久しぶりのアフリカネタ
最近の寒波のせいか 酷暑だったアフリカを思い出したり
しかしその記憶は断片的で強弱があり
突然閉まっていた引き出しが開いて
この記憶はあの時のものだったかぁ~ とか
妙にひとりで納得してしまったり
じっくり思い出してみるのも悪くはない
約28年前 旅の思い出
表題のアッサマッカ は サハラ砂漠の真ん中にある 「 町 」
というか 「 村 」 というか 「 集落 」 のような地点
西アフリカのニジェールの国境にあり
対する向こう側は アルジェリアになる
AFRICA N°1 というのはラジオ放送局
今現在でも放送されていてビックリした
フランス語圏のアフリカ放送で
N°1 はナンバーワンのフランス語版の表記
英語の場合だと NO1 となる
ヌメロアン という発音よりかは ヌメホアン
五十音のラリルレロ のロの言い方が
「ホ」 みたいな 「 オ 」 みたいになるので
アフリカ ヌメホォワン
。。。というような聞こえ方
アフリカのラジオ放送のことになる
世界中で放送されている各国それぞれの ラジオ放送は
今の世の中、インターネットがあれば 聞くことできる
という とんでもない凄い世界になっている
ので、 本当に何十年か振りに聞いてみたり
ちょっと今ドハマりしていて 録音して聞いて
アフリカの音のセンスに改めて感動したり
何を歌っているのかは分からなくても
ものすごくパワーを注入されてしまって
そんな事もあって 久しぶりのアフリカネタになった
ちなみに 「 アッサマッカ 」 も
インターネットがあれば グーグルマップを使って
上空から見ることが出来る
という本当に とんでもなく素晴らしい世界になっている
アルジェリア ⇔ ニジェール国境の所
一か所、一本しか道は無いから簡単に見つかってしまう
昔は紙の地図 ミシュランマップが全てだったのに
ヨーロッパを自転車で一年弱 走り回った後
何故か飽きてしまって 気持ちはアフリカへ向き
フランスで着々と準備を進め
とうとうアフリカに突入してしまった
サハラ砂漠を超えて ブラックアフリカへ
当時はテロが多く アルジェリアに入国するのが難儀であった
アルジェリアに入り 広大なサハラ砂漠を超えないと
アフリカへ行くことが出来ない
そして何故か砂漠そのもの
サハラ砂漠が憧れであり
サハラ砂漠縦断が目標になった
マルセイユのアルジェリア大使館でビザ申請に行き
大使に呼ばれて面談の末、 懇願をし
ようやくビザを貰えたのを覚えている
アルジェリアに入国すると
南へ南へと走った
広大な乾いた大地
気候は暑く食料は乏しくなる
ゆで卵が貴重な食料で
常温で腐らず何日も保存できて
各町で手に入り易く値段も安い
アルジェリアの真ん中辺に
レガン と インサラー という町があって
上の地図に緑色の丸で囲ってみたが
その間には当時のミシュランマップには
道路が点々点みたいな
開通していないルートだった
もしくは荒廃して通行困難ルートのような状態で
普通は使わない道になっていた
この上の図は現在のグーグルマップで
ルートナンバーN52と付いていて
道が出来て開通しているようだ
当時のレガンの分岐の所の道路標識
左へ アウレフ方面へ進んだ
今現在はインサラーへと
標識も変わっている事だろうと思う
この地点は大きく地図を見てみると
真っ直ぐ直進をすれば西アフリカのマリへ
左へ行けばニジェールへと進む
大きな分岐点でもあった
なぜこんなに拡大スコープして書いているかというと
赤の四角で囲ったインガールという町の手前で
遭難しかかってしまったからだ
どんどん道が無くなっていき
わだちも無くなって分散しているので
どっちに進んだら良いのかも分からなく
方向も失いパニックになってしまった
インガールまで20キロという道標
しかしこの後 道を失い
誰も人はいない
車も通らない
視界に写るものは砂ばかり
自転車を置いて周りを歩き回って
新しいわだちを探してみたり
右往左往していた
そう言えばアウレフもそうだった
他の町も必ず低い低地に存在していた
道路は高台でも川の跡のような
低い所に木々が生えて
オアシスのようになっていて
そこに人々は住んでいた
その時になぜだかそれを思って
なんか向こう側が低くなっていて
崖のようだなと思い
自転車を引っ張って駆け降りるように進んでいくと
緑が見えた
町があった
そこはインガールだった
時間にしたらそんなに長くはなかったろうが
パニック状態になって落ち着くことが出来なかった
第一村人発見! みたいに人に会って安心したものの
子どものようになっていたと思う
そのアルジェリア人の男は落ち着いていた
全てをもう分かっているかのようだった
泊めてもらえるかと聞くと良いと言った
いくら水を飲んでも収まらないような状態で
当時レモネードという呼び名の
アルジェリア製のジュースが売られていた
もしかしたらガズーズ Gazooz 炭酸飲料
のように言っていたかもしれない
分厚い瓶で1リットルくらいだったか
運が良いと冷たいものがあり
大きな町の店にはあることが多くて
オレンジ味ともうひとつ別の味があった気がするが
今となっては思い出すことが出来ない
それをその男にレモネード レモネードと
だだをこねる 子どものように
そればかり喋っていたと思う
そして今思い返しても 迷惑なヤツだったなと
よく付き合って面倒見てくれたと思う
辺りが暗くなってもねだってた気がする
その度に店に買いに連れていってくれるのだから
その時に泊めてくれた男の家
部屋にシーツというか布があって
そこで寝るというのが一般的だった
黄色い瓶が レモネード だ
懐かしい 今でも売っているだろうか
お世話になったアルジェリア人の男
出発の朝の写真
この赤い服の子供も30過ぎのおじさんになっているだろう
彼は元気でいるだろうか
いると思う
町中のレモネードを二人で探しているときに
電柱のところに フクロウが留まった
その男も珍し過ぎて驚いていたのだから
よっぽどに珍しいことだろうと思う
砂漠の真ん中の地でフクロウが飛んできて
こっちを見ていた
南へ南へと行く程に
人が少なくなる程に
過酷さが増して行って
自分の限界を超える環境に置かれ
体調不良の末に赤痢にかかり
げっそりと痩せて体力は落ちた
今思えば病気に対する備え
旅の技術そのものがなくて
大変に痛い目にあっているのだが
アルジェリア人は親切なので
どこまでも助けて貰ってしまった
ジャンダルメリという憲兵がいるのだが
警察みたいな軍人みたいな感じ
と思って頂ければ良い
どこの街にも居るし
よく検問なんかをやっている
ある憲兵が物凄く心配してくれて
色々と世話を焼いてくれる
本人の好奇心?命令?
もしかしたら監視?
町の市場にはラクダの肉が売っていて
ぶつ切りの骨付きのを買ってきて
スープにして食べてやった
その後に強烈な赤痢の下痢が来たので
憲兵の人に 「 ラクダの肉に当たった 」
と言ったのだが、違う 違う 新鮮だ!
ラクダの肉はフレッシュだと力説された
fresh フレッシュなんて英語?
フランス語もフレッシュだから
もしかしたらフランス語のつもりだったのかもしれない
しかし当時はラクダの肉は新鮮だと
しつこいくらいに否定されたので良く覚えている
それでも病院に車で連れていってくれて
赤痢だと分かり、その足で薬局へも行った
4種類の薬の処方箋を出してくれたけど
薬屋には2種類の薬しか在庫がなく
肝心な1種類のこの薬が無いんですよと言われた
たまたま無いという感じではなく
ずーっと無いという雰囲気
もう普段から医療崩壊になっている
2種類だけでも薬を飲んで
生煮え状態の体調で旅は続いて行く
先進国ヨーロッパで何年自転車旅行をして
知識と経験 体力と自信を付けた所で
アフリカに通用する事は無い
身をもってアフリカの洗礼を受けて
更に南、南へとペダルを漕いだ
街を離れ しはらく自転車を漕いでいると
随分走ったとは思うのだが
一台のタクシーが土埃を上げ 追い付いてきて停まった
運転手が水を沢山積んでいる それを見せ
持っていけと すごく勧めてくる
毒は入ってないと 自分でもラッパ飲みして
とにかく勧めてきた
街を出たばかりだし十分に持っているんだけど。。。
出来るだけ好意は受け取るべき、水を十分に補給した
ある時は後ろから土煙を上げながらトラックが来て
随分まえから減速をして横に止まる
交通量は滅多になく 灼熱地獄
私も悪路で自転車を押していた時かもしれない
ターバンを巻いた強面の男で
無愛想で一言も話さない運転手だったが
後ろの荷台をしきりに指差すので
すまないと思いながらも、手を振って断った
「 後ろに乗せてあげるよ 」 という意味だと思っていて
本当に親切で有り難いんだけど
自分で走る事に意味があるんよね トホホ
灼熱 暑い 暑い
せっかく止まってくれたけど
申し訳ない
超低速ギアから発進し
ゆっくりとトラックが進んでいったのを
本当に親切だなぁ~と 後ろから見送って
荷台の積み荷を見た時に愕然としてしまった
トラックの荷台には ミネラルウォーター
ジュース類が大量に積まれている
もちろんレモネードも
あの悔しさというか後悔
大きな声で 待って とも言えない
日本を出る前にセブンイレブンで夜勤バイトをしていた
寒い思いで飲料品をバックヤードから補充するのだが
アルジェリアを自転車で走るという時に
まさか頭の中はコンビニの冷蔵庫
ショウケースに並んだ清涼飲料水の数々
ずうっと思い巡らす事になろうとは
とにかく暑くて 仕方がない
飲み物は全てお湯の温度が基本
そこで生活の知恵
ペットボトルの周りに布を巻いて
水を掛けて湿らせると
気化熱で中の水が冷たくなるという
理科の実験のようなことを
真面目にアルジェリア人に教えてもらった
ヤギの皮の水袋を思い出した
車の先頭にぶら下げて走行すると
自然に染み出して漏れた水の気化熱で
中の水がいつも冷たい
その冷たさは手にかけられて
火傷するくらいの驚きビックリだった
ジープの前やラクダにもぶら下がっている
手足4本 首の5か所かな?
縛ってあって漏れないけど
自然に滲み出るから気化できる
良く覚えてないが首から水を入れていたような
ケツじゃぁないよな
そんな気がする
ぱっと見は残酷な水筒
残り少ない水はトロトロになるんだよなんて聞いた
そんなヤギの皮の水筒なんて
今も使っているのかな
「 ヤギの皮の水筒 」でググってみた
ひょうたんみたいな画像が出るが
それじゃない
ヤギの全身の皮で作ってある代物なのだが
一枚だけしか画像がなかった
それも小さく
どこだったか
フランス人の女性のいる家があって
夫がアルジェリア人でそこに住んでいた
少し立ち寄って
話をしたのを覚えている
ターバンを巻いたむさ苦しいアラブ人ばかりで
100%男しかいない世界
それがアルジェリア南部
というのは言い過ぎではないと思う
そんな所に透き通ったような白い
お姫様のようなフランス人女性がいて
色々話を聞いて少しの間 滞在した
アッサマッカに一回行ったらしいのだが
ジュネムパと言う 「 嫌いだと 」
本当にひどい所でダルジョン ダルジョン
金くれ 金くれの嵐
国境を越えた途端に大変なことになると
教えてくれた
果樹を育てても良く育たないとか
とにかく不平不満をたんまり聞いて
そこを後にした
一か所給水ポイントがルート上にあって
グーグルマップで良く探してみたけど
分からなくなっていた
タマンラセットという大きな町
その手前にあったはずだった
上の写真が当時のものだが
白いランドクルーザーのサイドの窓の所に
ヤギの皮の水筒が付いている
まったく写真が残ってないかと思っていたけど
発見して少し嬉しく思えた
ここに男がひとり
門番して暮らしているようだった
空になったペットボトルを持って
一本分、水を貰った
そしてここに一泊することにした
ここら辺というのも何だが
寝ようと思ったらどこでも
アルジェリアならテントを張って寝ることができる
それ以前に家があれば泊めてくれる
日本が縦に入っている地図を張ったが
そのくらいのエリア内
どこでも無料キャンプ場
と言ったら言い過ぎだろうか
もちろん住人がいたら許可を得て
いなかったら誰にも見つからないように
悪い奴にだけみつかって
悪い気を起させないよう
それだけ注意すれは大丈夫だ
なぜかあまり明るくない感じの門番だったが
話をしていてふと遠くを見
ヴォンデサーブルといって
家に入ってしまった
遠くの空は黒色の壁で
それがどんどん近づいてくる
砂嵐という事なのだが
何分続いたろうか
テントの中に逃げ込んで
チャックをしっかり閉めたけど
外の砂嵐の激しさに
大変な恐怖を味わった
走っている時だったら どうなっていただろう
テントの中の荷物の隅々まで
細かい砂が入り込んでしまっていた
季節は6月で気象の激しい時だったかもしれない
翌朝にもう一本
ペットボトルの水を貰えないか聞いたが断られた
砂漠で水をくれないという事は稀なのだが
相当に厳しい生活をしているようだった
それは前日に話をして感じていた
タマンラセットは大きな町で
そこを出ると400キロ
なにもなくなる
何日滞在したろうか
調べてみると23日間いた
赤痢からの体調不良もあったり
長居をして養生している間
ニジェールのビザを取ったり
サハラ超えをどうするのか
どうしたらいいのか
考えていても日数ばかり過ぎて
アルジェリアのビザもここタマンラセットで
2回延長している
自転車で砂漠を超えるのか
トラックに乗せてもらうのか
その時の考えの移り変わり
自分自身でもあまり覚えていない
自転車でのサハラ超えの意味
それはほぼ自殺行為に等しいと思う
現在がどういう道路事情になっているのか
それは分からないが当時はそうだった
全力でぶつかっても出来ない事がある
夢を諦めるということを
この時 23歳の日本人青年は学んだ
自転車で行ける所まで行って
途中でトラックに乗せてもらう
最終的にそういう計画になっている
簡単に言うと
とにかく街を飛び出した
ということになってしまった
どれ程走ったろうか
灼熱地獄の中で木陰を見つけて
待つことにした
いつ来るでもないトラック
どれくらい待つのかも分からない
この写真の木の所で待った
そこには小鳥が住んでいて
暑い 暑いと思いながらも
それしか見るものがない
ずっと観察していた
同じ枝の同じ所に留まっては
素早く飛んでいっても
すぐにまた同じ所に戻った
一ミリもズレることなく
同じ所に戻った
毎日毎日そこに留まって
フンも同じ所でするので
山盛りになって枝についていた
あまりにも暑くて
小鳥も気が狂ってしまったのだ
そう思って見ていた
しかし今思えば
この写真の私の自転車には
磯竿が2本積んである
5,3メートルの1,5号と3号の普通よりか
上等なランクの磯竿だ
もちろん釣り道具一式も
ダイワのウイスカートーナメントという
今では骨董品クラスの
リールも2個 替えスプールもある
サハラ砂漠の真ん中でだ
小鳥と自分
イカレ具合で言ったら
どちらが勝っていたろうか
どのくらい時間が経ったのか
覚えていない
トラックの音が聞こえ
トレーラーが近づいてきた
道路に出て車を止めた
どこまで行くのかを聞いて
アッサマッカまで行く
いやアーリットか
いくらで乗せてくれるか
交渉をして
思ったより安く決まり
乗せてもらう事が出来た
砂にハマるポイントがあり
他のトラックと会うこともあった
その時の写真
私はトレーラーの方に乗せてもらっていた
乗る時にタバコは吸うな
絶対に吸うなと言われた
アルジェリアの安いガソリンや軽油を
ニジェールに運んでいる
燃料だけではなく様々なもの
生活雑貨や椅子やドア枠
そして人間も
ドラム缶に入ったガソリンが積まれ
その上にみんな乗っている
夜に走ることもあった
昼間に比べて気温が低い
あまり明るくないヘッドライトで
よく道が分かるなと思っていた
昼間に走る時にはよく休憩をした
みんなトレーラーの下に潜り込んで
直射日光から逃げた
トレーラーの下回りのボルトを締める
整備担当なのだろうか
それらしき係りの少年がいて
メガネレンチを持っていて
下に潜る度に足回りのボルトを締めている
そんなに締まるものなの?
たわいもない話をして仲良くなっていたが
確かにボルトを締めていたので
緩んでいたのだろう
3泊くらいトレーラーの旅が続いた
何を食べ 何を飲んだか
記憶は抜けている
日記帳を読み解けばヒントが沢山出てくるかもしれない
それを読むことはしていない
あたまの片隅に残る
強めの記憶を大事にしたい
アルジェリアの国境の町
インゲッサムに着いて
みんな休憩モードになった
トレーラーの荷台の上からのインゲッサムの町
国境のイミグレーションの建物に泊まった
そこは国境警備の場所でもあって
大きな犬が何頭も放し飼いになって歩いている
あとになって気が付いたが
不法入国者の為に飼っていて
人に襲いかかる犬のようだった
何も知らないで頭などをなでていたら
警備の男にアトンシォン!attention!
気をつけろ!と何度も言われた
そこのイミグレーションで1泊したのだが
確かに 記憶に残っているのだが
ヒョウが降ったのだ
もう暗い夜になってからだが
でかい白い塊の氷が降った
いやまず嵐のようになり雨が降って
カミナリもなったと思う
イミグレーション内が大騒ぎになる
野天に米を置いておいたらしく
男たちが駆り出されて急いで屋内に
運搬させられていた
私も心配でトレーラーに行って
自転車を見に行った
その時にヒョウが降ってきた
今でもあれは本当だったのかと
確信が持てないくらい意外なことだった
インゲッサムとアッサマッカまで距離は近い
でも歩いて行って死にそうになった人物を知っている
猛犬もいるので危険な所だ
いつまでたってもトレーラーが出発しないので
また子供のようにダダをこね
運転手の所に行って
早く国境を越えようよと言いにいった
アルジェリアのビザが切れそうで
冷や冷やしていた
あっさりと
ンじゃ行くかみたいに
トレーラーはアッサマッカに行ってくれた
アルジェリアを出国しニジェールへ入国した
それはアラブの世界を去り
ブラックアフリカへ入ったということになる
そしてニジェールに入国をしたすぐに
アッサマッカで運転手に金を払えと
言われたような気がする
それで両替を100ドルしたのだが
銀行などあるわけないので
両替人に替えてもらう
その頃アフリカ世界ではデノミアシオン
通貨切り下げが行われていて
タマンラセットでも銀行が閉まって
両替が出来ないようになったりしていた
外貨を持っている旅行者にとっては
お金の価値が2倍になったので
ウハウハな話なのだが
アッサマッカは陸の孤島
両替人の名前はアダマとか言ったっけか
悪いやつでレートを譲らなかったと記憶している
どうしても現地通貨は必要だから
半ば強制的に100ドルを言い値で
両替する羽目になった
こっちも頭に来ていたけど
トラベラーズチェックをサインなしで渡してやった
アフリカでは不思議なことに
トラベラーズチェックも道端で
闇両替人と取引が出来ることもあった
換金できるルートがあるのだろう
アッサマッカに到着して早々に
アダマに100ドル取られたようなもので
全く金、金だと嫌な気分でいたのだが
それよりももっと問題だったのが
コンボイを待たなければならないという事だった
治安が悪すぎるので自由移動は禁止
軍隊に守られながら集団で砂漠を移動しなくてはならない
そのことをコンボイ convoy と言った
しかしその日取りもいつになるのか分からないという
流れる情報はみんな噂話で不確定
いつアッサマッカを出れるのか分からなかった
はっきりと定期便で決まっていたのならば
強盗団もその日を襲撃の日にするだろうし
当たり前のことかもしれない
そういうアッサマッカに足止めを食らってるという人も
集落のなかに多数居た
アフリカから逃げ出し豊かな暮らしを求め
砂漠を超えてヨーロッパへ
ヨーロッパに行く寸前にアルジェリアで引っかかって
またアフリカに戻らざるを得ない
戻りのナイジェリア人の若い男とも会った
英語を話す人間が少ないので
よく話をしたりした
多少は金があり有能な人間ほど
行動力があって果敢に壁に立ち向かい
夢破れて舞い戻る
近くて遠いインゲッサム
アッサマッカからの写真
アッサマッカに1週間居ることになった
その間に取った写真は2枚だけ
そのうちの一枚がこの写真
アッサマッカに着いて
両替などのごたごたが終わって
どこに泊まれるのかなと
思っているかいないかのうちに
すぐに憲兵だろうか
役人だったと思う
名前は出てこない
モハメッドかもしれない
近寄ってきて案内され
そこに泊まることになり
結局 1週間いつも一緒に居ることになった
水が欲しければ
給水場所に一緒にいってくれる
ずらっと水筒が並んでいて
大勢順番待ちをしているけれど
旅行者ということで優遇されて
すぐに汲むことが出来た
パイプから水が出っぱなしになっていた
水があるからここに国境ポイントが出来たのか
集落全体はそれ程に大きくはなく
1週間も居たのであちこち歩いたり
でも行くところもなく
何をしていたろう
何を食べていたろうか
そのモハメッドとは朝から晩まで一緒に
生活をしていたと思う
ある晩ピールを飲もうということで
一本買ってきてモハメッドと
砂に少しビール瓶を埋めて
少し水を掛け 例の気化熱で冷やし始めた
交代で団扇で仰いで風を送り
2人で一生懸命 冷やした
そして仲良く2人で飲んだり
今どうしているだろうか
そう アルジェリアでは無理だったが
もうニジェールだ西アフリカなんだ
イスラム教は色濃いが
ビールがあった
そういう事も国境を越えて変わったことのひとつだった
汚い話をひとつ
Gが苦手な人は飛ばした方がいいかもしれない
私は好きでもないし 嫌いでもない
なんでゴキブリが怖いのかは理解できない
ゴキブリを見てキャーという
あなたが怖い
トイレが一か所あって
砂漠に穴を掘って角材を渡し
鉄のブリキ板で囲っただけの便所なのだが
みんなそこを利用する
もちろんボットン便所だけれど
壁一面ではなく四面?
天井もか
でかい羽根のないタイプの種類で
無数に隙間なく壁に付いている
あまり動かないのだが近い
そして平面にびっしりといる
そのおぞましさは中々のものだった
そうっと刺激しないように
用を足してそっと扉を閉めて出た
流石にアフリカンと言えども
その状況が嫌だったのか
いつだか誰かが薬をまいたようで
大部分が減って少なくなった
朝日は大変にきれいなものだった
毎日のように夜明け前に目覚め
そのほんのひと時が過ごしやすい気温だった
真っ赤な太陽が砂漠の地平線から出て
一気に酷暑へと変わる
いつもラジオからAFRICA N°1 が流れていた
一日中付けっぱなしでそのテーマ曲のような
メロディーと日の出の時間が一日の始まりだった
来る日も来る日もいつ コンボイ来るかなと
毎日毎日 期待出来ずに過ごしていた
2枚目の写真はモハメッドとの写真
役人だったと思うし
今この世の中、迷惑が掛かるかもしれないので
白抜きにした
でも28年も前なんだよね
たったの2枚の写真だし
アッサマッカの思い出の写真だ
この部屋で寝泊まりしていたと思う
後ろに男がひとり寝ていて
少しだけ写っている
ナイジェリア人だったか
確かそうだ、英語だった
性病にかかって寝ていて
Woman is dangerous と言っていた
酷暑の部屋の中で化膿したイチモツを出して
ずっと団扇で仰いで苦しそうだった
なぜか家来のような男がよく訪ねてきて
痛々しいイチモツから出る膿をガーゼで拭いて
手当をして出て行った
その日は突然のようにやってきた
コンボイがアーリットから来るらしい
軍隊の車両と トラック集団が
アーリットから北上して来るという事だ
明日出発ということになって
アッサマッカは割とバタバタしだした
トラックヤードではドラム缶の燃料を積み替えたり
大勢の男たちが重労働をしていた
機械なんてないから全部手積みになる
ドラム缶の燃料満タンで何キロあるのか
トラックの荷台に詰め込んでいく
凸凹になったドラム缶を無理にでも荷台に押し込んでいた
その一本のドラム缶から燃料が漏れていた
ジャージャー漏れている
そんなことは構わずに作業を進めて
詰め込んでいく
そばで私は見ていて
たまりかねてドライバーに
燃料漏れているよと言った
そしたら 「 セパポルモア 」
「 俺のじゃない 」 と言う
これぞアフリカ アッサマッカだ
荷台から足回りのタイヤまで
軽油だろうか ジャージャー漏れて
びしょびしょになっていた
多分ガソリンでも扱いは同じなんではないか
恐ろしい
到着して荷主に何か言われようと
あー 漏れてたみたい
で終わりだろう
出発の朝はもっと騒然となった
次のコンボイが2週間後だという噂が回った
そんなに人が居たのかというくらい
人々が荷物を持って出てきて
群がるようにトラックに集まった
物理的に乗れないくらいに集まってしまって
アフガニスタンで米軍輸送機に群がる
そういう映像がつい最近でも日本のテレビで流れた
そんな状況になりそうだったので
私の乗ったトレーラーも慌てて出発をした
全開ベタ踏みでディーゼルエンジンが唸りを上げる
去ってゆく アッサマッカをみんな見ていた
どんどん小くなっていく アッサマッカ
山盛りで乗っていた誰かの荷物がひとつ
落っこちた
ひとりの若い黒人の男がすぐにトレーラーから飛び降りた
自分の荷物だから飛び降りたのだ
しかしトレーラーは止まらなかった
男は大声を上げて身振り手振りで止まれと言っているようだった
鳴こうが叫ぼうが全くスピードを落とすことなく
トレーラーは疾走した
一部始終をみんな見ていた
誰も何も喋らなかった
黙ってみんな小さく小さくなっていく男を見ていた