退院許可 逃病記(6) | 茗荷谷だより ――がん治療日誌

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私自身の大腸がんの治療日誌です


 あさっての18日(土)に退院してよいとの主治医からの許可が、けさ、とうとう出ました。
 先月中旬、急遽入院したのが20日(土)のことでしたから、ちょうど1カ月間の入院です。
 あっという間のようでいて、実際には、いつまでたっても時間が全然過ぎない、無時間の壁に厚く包囲された期間でもありました。

 自分にとって、何か特権的な体験だったと言いたいのではまるでありません。何しろ、肝心かなめの手術の最中には麻酔で眠らされていたのですから、そのとき、私は主体性を一切奪われた純粋の客体にすぎません。
 手術が終わった直後、一時的に目が覚めた(むりに起こされた?)私は弟から、無事に予定どおり終わったようだとの一言を耳にすると、また深い眠りに落ちてしまい、次に目が覚めたときにはすでに、開・閉腹した部分の激しい痛みに、低いうめき声を上げていました。

 それから丸々3日間、開創部の腹部の痛みはおさまりませんでした。
 きょうあたりが痛みのピークだからと何度も言い聞かされながら、何日たっても痛みが引かず、トイレとの往復だけでへとへとになっている私の姿を見て、主治医も真剣に首をかしげていたようです。

 5月10日(金)に手術をして4日目の14日朝、主治医は決断して、閉創部のホックを一部外してわざと傷口をあけ、そこにガーゼ片を詰めた上で、上から大きなガーゼを貼って覆ってしまいました。そして、にわかに抗生物質の点滴を始めました。

 後から聞いたところでは、先生、この手術の合併症である「創感染」の可能性が高いと判断されたようです。そこで、創部をわざと開き(こちらはといえば、猛烈な激痛!)、内部の膿をそこから逃がしてやることで「創感染」の拡大を防いだようです。

 抗生物質の点滴が一本終わったその日の夕方ごろ、単に痛み止めで抑えているのとはちがう平安が全身に訪れました。そして、術後初めて排便がありました。
 私の脳裏に初めて「治癒」の一語が思い浮かんだのはそのときのことです。いえ、がん自体の治療はまさにこれからなのですが、第1段階の、大腸のS状結腸切除手術はどうにか終わったのだということをようやく実感したのでした。









 それがおとといの午後のことです。それから急転直下、退院も決まりました。
 きょうはシャワーを浴びて、開いたままの腹部の傷口の上に、おそるおそる湯を流しました。傷口の写真も撮ったのですが、いささかエグイので、ここには載せません。(^^;;

 「創感染」による私の数日間の苦しみは、がん治療のプランをおくらせるだけで、全く余計なものでした。ただ、それは痛みが和らいできてから思ったことで、痛みの渦中では、それに耐えるだけで手いっぱいでした。

 ちっとも息が楽にならない酸素マスクだの、たえず悲しい痛みを訴えてくる導尿管だの、痛みがちっとも遠ざからない脊髄への痛み止めの注入だの、術後のこの時期は、治療行為がことごとく無効化して、それ自体が新たな苦痛をもたらしているような印象でした。
 よくぞ、あの苦痛の波の中から抜け出てきたものだと、我ながら不思議な気持ちにさえなるくらいです。

 ともあれ退院が決まって、ようやくのこと一歩前進です。





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