ー ねえ



と彼女が言った。



ー なんだい?



と僕は返す。



ー あのカラス達は、夫婦なのかしら?


彼女の視線の先を見ると、そこには確かに、二羽のカラスがいた。
電柱にとまっている。


ー さあ、どうだろう。


ー よく見ると、片方の子はもう片方の子より
     ひとまわり大きいのよ。
     だから、夫婦だと思うんだけど。


ー ああ、確かに、よく見るとそうだね。
    でも、兄弟や親子かもしれないじゃないか。


ー  いいえ、違うわ。
      きっと夫婦よ。


どうしてそんな風にはっきりと言い切れるのだろうかと思ったが、僕は黙って、その二羽のカラスをただ眺めていた。

彼女はうっとりとした表情を浮かべ、そのカラス達に見入っていた。



翌日も、そのカラス達は、同じ電柱にとまっていた。

彼女は例のごとく、そのカラス達を眺めている。

その翌日も、またその翌日も、同じように、カラス達はそこに居て、彼女も嬉しそうに眺めていた。


僕は、そんな彼女が、なんだか少し怖くなった。


それが何日続いただろうか、もう今では、記憶も定かではないが、ある日を境に、カラス達の姿が消えた。


彼女は、ひどく落胆して、その日から、食事をとらなくなってしまった。

日に日に衰弱していく彼女を励まし、慰め、なんとか少しでも、食事をしてもらおうと努力したが、彼女は決して一口も、食べようとしなかった。


とうとう彼女は、起き上がることさえ、出来なくなってしまった。

僕は途方に暮れていて、そんな彼女の側にいることしか出来なかった。


そんなある日の夕方、疲れが出たのか、僕はつい、彼女の側でウトウトと眠ってしまっていた。


気がつくと、もう辺りはすっかり闇に包まれていた。


いけない、寝過ごした!

彼女は大丈夫だろうか?!


慌てて、彼女が寝ているはずのベッドを見た。


ベッドは、もぬけの殻であった。

そこにいるはずの彼女の姿がない。


いや、そんなはずはない。
彼女は、起き上がることさえ出来ない状態だったのだ。

一人で歩いてどこかに行けるわけがない!


それでも、もしかしたら力を振り絞り、ベッドから抜け出したのだろうか。


僕はとっさにそんなことを考えて、彼女の姿を探した。


広くない家だ。

探し回ったとしても、すぐに見つかるはずである。


しかし、彼女の姿は、どこにもなかった。


呆然と立ち尽くしていた僕の耳に、かすかに何か擦れるような音が届いてきた。


なんだろう。


訝しく思いながらも、その音に引き寄せられるようにして、そちらに向かった。


その音がだんだん大きくなってくる。


嫌な予感がした。


行ってはいけない!
そっちには、行きたくない!


しかし、僕の足は止まらない。



嫌だ嫌だ!!!
ダメだ、それはダメなんだ!!
見たくないんだ!!


僕の意思とは反対に、どんどんそちらに引き寄せられていく。



そして、とうとう、それと対峙してしまった。



そこには、一羽の大きなカラスがいた。

それは、青みを帯びた黒々とした羽をばたつかせ、今にも飛び立とうとしている。


その姿を見た瞬間、僕は全てを悟った。


僕は、彼女の名前を呼んでいた。



彼女は、そんな僕を一瞥すると、なんの興味もなさげなふうに窓のところまで歩いて行った。


思わず僕も、その後をヨタヨタとついて行った。


窓の外には、煌々と月が照っている。


そして、あの電柱に、カラスが二羽、とまっていた。


あのカラス達だ!

ダメだ!

行ってはいけない!!


彼女を捕まえようと足を踏み出した途端、彼女は、美しい羽を広げて、飛び立った。


二羽のカラスは、彼女を誘導するように飛び、彼女もそれに従って、みるみる僕の視界から遠ざかっていってしまった。


後に残された僕は、しばらくその場に、立ち竦んでいた。



ふと、足もとを見ると、一枚の艶やかな黒い羽が落ちていた。


僕は、それをそっとつまんで拾い、何故か鼻に近づけると、においを嗅いでいた。

彼女のにおいが、するような気がした。




あの日から僕は、カラスの姿を見る度、彼女ではないかと、名前を呼んでみるのだが、カラスはそんな僕を尻目に、飛び去っていく。



でも、いいんだ。

僕には分かっている。


そのうち、彼女は再び、僕を迎えに、ここに戻って来るのだ。



だって、ほら、その証拠に、僕にも羽が生えてきているのだから。


あの二羽のカラスのように、僕も立派なカラスになって、彼女とまた、二人で一緒に暮らすのだ。



僕は今、その時のことを思うと嬉しくて仕方がない。



ああ、早く、彼女が迎えに来てくれないだろうか。



あの、艶々と黒くて美しい羽をもつ彼女が。





















優しい月




白くひかる




ハートに沁みる




お茶の香り




揺らめくゆげ




カップのぬくもり




わたしに還る




ひととき







顔をあげて


前を見て




ほら




再び


陽の光も


さしてきたでしょう





あなたはいつも


見守られている





雨が降っても


唄いましょう








幾とせを


過ごしてここに


生まれ出づ




あきつ溢るる


瑞穂の大地




かわずの声に


風の音




たなびく雲に


思い馳せ




えにしの深さ


しみじみと




ただありがたき


情けかな




あの日から

とまってしまった

時を超え


その先へと

手を伸ばす


掴むのは

龍の尻尾

鳳凰の羽



わたしには

行けるはず



過去の自分を

全て許し

受け入れよう



それも全て

わたしなのだから





今日はとても
清々しい天気の日であった。

朝は、久方ぶりの
アーチェリー教室に行き
汗を流した。

まだ始めて3カ月。

なかなか身体が
自分の思うようにいかない。

アーチェリーは、
ただ矢を打つだけではない、
自分の精神力と体力と
両方の兼ね合いが大事だなぁ、
と感じるスポーツである。

最近運動をサボっていたので、
筋力が落ちていたこともあり
弓を持つ腕の疲労感が半端なかった。

継続は大事である…。

痛感した。



その後、丹波篠山を散策したが、
そこで、とても美味しいごはんを戴いた。

何も特別な料理を戴いたのではない。


お爺さんが一人でやっている
昔からある古い食堂で、
普段私達の食卓に並ぶような
ごはんである。


そしてその食堂は、それこそ、
昭和の香りがプンプン漂う
まさに「食堂」と呼ぶに相応しいものだ。


お品書きも、申し分ないくらい
食堂の感じがよく出ている。


うん、いいぞ。
実にいい。


こういう食堂は、
かなり好みなのだ。



選んだのは、冷やしトロそば、
イワシの生姜煮、サラダ、厚焼き玉子、
黒枝豆、豚汁、白ご飯。

一人で食べたのではない。
相方と食べたのだが、
これが、ものすごく美味しかったのだ。


これは、皿蕎麦トロロつきである。

蕎麦はコシがあり、
蕎麦つゆの味もほんのり甘く
まろ味があり
蕎麦との相性が抜群で、とても美味しい。

うずら卵も薬味についていて
申し分ない。

トロロは地元の山芋だろう。
ネバリに気合いが入っている。



この写真が、相方の食事である。

パッと見、何の変哲もない料理である。

が、実は、それぞれが個々の存在感を出し、
一つ一つ丁寧に仕上げられている。


そして、それらは、
身体に染み入る美味しさなのだ。


どれもが美味しい。

なんだこれは。



魂が喜ぶ美味しさ、
とでも言うのだろうか。



口に入れ、咀嚼する、
すると、細胞が震えて
喜んでいるような気がする。

胃に入ると、
今度はその喜びが、
ジンワリジンワリと
身体全体に広がり、
そして脳が嬉しさを存分に感じる。



ああ、
こんなに美味しいものが食べられて
本当にありがたいなぁ…。


と、しみじみ思い、
感謝の気持ちでいっぱいになった。


喜びが身体全体を包んだ。





きっと、
あのお爺さんが作った料理は
素晴らしい波動を出していたのだ。



それは、作り手である
あのお爺さんが、
いい波動を出して、
料理を作っているからである。



料理をするときに、

「美味しくなぁれ♪」

と思ったり、実際声に出して
料理をされたことがあるだろうか?


そんな時の出来あがった料理は
とても美味しくなっていたのでは
ないだろうか。


もっと分かりやすい例として
手作りパンと、
工場のオートメーション化で
作られたパンとでは、
明らかに美味しさに違いがある。

それは、素材云々もあるが、
そこに込められている
エネルギーの違いがあるからだ。




私達の思いや声は、
エネルギーである。
エネルギーは波動である。

そしてエネルギーは、物質に影響を与える。
共振するのである。


例えば、
あなたの側に、
イライラしている人がいたとする。

その人が、イライラ感を思いっきり
出していたとしたらどうだろう。

あなたはその人に影響され
落ち着かなくなったり、
こっちまでイライラしたりと、
いやな気持ちになったりするだろう。


それは、そのイライラ波動が
空気という物質をその波動に共振させ、
その空間に居るあなたも、
共振するからである。




今回のごはんの場合は、
あのお爺さんが
いい波動、エネルギーでもって
物質である食材を料理したのだろう。

するとその食材は、
お爺さん波動と共振するので、
素晴らしいごはんが出来上がる、
というわけだ。


そして、
その波動をもったごはんを戴いた私も、
お爺さん波動に共振したのだ。


お爺さんの腕がいいのは勿論だが、
きっと、料理することや
お店で食事を提供することに、
生きがいや喜びを、
感じていらっしゃるのだろう。


その波動が、美味しい料理を生み出し
それを食べた人達がそれに共振し、
そこに感動が生まれる。


なんと美しい輪だろう。



今思い出しても、
本当に美味しいごはんであった。


また、訪れたいものである。

















昨夜は
素粒子の話を書いたが
少し疲れていたのと眠いのと
書いた時間も深夜ということもあり
後で自分で読み返してみると
なんだか良く分からない文章だなぁと、
反省した笑い泣き

やはり、眠い状態をおして
夜中に書くものではないな。

なので、少し文章をなおしてみた。

実は、
仕事場で仲良くしていた人が退職し、
地元の群馬に帰るということで
昨夜はお別れ会として
焼き肉を食べていたのだ。

それで帰ってきたのが
遅い時間であったうえに
普段ガッツリとは
晩御飯を食べないのに、
あろうことか
焼き肉を食べたものだから
なんだか凄く疲れた。

それなのに
何故かなかなか寝付けず、
ならばいっそ、
何か書こうと思って書いたのだが、
それがいけなかったなぁ。


極め付けには、
焼き肉屋さんに持って行ってたカバンが
焼き肉臭をしっかりと纏ってしまい
未だに取れずにいるのには
閉口させられる…笑い泣き


既に過去のことである焼き肉が
まだここにあるかのような
そんな錯覚を感じさせる
匂い…。


ああ、ヤダヤダ…。


焼き肉臭
とれるのかなぁ……。







素粒子の観察者効果を

ご存知だろうか。


ざっくり言うと

素粒子は観察されることにより変化する

というものである。


物質を紐解いていくと

分子→原子→原子核→中性子・陽子

→素粒子、となり、

万物は全て、素粒子から成る。


その全てを構成する素粒子が、

変化する要因の「観察者」の定義が

難しい。


「観察者」と言うと、

何か人間のような有機体の

意識を持ったものを想像してしまうが、

量子力学の観察者効果とは、

意識の有り無しは関係ない、

つまり生命体ではなくていい

ということらしい。


それは、意識を持って、

「見る」ということが「観察者」

なのではなく、

意識の介入がなくても

そのモノと違うモノがそこに現れると

それが「観察者」になり得る、

ということである。


意識のある人間でなくても

ただの物質であってもいいのだ。


しかしそれは逆に考えると、

そこに意識を持った人間が介入すると

観察者効果は大きくなる、

と言えるのではないだろうか?


意識のないただの物質で

観察者効果があるなら

意識的に見ることが出来る

人間ならなおさら、ということだ。


人間が意識をもって観察することは

大いなる効果をもたらす、

と言えるのではないだろうか。


つまり、それこそ

ポジティブなことを意識すれば

素粒子レベルでポジティブなことに

変化していく、ということになる。


全てのものは、

素粒子から成るわけであるから

ポジティブ素粒子が

増えれば増えるほどいい、

自分の意識で万物を変えられる

ということだ。


自分も含めて、この世の全てを

自分の意識で変えられるのである。


それはスピリチュアルの世界では

「引き寄せ」と言われている。


だとしたら、常に

ポジティブでいればそれでいい、

なんでも引き寄せられるじゃん、

と思われるだろうが、

そう簡単ではない。


ここでネックになるのが、

以前書いたように、

人間の心は一念三千である、

ということなのだ。


人間が、いつもいつもポジティブで

それのみを、ひたすら考えられる

そんな生き物であるなら、

すぐさま自分をとりまく世界は

変えられるだろうが、

人間の心は一念三千であるから

そうそうすぐには

変えられないのである。


素粒子は不確定で、

「観察者」のような

ちょっとしたことにも反応し、

すぐさまその形を

変えてしまうのであれば、

ポジティブなことにはそれに反応し

ネガティブなことにも反応する。


様々な心でいるうちは、

ポジティブもネガティブも

心の中に混在している状況である。


ポジティブであろうとするならば、

いかに自分の心を

顕在意識も潜在意識をも

仏の境界に出来るか、

ということが重要になってくるのである。


仏の境界とはつまり「慈悲」である。


「慈悲」とは、

「いつくしみ」と「あわれみ」

一切衆生の幸福を願い、

苦しみから救いたい、

と願うことである。


ちょっと壮大過ぎて

良く分からないかもしれないが、

親の、子に対する愛情、無償の愛が、

慈悲に近いのではないかと

思われる。


親は子供を想う時、

そこに見返りを求めたりせず、

ただ子供が幸せであることを願い、

子供が苦しみを感じていたならば、

それらから何とかして救いたい、

と思うものである。


その心こそが、本当の意味での

ポジティブであり得ると

思うのである。


他者の幸福を願えない、

我欲のみの願いであれば

それは単なるわがままである。


おのれさえ良ければ、

ということである。


なので、他者の幸福を願いつつ

そこに自分の幸福も願う、

親が子供を想うように、

一念三千の心を常に仏の境界に

出来ていれば

そうして初めて自分や自分の周りが

ポジティブ素粒子でいっぱいになり

願いは叶いやすくなる、

そういうことなのでは

ないだろうか。


たとえ、そこまで想えなくとも

まずは「感謝」からでも、いいと思う。


感謝は、スピリチュアルでは

重要な要素となってくるが、

それは人ととして

当然と言えば当然のことだ。


生かされていること

ものを食べられること

見ること、寝ること、歩けること、

全て感謝なくしていられるだろうか?


そういうところから自分を見つめ

自分の心が感謝の気持ちで

溢れるようになれば

それは自然に周りに広がっていく。


常にそういう状況を作り出せれば

顕在意識のみならず

潜在意識にも少しずつ波及し

落とし込めていけるだろう。


そういう癖がつくことで、

徐々に慈悲心も養えていけるのでは

ないだろうか。



人として

この世に生をうけたのであるなら

それならばやはり

慈悲心は持ちたいと、

思うものである。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


余談になるが


量子力学に詳しい人が

スピリチュアルとを関連づけて

説明されているブログが多々ある。


興味がある人は、

是非読まれるといいと思う。






明日発つ君よ

幸運の盃を
共に交そう

君の未来に
幸多かれと

その向こうまで
君の想い出を胸に



明日発つ君よ

良い風が
君のもとへと
吹くように

私は祈ろう

どんな時も
君がくじけぬように



明日発つ君よ

いかづちが鳴り
君を祝している

空は光り
闇夜を照らす

たくましくあれ
我が同胞よ



たくさんの
ありがとうを
君へと
届けよう












意識の領域とは

一念三千である。


一念三千とは、

仏教の教えの一つであるのだけど

自分で説明するには難しいので

Wikipediaより拝借してみた。



=Wikipediaより=


一念とは、凡夫・衆生が日常におこす瞬間的な心(念)をいう。

三千とは法数(ほっすう)の展開である。十界が互いに他の九界を具足しあっている(十界互具)ので百界、その百界にそれぞれ十如是があるから千如是となり、千如是は五蘊(ごうん、ごおん、五陰とも)世間・仮名(けみょう、衆生とも)世間・国土(こくど)世間の三種世間の各々にわたるので三千世間となる。つまり十界×十界×十如是×三世間=三千となる。


十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・
修羅界・人界・天界・声聞会・縁覚界・
菩薩界・仏界に分けられる。

十如是とは、如是相・如是性・如是体・

如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果

如是報・如是本末究竟等

(にょぜそう・にょぜしょう・にょぜたい・

にょぜりき・にょぜさ・にょぜいん・

にょぜえん・にょぜか・にょぜほう・

にょぜほんまっくきょうとう)、である。


本当にざっくり言うと

瞬間的に私達が心に思ったことには

これだけの界、世界がある、

ということである。


例えば、瞬間的に「面白い」

と思ったことに対して

そこには「面白い」

と思ったことだけでなく

それに付随して、上記にあげた世界が

全部詰まっているのである。

地獄界も、畜生界も、天界も仏界も、

である。


一つのことに、

人間がどれだけ集中していたとしても

果たして本当に「それのみ」を考えている

と言えるだろうか?


次の瞬間には、違うことが

心の中にあるはずだ。


サザエさん症候群のように

アニメを見ていて笑っていたとしても

「明日月曜日だ〜、仕事だ〜」となり

また次の瞬間には

「仕事行ったらあれしなきゃ〜」

「あいつ嫌だなぁ」などという心が

様々に沸き起こっているのである。


それらの中に、瞬間瞬間に

上記のような界が備わっている

ということである。


なので、人間は完全に「無」

になることなど、出来ないのである。


そもそも、この世に肉体を持ち

エネルギーを得ている以上、

そこには意思があり活動があるので

もうその時点で「無」では

なくなるのだから、当然である。


では、無意識とは何かと言えば

それは潜在意識の領域下である。


普段私達が自分で認識していない意識。

その潜在意識においてもまた

一念三千なのである。


引き寄せが上手くいかないのは

それ故にある。


「ワクワクすることを考える、

その方に意識を向ける」などと

言ってはいても、その実、

人間は一念三千であるが故

ずっとそのことを

考えていられる筈がないのである。


その瞬間に、三千界が

出現しているのであるからだ。


では、何故引き寄せが成功した

という人がいるかというと、

それは、

どれだけそのことに意識を向けたか、

潜在意識に落とし込められたか、

ということであると思われる。


しかし、そこには瞬間瞬間に

地獄界やら仏界やらも出現しているので

自分がどれだけ仏界をあらわせられるか

ということが鍵となるだろう。


自分の私利私欲のため、

あいつを落とし入れてやろう、

などと常に強く思っていたとしたら

そちらの方の力が強くなり

地獄界寄りになるであろうから

当然、上手くはいかないだろう。


このように、人の「意識」には

あらゆる界が出現しており、

そこにまた、あらゆる力が

作用してくるのである。