわがままである。
おのれさえ良ければ、
ということである。
なので、他者の幸福を願いつつ
そこに自分の幸福も願う、
親が子供を想うように、
一念三千の心を常に仏の境界に
出来ていれば
そうして初めて自分や自分の周りが
ポジティブ素粒子でいっぱいになり
願いは叶いやすくなる、
そういうことなのでは
ないだろうか。
たとえ、そこまで想えなくとも
まずは「感謝」からでも、いいと思う。
感謝は、スピリチュアルでは
重要な要素となってくるが、
それは人ととして
当然と言えば当然のことだ。
生かされていること
ものを食べられること
見ること、寝ること、歩けること、
全て感謝なくしていられるだろうか?
そういうところから自分を見つめ
自分の心が感謝の気持ちで
溢れるようになれば
それは自然に周りに広がっていく。
常にそういう状況を作り出せれば
顕在意識のみならず
潜在意識にも少しずつ波及し
落とし込めていけるだろう。
そういう癖がつくことで、
徐々に慈悲心も養えていけるのでは
ないだろうか。
人として
この世に生をうけたのであるなら
それならばやはり
慈悲心は持ちたいと、
思うものである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
余談になるが…。
量子力学に詳しい人が
スピリチュアルとを関連づけて
説明されているブログが多々ある。
興味がある人は、
是非読まれるといいと思う。
意識の領域とは
一念三千である。
一念三千とは、
仏教の教えの一つであるのだけど
自分で説明するには難しいので
Wikipediaより拝借してみた。
=Wikipediaより=
三千とは法数(ほっすう)の展開である。十界が互いに他の九界を具足しあっている(十界互具)ので百界、その百界にそれぞれ十如是があるから千如是となり、千如是は五蘊(ごうん、ごおん、五陰とも)世間・仮名(けみょう、衆生とも)世間・国土(こくど)世間の三種世間の各々にわたるので三千世間となる。つまり十界×十界×十如是×三世間=三千となる。
十如是とは、如是相・如是性・如是体・
如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・
如是報・如是本末究竟等
(にょぜそう・にょぜしょう・にょぜたい・
にょぜりき・にょぜさ・にょぜいん・
にょぜえん・にょぜか・にょぜほう・
にょぜほんまっくきょうとう)、である。
本当にざっくり言うと
瞬間的に私達が心に思ったことには
これだけの界、世界がある、
ということである。
例えば、瞬間的に「面白い」
と思ったことに対して
そこには「面白い」
と思ったことだけでなく
それに付随して、上記にあげた世界が
全部詰まっているのである。
地獄界も、畜生界も、天界も仏界も、
である。
一つのことに、
人間がどれだけ集中していたとしても
果たして本当に「それのみ」を考えている
と言えるだろうか?
次の瞬間には、違うことが
心の中にあるはずだ。
サザエさん症候群のように
アニメを見ていて笑っていたとしても
「明日月曜日だ〜、仕事だ〜」となり
また次の瞬間には
「仕事行ったらあれしなきゃ〜」
「あいつ嫌だなぁ」などという心が
様々に沸き起こっているのである。
それらの中に、瞬間瞬間に
上記のような界が備わっている
ということである。
なので、人間は完全に「無」
になることなど、出来ないのである。
そもそも、この世に肉体を持ち
エネルギーを得ている以上、
そこには意思があり活動があるので
もうその時点で「無」では
なくなるのだから、当然である。
では、無意識とは何かと言えば
それは潜在意識の領域下である。
普段私達が自分で認識していない意識。
その潜在意識においてもまた
一念三千なのである。
引き寄せが上手くいかないのは
それ故にある。
「ワクワクすることを考える、
その方に意識を向ける」などと
言ってはいても、その実、
人間は一念三千であるが故
ずっとそのことを
考えていられる筈がないのである。
その瞬間に、三千界が
出現しているのであるからだ。
では、何故引き寄せが成功した
という人がいるかというと、
それは、
どれだけそのことに意識を向けたか、
潜在意識に落とし込められたか、
ということであると思われる。
しかし、そこには瞬間瞬間に
地獄界やら仏界やらも出現しているので
自分がどれだけ仏界をあらわせられるか
ということが鍵となるだろう。
自分の私利私欲のため、
あいつを落とし入れてやろう、
などと常に強く思っていたとしたら
そちらの方の力が強くなり
地獄界寄りになるであろうから
当然、上手くはいかないだろう。
このように、人の「意識」には
あらゆる界が出現しており、
そこにまた、あらゆる力が
作用してくるのである。








