外出許可 逃病記(4) | 茗荷谷だより ――がん治療日誌

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私自身の大腸がんの治療日誌です


 5月3日の祝日の午後、入院して2週間たってからようやくのこと、昼食後~夕食前の4時間半ほど外出の許可が出ました。

 この病院へ入院したときは、地元の町医者からタクシーで直接乗りつけてしまったため、入院した6階の窓から外を見おろしても、どちらが池袋でどちらが東京ドームなのか、方向感がまるでつかめませんでした。外出したら、まずは病院の周りをぐるっと回ってみようと思っていました。




 上の写真は、私が入っている6階から見おろした病院の正面の道。道の右手に女性の像と子どもの像が立っていて、病院に来る者を見守っているようですが、こちらに背を向けているため、顔の表情とかはわかりません。

 いざ外に出て、まずは女性の顔を確かめてみようと近づいていったら、遠目にも顔に傷みが走っているのがわかりましたので、それ以上追求するのはやめて、まずは病院の全景を1枚。




 それから、6階から見おろして気になっていた左手の木々の繁み(下写真)が実際にはどんなものなのか、そろそろと歩いて見に行きました。




 すると、そこは整備の極めて行き届いた小さな公園で、うつくしい樹木に囲まれた広場では子どもたちが球遊びをしていました。

 噴水のそばのベンチでは、OL風の若い女性が弁当を広げ、隣のベンチでは、大学生のお兄さんが熱心に携帯でメールを打っていました。




 ようやく現実感覚を取り戻してきた気がして、病院の周りをこれまたとぼとぼと一周した後、地下鉄に乗り、駅ひとつ隣の自宅に帰りました。

 生まれ育った田舎の実家にはちょうど二十歳まで住んでいましたが、都会のこの町には、既にそれ以上の長い歳月暮らしてきています。
 でも、私は、この町に愛情を感じたことはありませんでした。自分の仕事はこの町と地縁でつながっていませんし、数少ない趣味での人づきあいも、この町とは無縁でした。

 30年間暮らしてきたこの町は、もっぱら対立と闘争に明け暮れたじぶんの仕事のための拠点であって、また、そこからの一時避難や休息の場でもありました。それは結局、仕事の一部分を構成する一要素にすぎず、独立し、独自の価値を帯びたひとつの町としては私の目に映っていませんでした。

 でも、2週間ぶりに見るわが町の日常の光景は、「ああ、ここって、実はオレ自身なんじゃん!」と、胸をつまらせ、目頭を熱くさせるに足りるものでした。
 30年以上この町に住んできて、私は初めて、この町への自分の愛情に気づいたような気がしたのです。






 内視鏡検査では、もうお嫁に行けないほどに、おしりからも口からも激しく陵辱されました。そして、その他の検査でも、一匹のけものとしての自分の駄目っぷりをことごとに暴き立てられ、ようやくのこと検査が一通り終わりました。

 入院時は、大腸のS状結腸部における憩室炎との診断が出されていましたが、最終診断結果は、紛れもない大腸がんでした。
 加えて、肝臓への転移が8カ所、肺への転移も1カ所あり、がんのステージとしては最終の第4ステージにまで達しているとのことでした。

 5月10日(金)、大腸のS状結腸部の切除・縫合手術です。
 その後しばらくしてから、肝臓・肺への転移に対する抗がん剤治療が始まります。
 半年後のことし暮れに再検査して、がん転移が拡大しておらず縮小しているようなら、2回に分けて肝臓がんの切除手術を行います。

 抗がん剤治療の効果が見られない場合は手術不可で、その場合の平均余命は2年と宣告されました。
 最悪の場合、柔ら雨は2年後に死にます。それですと、柔ら雨の人生最高の希望である処女詩集の発表が、上梓することはおろか、そもそも作品として完成しませんので、ちょっと勘弁してほしいんですけど、平均余命に従う限りはあと2年。

「こっちはなんも悪いことしてないのに、親がリーチかけて、一発でつもって、裏ドラも3枚乗って、なぜかあんなゴミ手が親っパネで、あっという間に6000点も払わないといけないのって、一体なぜ?」という気分ですかね。
 いえいえ、「なんも悪いことしてない」どころか、からだに悪いことばっかり、とことんやり続けてきましたから、100パーセント自業自得なのはよーく心得ております。

 大腸をぶった切って、ショートカットしてつなげる手術、これは執刀医にお任せするしかありませんね。でも、おもしろそうなので、切るのだけは自分でやってみたい気がします。縫い合わせるのはお手上げですけど。
 長篇マンガの『医龍』に登場する医者たちが患者の体を切ったり縫ったりする技術は、実にすごいものでしたねえ! こればっかりは、体を切られる身としては、果報は麻酔を打たれて眠って待つしかありませんね。

 そして、その後の半年間の抗がん剤治療の期間は、まるで他家3人からリーチがかかったガチンコのツモり合い勝負みたいですね。
 この半年の間というか、いいえ、死ぬまで、柔ら雨の手からタバコは奪い取られてしまったようです(号泣)。なんと理不尽な!
 そして、この間、お酒も当然のことなから取り上げられてしまったようです。我ながらばかばかしく思うくらいの大酒飲みを続けてきましたから、それがなくなるだけでも、わが肝臓は大きな骨休めになりますね。肝臓よ、ゴメンな。

 ところで、私の一番好きな小説は、フランス20世紀の作家・批評家、モーリス・ブランショの『死の宣告』(河出書房新社)です。
 この小説でも、ブランショ自身が医者から「余命○年」との宣告を受けるのですが、ブランショはその余命が尽きた後、何年も何十年も生き続けます。

 今回、何が一番ショックだったといって、平均余命2年という形で、医者が私の生と死に対してひとつの権威として正面から介入してきたことでした。
 これは明らかに、何か一つの犯罪を構成すると思います。それは間違いなく、《詩人》としての私に対する殺人罪です。

 《詩人》として、主治医から一言のもとに殺されてしまった柔ら雨は、これから、抗がん剤の種類や副作用などを中心に、がん及びその治療法について勉強していかなくてはなりません。
 これまでその種の関心を全く持ち合わせていませんでしたので、あまりにも突然、第2の人生が始まってしまったような感じですね。

 でも、そのためには、何はともあれ大腸がんの切除手術が無事に終わらなくてはなりません。
 私自身は麻酔を打たれて寝ちゃっていますが、その際は、せいぜい頑張って寝ていることにします!





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