規約違反問題の論点(2)

前回に続いて、藤田論文による松竹氏への規約違反指摘の論点整理を行う。

 

今回は、「党首公選制」と「民主集中制」の問題について見ていこう。

 藤田論文より:

日本共産党は、旧ソ連や中国の干渉によって党が分裂した「50年問題」という痛苦の体験を踏まえ、規約で、「党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める」「決定されたことは、みんなでその実行にあたる」「党内に派閥・分派はつくらない」という民主集中制を組織原則として明記(第3条)しており、「党首公選制」という主張は、規約のこの原則と相いれないものです。

ここでは、「党首公選制」は「民主集中制」と相いれないとされているが、なぜ相容れないのかの論理は説明されていない。また、これまでにそのような中身の決定は寡聞にして知らない。まず、第一の論点として、これまでどの決定にもなっていない問題について、「規約のこの原則と相いれないものです」と、藤田氏はあたかも決定事項であるかのように断言してしまっているが、それは規約上問題は無いのか?という点だろう。

 

松竹伸幸氏の除名処分について」(日本共産党京都南地区委員会常任委員会・日本共産党京都府委員会常任委員会 2023年2月6日)でも、次のように断定してしまっている。一体その断定できる根拠となるはずの決定は、いつなされたものなのか?が大きく問われる。

 

「党首公選制」という主張は、「党内に派閥・分派はつくらない」という民主集中制の組織原則と相容れないものですが、

ただし、決定ではないが、2022年8月23日に日本共産党中央委員会党建設委員会の論文という形では、この問題についての考察が発表されたことはある。少々長いが、あえてその部分を全文引用する。

 

「党首を党員の選挙で選ぶべき」との議論に対して――「派閥はつくらない」が大原則

 

 党指導部のあり方にかかわって、「党首を党員の直接投票で選ぶ党首選挙をやるべき」という議論が、一部のメディアなどで言われていますが、わが党が、そうした党首の選出方法をとっていないのには、理由があります。それは、党首を党員の直接投票で選ぶ選挙を行うということになれば、必然的に、党首のポスト争いのための派閥・分派がつくられていくことになるからです。それは、そうした党首の選出方法をとっている多くの他党の現実が証明しています。

 

 わが党は、党規約で、民主集中制を組織原則としています。「民主」とは、党の方針は民主的な議論をつくして決め、党のすべての指導機関は民主的選挙によってつくられるということです。「集中」とは、決まった方針は、みんなでその実行にあたり、行動の統一をはかることです。これは国民に責任を負う政党ならば当たり前の原則ですが、支配勢力の攻撃をはねのけて社会変革を進める革命政党にとっては、とりわけ重要な原則となっています。

 

 この組織原則は、「党内に派閥・分派はつくらない」ことと一体のものです。わが党は、派閥・分派がいかに有害なものかを、身をもって体験しています。「50年問題」のさいに、派閥・分派がつくられて党が分裂におちいったことが、党と社会進歩の事業にとっての計り知れない打撃をもたらしました。1960年代以降の旧ソ連や中国の覇権主義的干渉とのたたかいのさいにも、干渉と結びついた内通者によって党に敵対する派閥・分派がつくられ、これを打ち破ることは無法な干渉を打ち破るうえで決定的意義をもつものでした。派閥・分派を認めていたら、現在の日本共産党はかけらも存在していなかったでしょう。

 

 わが党は、民主集中制という組織原則を守り発展させつつ、支部から中央委員会にいたるまで、多くの国民のみなさん、市民のみなさんに開かれた党となるように努力を続け、双方向の対話や協力を続けています。民主集中制という党の自律的な組織原則の問題と、国民に開かれた党か、閉鎖的な党かという問題は全く別個の問題であり、民主集中制=「閉鎖的な体質」とのレッテルで論断することには、何の根拠もありません。

 

 現在の党指導部について、「まともに選挙もしないで居座っている」という非難がありますが、事実と異なります。わが党は、党大会という最高の意思決定機関で、全国から選出された代議員による民主的選挙によって中央委員会を選出し、中央委員会は、幹部会、幹部会委員長、幹部会副委員長、書記局長などを、民主的選挙によって選出しています。わが党の選挙は、どの段階のものであっても、他の人を推薦する自由、自ら立候補する自由が保障されており、実際に民主的な選挙が行われています。

 

 他の党の多くは、党員などの選挙で党首が選ばれた場合、党首によって党執行部が決定されるという方式となっています。わが党の場合、中央委員会という指導機関を選出し、中央委員会が党指導部という日常的に指導責任を負う集団を選出し、個人の専断を排し、集団の英知を結集した党運営を貫いていることも、民主的特徴となっています。

 

 わが党は、さきに紹介した幹部政策にもとづいて、その時々に、もっとも適切と判断された中央委員会および党指導部を民主的に選んできました。個々の幹部の在任期間の問題は、その結果にすぎません。こうした指導部の選出のあり方こそ、日本社会の根本的変革をめざす革命政党としての日本共産党にふさわしいものであると確信するものです。

要約すると、

「党首公選制は、党首のポスト争いによる派閥・分派が必然であり、分派を禁じる民主集中制の組織原則と相容れない」

ということらしい。

 

しかし、私はこの説明には全く納得できないのだ。

なぜなら、公選する・しないに関わらず、どんな組織でも、その路線や方針で内部の意見の相違が生まれれば、当面どちらを選択するのか?という多数派形成の争いはいつでも発生しうるし、それは全く自然なことだからだ。現在のように、200人の中央委員から委員長を選出する方法であっても、方針への考えの相違が中央委員間で生まれれば、どちらを選ぶのかは、結局代議員多数の賛同を獲得する争いになりうるのだ。

 

むしろ公選制は、そうした路線や方針での多様な選択肢を隠さずに構成員全員に提供することになる。そして、その選択肢から、最も多数の賛同を得た者の方針や政策が選ばれるという点で、その組織の弁証法的な発展や進化を高める方法だろうとすら思える。

 

一方、現状は、基本的に中央常任委員会内部での議論で全ての方針案や政策案が決定された後に一般党員に提示され、それはほぼ微修正以外は受け付けられないので、どんな選択肢が議論の中であったのかは、一般党員にも、党外にも全く分からない。仮にそこに過ちがあっても、それは固定化され、内部からの修正力の発揮はほとんど期待できない。つまり、中央は常に正しい前提の組織となっていて、その批判的検証をほとんど行えない、仮に中央が間違っても、それを正すことがほぼ不可能な組織原則とも言えるだろう。

 

この「民主集中制」の組織原則は、議論よりもリーダーに従って行動することが大事だった革命時の政党には意味があるものだったのかもしれないが、この議会制民主主義が定着した今の社会においては、中央委員会以外が方針や政策策定に関与することを禁止するのではなく、むしろ党内外との自由で多様な議論を可視化して、方針や政策のブラッシュアップをすることの何を恐れているのだろうか?と感じる。

 

規約の「分派禁止」の条項は、現執行部=最大分派に絶対的な権力を与え、その権力に疑義を唱える者を「分派」として排除するために機能しているとも言えるだろう。

 

こうして見ていくと、なぜ現幹部たちがここまで「党首公選制」に強い拒否感を抱くのかが理解出来てくる。彼らにとっては、自らの盤石な権力維持構造を根本からひっくり返しかねない最も恐怖な提案が「党首公選制」なのであろう。そう理解すると、一ヒラ党員である松竹氏を「党を攻撃した」など、連日幹部が講演でも赤旗誌面でも批判の大合唱をする、一般人からは信じられないほど過剰に見える拒否反応の裏側が見えてくるように思う。

 

最近、志位委員長は、党首公選制を行わない理由について、

「直接選挙で選ぶと、党首に権限が集中する。必ずしも民主的だと思っていない」

テレビで述べたそうだ。

 

これは、まさにブーメランな論理だと感じる。

これまで見てきたように、現状の日本共産党の民主集中制の規約では、志位氏をトップにした党幹部に権限が極端に集中し、異論や批判を組織内ですら可視化しようとする行動を「分派」として禁ずるように出来ている。

 

自らへの批判を封じる組織において、20年以上もトップにいた人が「党首に権限が集中する」ことを懸念する。これをブーメランと言わずして何というのだろう?