今日はたまたま考え込んで、
どこかに答えがないだろうかとネットを見てて
こちらのブログを拝読して思ったことを。


「考える」って、意識的に努力しないと
なかなか自然にできないものですよね。

学生時代は、正解を教わって、
聞かれたらその通り答えると褒められる。
それが「優等生」だった。
それだから、すぐ正解を欲しがるクセが抜けないのでしょうか。



今思えば、私のミスコンへのチャレンジは「優等生」の延長線上だったかもしれません。
育ちが良いわけでもない、群を抜いてできることがあるわけでもない、そんな自分がここにいていい理由を「優等生」になることで見出していたような気がします。
ミスコンでグランプリを獲れれば、自分の人生が他人からマル印を貰える気がしていました。



でも私は、ミスコンに出て衝撃を受ける。
「ミスキャンパスとはこういう人」
「こうすればグランプリがもらえる」
という答えがない。正解がない。

自分なりに正解っぽい動きをしてみるけど、見当違いや間違いもあり、思い通りの結果にならない。
グランプリを獲れなかったときには、私は正解を出せない自分に苛立ち、失望し、こんな自分は世の中に必要とされないと嘆いた時期もありました。
いつのまに私は「優等生」じゃなくなったんだろう。自分は落ちこぼれだ、と。



そんな状態から、ひょんなことからキャンパスラボをやり始め、没頭していくわけなのですが、、(それは今回は置いといて、)今こうして社会に出て働いている中でわかったことがひとつ。


私にとって、ミスコンは「社会と関わったはじめての経験」だったと思います。

それまで、バイトは一生懸命やってもうまくいかないことが続けば辞めてたし、部活も習い事も当たり障りなくそこそこに留めて、失敗を避ける。そんな私がはじめて逃げ場なく、正解のない社会に向き合うきっかけがミスコンだったように思うのです。


いろんな人の考えや思いが交差する社会が、ミスコンの舞台。
学内の友達はもちろん、出場者みんな家族や、運営の学生のみんな、そして同じ立場でミスコンにチャレンジしているファイナリストのみんな、さらに、協賛企業の方や、SNSなど様々なメディアを通じて出会う広い世の中の人たち。

たくさんの人たちの思いが交差する中、自分なりに「ミスキャン像」を思い描いて、その理想に少しでも近づくように自分を磨き上げていく。
身体を鍛える人もいれば、メイクを変える人もいるし、スピーチを習いに行く人、人との関わり方を見つめなおして改善する人、人それぞれ、いろんな努力があって、どの努力が正解、ということはない。だからこそ試行錯誤する。

今思えば、私はミスコンで「誤った」のではなく、「考えて動く力を養った」のだと思います。正解がないことを知ることができたこと、そしてその中で自分で考えてやり抜いたこと、それが人生において貴重な経験だったということ。


そろそろ今年度の各大学ミスコンが開始されますが、正解のない中、ミスキャンの皆さんにはぜひ「自分で考えて動いてみる」という経験を前向きに楽しんでもらえたらなーと思います。




そして今日、仕事に悩んで正解を求めてネットをウロウロしているところ、冒頭の記事を発見する。

ああ、また正解を他人に求めてしまっていたか…と反省しつつ、「正解ではなく、ヒントの一つとして自分の考えを深めよう」と自分にムチを打つのでした。



ユズPでした。
おやすみなさい。