ぼちぼち収穫祝いのカボチャをくり抜いて仄かな明かりを照らせば、なんだか人肌恋しの風に吹かれてらしくない想いに戸惑うのである。

 まあ、↓↓↓こんな感じである。我が麗しの芸術作品(自画自賛品ともいう)である。


 らしくないのである。ニッチもサッチもどっちもこっちもいけないのである。すでにサイは投げられ、ピンク色の涙なんぞ流すわけでもないが、後生大事にクローゼットのいちばん下の段に仕舞われつづけたブランド品の子供服並みにどうにもこうにも不要品となったようだ。

 流行を追う気はサラサラないのであるが、センタクしたはずの大振りサイズの願いの数々はものの見事に砕け、年老いて粒子と化して秋風に吹き飛ばされそうである。(そんな大げさに驚くほどではないが、独りで赤ん坊をあやしているがごとくである。「いないいないばあ」状態だ)

 時節柄、無性に腹が減る。目の前の料理を一皿二皿と人さらいのごとく平らげ、僅かになった預金残高を尻目にビールにワインにバーボンをグビグビ飲む爽快さといったら、それはもう、隙間に入りきらないせり出した太っ腹加減である。(まったくもって相変わらずのチャランポランいい加減であるが、まだ首を差し出すきもない)さあ、どうしたもんか?

 その癖、天高く馬車馬のごとく働くことはとうに止め、旅人たちを見送るばかりである。(無論この場合、空飛ぶクジラや白装束姿の妖怪たちである——特段の意味はない) 自分のなかでひとつの時代らしきものが確かに終わりを告げているのかと感じはするが、丘の開けた牧歌的な場所に揺れる秋桜に友の姿をかさねてみたいとも想う。(実はこれは秘文だ。意味と文字を抽出すれば簡単だが・・・)不確かながらこれは恋心に違いない。

 異国の地では舞踏会の季節はもう始まったのだろうか?いやその前にジャック・オー・ランタンをかざして君住む街まで出かけようか。いたずら好きではあるが、決してキャンディーが欲しいわけではないことはわかってほしい。自腹をチョコレート型にかえられたなら、すきま風の通り抜けた素晴らしき世界が待っていると信じさせてくれ。12時の鐘が鳴ってしまったようだが、カボチャは食べないように。 らしくないが間違いなくまだ生きてかえるから・・・。

 だが、隙間から出さえすれば、なんとすばらしい世界だ! What a wonderful worldだ!
(はっきりしないのは嫌いだが、余りに具体的なオチである。ニッチもサッチモである)


*サッチモ=ルイ・アームストロング


『あしゅらカブトムシ』(Kindle版)の主人公が生まれ落ちた季節になったのだが、売れ行きはさっぱりである。英翻訳もすっぽかしたままであるが、ここで販促を・・・。






 


反則してまで生きながらえたくはないが、ひらに平にネガうのみである。(色彩のある場所に平積みされたいものである)取り留めがなさ過ぎるので、秋空に飛ぶことにする。(飽き飽きしないように・・・)では!