冬の匂いがする____。


テリュースは、霧の中にぼんやりと浮かぶ暗い海に落ちていく雪を見つめていた。


星の見えない夜の帳(とばり)が下りた闇の世界で、船のともすたよりなげな灯りが空と海を照らし、冷たい夜霧が流れていく。戦下の海を渡る大型客船は通常より灯りを落としているせいか、甲板も薄暗かった。


あと数時間して夜が明ける頃には、大型客船シーナ・センチュリオン号はイギリスサウザンプトン港に入港する。


イギリスに戻ってきた───。


そして、父親に会い、正式にグランチェスター家を出ていくことを告げる。


継母は鼻で笑い、父親は苦虫を噛み潰したような顔で背中を向けるだろう。


止まっていた運命の歯車が、また動き出す。


イギリスが近くなるとなぜか、それがそら恐ろしいような気がして夜半過ぎてもなかなか眠つけず、冷たい風に当たろうと船のデッキに出たテリュースは、煙草をふかしながらチラチラと雪が舞い降りて海にとけるのをぼんやりと見つめていた。ひとつ、またひとつ、暗い海に雪が落ちていく。


───儚いな。


テリュースはわざと声に出して呟いた。声に出して言葉を紡ぐことで、様々な幻想に引きずり込まれそうになる自分をかろうじて現実に留め置こうとでもするように。



あの時も───。こうやって霧の中にぼんやりと浮かぶ暗い海を見つめていた。


真冬のアメリカ。冷たい旅。


何も言ってくれない父親に反抗して飛び出し、母親なら違うかもしれないと淡い期待を胸に渡ったアメリカ。


映画の撮影をしていた母親エレノア・ベーカーは、テリュースを見ると顔色を変え、セットの影に連れ込んだ。そして、美しい瞳を翳らせ『かわいい私のテリィ。でも、もうここへ来ちゃだめよ。あなたが私の息子だということは秘密なんですからね。これですぐにイギリスへ帰ってちょうだい。お願いだから。』


そう耳元でささやいて、無理矢理テリュースのコートのポケットに大金をねじ込んだ。







微かな望みが断ち切られ、絶望の淵に突き落とされた。








父親を。


そして母親を憎んだ。


何より。


誰からも愛されない、そんな価値のない自分を1番憎んだ。


消えちまえ!何もかも!


叶うならば。


惨めな自分を、あの海に溶ける雪のように跡形もなく消してしまいたい───。


そんな想いに捕らわれていた時だった。


アイツに………、キャンディに会ったのは───。


『泣いているの____?』


びっくりしたようにテリュースを見つめるまっすぐな瞳、ソバカスだらけの顔に浮かんだ心配そうな表情。気遣うように、問いかけるように、慰めるように、自分を見つめる緑の瞳。


心に染み入るような柔らかな眼差しだが、どこかりんとした芯の強さがあった。


「あなたがあまりに悲しそうだったから。」


そんなセリフを口にしたキャンディに。


「こいつはいい。この俺が悲しそうだなんて。あっはっは!」


とっさに出たのは、自分の気持ちを誤魔化すための憎まれ口。


「君はそばかすの中に顔があるんだね。気の毒に。」


あの時。


理由もわからず、俺はあの緑の瞳に囚われてしまったのだ。見つめられただけで、心をもっていかれたのだ。その深い森の色の瞳に。


そうあの時から__。






しかし。


恋・・・・、と呼ぶにはあまりに自分の心は冷えて固まっていた。他人との関わりを避けてきた。心から思う女にはどう接したらいいのかなんて習ってなかった。


会えば憎まれ口をたたき、からかった。


自分の気持ちを頑なに拒否し、押さえても押さえても沸き上がる甘酸っぱい気持ちに抗い、否定し、ねじ伏せた。沸き上がる気持ちがなんであるのか、なぜそんな気持ちになるのか、理由は深く考えようとしなかった。


だが。ある時、とうとう。


断罪を受け入れた罪人のように。


「俺の心の中には、アイツがいる。」


テリュースは五月祭のあの日、ひっそりと心の中で「咎(とが)」を告白した。


ソバカスキャンディ、どうやら俺は君にイカレたらしい、と。出会ってきた他の女性たちとはまったく違う。抱く気持ちは最初から別の物だった。


親を知らない孤児のアイツ。


誰にも愛されず、孤独な心を抱える自分。


人には、生まれや育ちとは違う「魂の故郷」があるのだというが、アイツと俺の魂の故郷は同じなのだと今ならわかる。


生まれて初めて出会った心の奥深いところで繋がりあう『もうひとつの魂』


だが、キャンディと別れてから___。


今また、俺の心はあの頃と同じようにひとりで、さ迷っているのだろうか?


自分の心に問いかけるが、答えは返ってはこない。


夜霧は勢いを増して世界を包みはじめていた。もう眼下の海も見えなくなるほどの深い深い霧。


────そろそろ、部屋に戻るか。眠れないまでも入港まで身体を休めておこう。


テリュースが、部屋に戻ろうとしたその時。


一瞬。


霧の中に稲妻が、世界を切り裂くように白い光で満たして、消えた。と同時に耳をつんざく爆音が船尾の方から響き、紅蓮の炎が天に駆け、後を追うように海が砕けた。


ドガガガッーーーーーン!!!


船の後方で大爆発がおこったのがわかった。その爆発にまじって、鉄片や船の部品の残骸が空に向けてはぜて飛び、テリュースのいる甲板に降りそそいた。巨大な船体がしなり、大きくゆれる。


金属の裂ける音、硝煙の匂い。炎が目の前にあがった。地獄の入り口がぱっくりと開けたように見えた。


「Uボートだぁぁぁーーー!!」


甲板の上から見張りの船員の悲鳴にも似た叫び声が上がった。


「Uボートだと?」


テリュースは、落ちてきた船の破片を腕で庇い、かがみ込んだ。







「魚雷が命中したぞぉーーー!!」


「救命ボートをおろせーーー!!逃げるんだ!!!」


乗組員の絶叫が響き渡る。


ウゥゥィーーーン、ウゥゥィーーーン!!!


今まで一度も耳にしたことのない、しかしなぜか警報音だとわかる不吉な音が、船のどこかからけたたましく鳴りはじめた。


「バカな。民間の客船を狙ったと言うのか?」


テリュースは自分の想定が世間のそれと同じように甘かったことを一瞬にして理解した。


そこへまた次の大爆発が起こる。


ドダダダッーーーーーン!!ゴオーーーン!


かがみこんでいたテリュースは、襲いくる爆風で近くにあった鉄の部品と共に吹き飛ばされ、甲板に叩きつけられた。


「・・・うっ。」


積んでいた燃料に引火した爆発なのか、2発目の魚雷なのかはわからない。
2度目の爆発の後、船の灯りがすべて消え、漆黒の闇が襲う。燃え上がる炎の明るさに照らされるのは、船が右舷の方向に大きく傾き、海に沈もうとする姿。



         *画像お借りしました




「助けてくれーーー!!」


「救命艇をーーー!!」


「扉を締めろーーー!!」


「ダメだ!電気系統がやられて隔壁が動かない!」


人々がパニックに陥り、絶叫している声がそこら中に満ちていた。


甲板に投げ出されたテリュースは、自分の右肩が火箸を押し付けられたように熱くなったのに気がついた。


息がうまく出来なかった。手の感覚が薄い。爆風をまともに受けたせいか、暗闇だからなのか、自分の姿すら確認することができなかった。


身動きをすると、手や自分の身体の周りが、ぬるぬるするのに気がついた。


血か?


俺は死ぬのか───?


どくん、どくん、どくん。


テリュースは全身が痛みで麻痺し、ただ自分の心音がやけに耳に響くのを感じていた。


薄れゆく意識の中でテリュースが見たのは、ソバカスだらけの優しい笑顔。まっすぐにこちらを見つめる深い緑の瞳。霧の中に煌めく金糸の髪。


『キャンディ────!!』


そのままテリュースは意識を失った。











「号外!!号外!!」


「ドイツのUボートが、大型客船シーナ・センチュリオン号を爆破!!」


その日アーチーは、いつものように大学に行く途中、車で通りかかったシカゴの中心街で号外が配られ、人だかりができているのに気づいた。


「大変だ、アニー。」


珍しく息せききってブライトン家に駆け込んできたアーチーのただならぬ様子にアニーがあわてて出迎えた。


「どうしたの?アーチー。」


「イギリス沖で、大型客船がUボートに撃沈されたらしいんだが、その船にキザ貴族が……、テリュース・グレアムが乗っていたらしい。」


「・・・えっ?」


「シカゴ市内のあちこちで号外が配られていて、街は大騒ぎになっている。これを見てくれ。」


アーチーは、震える手で薄い号外新聞をアニーに手渡した。


「この号外を読んで……。まず君に知らせなくてはと飛ばしてきたんだ。」


『大型客船シーナ・センチュリオン号、ドイツのUボートに爆破される!』


ただならぬ大きさの文字が新聞上に踊っている。


アニーはアーチーから号外新聞を受けとると、ひとつひとつ確認するかのように小さく声に出して読み始めた。


『アメリカニューヨーク港からイギリスサウザンプトン港に向かっていたシーナ・センチュリオン号が、今朝未明Uボートの魚雷攻撃を受け、サウザンプトン港近くのセント・マリア島8マイル沖で撃沈された。シーナ・センチュリオン号から入った無線によると、当該船は霧のためスピードを落として航行していたところをUボートに追尾され、魚雷攻撃を受けた。最初の無線が入ってから20分ほどで、船からの連絡が途絶え、乗客、乗員の安否などすべて不明である。現在イギリス海軍が調査中。乗員・乗客名簿によると、乗員は650名、乗客は1100名。アメリカ上院議員ジョージ・リード氏、ストラスフォード劇団テリュース・グレアム氏など乗船者は、以下の通り。』



アニーが涙をため、口元を手で押さえた。


「神よ!」


アニーがその号外を見て思い浮かべたのもアーチーと同じキャンディだった。


「テリィがその客船に乗っていたの?」


「ああ、そうみたいだ。彼はイギリス人だし、イギリス行きの船に乗っていても不思議じゃない。ただ、乗客名簿に名前があったとしても最終的に乗らなかったということも考えられる、、、」


アーチーが、蒼白になったアニーを慮るように微かな希望をつけ加える。


「そう……。そうよね。乗らなかったってこともあるかもしれないわ。でも……。」


それがどれほど儚い考えであるのかもアーチーもアニーもわかっていた。だが、キャンディの気持ちを思うとそう願わずにはいられなかった。


「アーチー、とにかく早くキャンディに知らせましょう。ポニーの家まで行ってもらえる?」


アニーが当たり前のように口にするのをアーチーは心から驚いた。


号外新聞を見て、テリュースが船に乗っていたことを知り、アーチーは、キャンディに知らせるべきなのかアニーに相談しようと慌ててやってきたのだが、心のどこかで彼女に伝えても激しく動揺して相談にならないかもしれない、と思っていたのだ。


アルバートさんがシカゴにいれば彼に相談したところなのだが、あいにく南米に出張中で連絡がつかない。アニーと相談できない時はキャンディに知らせる前に、まずは新聞記者をしているパティの両親に詳しい情報を尋ねに行こうとそんなことを考えていたくらいだ。


「アニー、君は今すぐにキャンディに知らせるべきだと思うんだね?彼が乗船していたかどうかもまだ正確にはわからないし、知らせを聞いても、僕たちも、もちろんキャンディも何もできなくて苦しむだけだと思わないか?」


アーチーはやんわりと思ったことを口にする。


「アーチー、すぐにキャンディに知らせるべきだわ。この事件は、どちらにせよ、ポニーの家にいるキャンディの耳に入るし、キャンディはテリィのことなら良いことも悪いことも知りたいと思うはずよ。」


「船が撃沈されたことはいずれ耳に入るだろうが、うまくいけばテリュースが乗っていたことは知らずにすむかもしれないんだ。君が、キャンディの立場でも知りたいと、そう感じるかい?もし僕がこの船に乗っていたら。」


「やめて、アーチー。そんなこと仮にでも口にしないで。確かにキャンディはテリィのことを積極的に知ろうとはしていないわ。でも、絶対にテリィのことは知りたいはずよ。今知らなくてもいつか知ることになるのなら、今知らなくてはならないわ。キャンディの愛する人のことだから、絶対に知らなくては、と思うの。」


アーチーは、臆病で気の弱いアニーの中に、強くて凛としたもうひとりのアニーが息づいていることに気がついた。


愛する人のためなら強くなるアニー。きっとアニーにはキャンディの気持ちがわかるのだ。


「わかった。今からポニーの家に向かおう。」


アーチーは、力強くうなづいた。






次のお話は




今日も拙い私の二次小説を読んで下さってありがとうございます。深く感謝しております。


最近バタバタと忙しくて、ゆっくりと大好きなキャンディの世界に浸り、登場人物に憑依して(笑)妄想することができず、更新が遅れましたこと、申し訳ありません💦


寒くなってまいりました。みなさまご自愛くださいませ💕





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