●「楽園」で戦争に出会った
ちょっとした空き地に車を停め、そこから林の中の道とは呼べないような道を進む。やがて明るい光があたり一面を照らした。まず目に飛び込んでくるのは、まるで南国リゾートのような景色。言葉では言い表すことができないような、青く澄んだ海、透き通る空の色。沖縄の民謡はこのような場所で作られたものである、と妙に確信めいて思えた。
三線(さんしん)の何ともいえない心地の良いメロディーが聞こえてきそうだ。左右に目をやると、緑が果てしなく広がり、まさに楽園という言葉を思わせる。ここで多くの命が失われたことを忘れてさえいればの話ではあるが。
歩きにくい岩場を進んでいく。うっそうと木が生い茂った中に、注意していなければ通り過ぎてしまいそうな小さい空間がぽっかりと空いていた。中に入ると非常に深く、外とは別世界のジャングルのような風景がある。そこを進むと、すぐ人骨があった。
頭蓋骨ひとつ。割れもせず、汚れもせず真っ白いまま。戦後63年という歳月をまったく感じさせなかった。「たくさん写真を撮っておきなさい」と言われたことを思い出し、カメラを構えたが、シャッターが切れない。ふだん何気なく押しているのに、とんでもなく重いもののように感じた。自分の頭の中に留めておくだけでなく、多くの人に伝えねばと思い直しシャッターを切った。
今なお沖縄では未回収の遺骨や、その場所すら判明していない遺骨が数多く存在している。この現状を一人でも多くの人、特に将来を担う若い世代に伝えていくことが、私たちに与えられた使命だと感じた。
ちょっとした空き地に車を停め、そこから林の中の道とは呼べないような道を進む。やがて明るい光があたり一面を照らした。まず目に飛び込んでくるのは、まるで南国リゾートのような景色。言葉では言い表すことができないような、青く澄んだ海、透き通る空の色。沖縄の民謡はこのような場所で作られたものである、と妙に確信めいて思えた。
三線(さんしん)の何ともいえない心地の良いメロディーが聞こえてきそうだ。左右に目をやると、緑が果てしなく広がり、まさに楽園という言葉を思わせる。ここで多くの命が失われたことを忘れてさえいればの話ではあるが。
歩きにくい岩場を進んでいく。うっそうと木が生い茂った中に、注意していなければ通り過ぎてしまいそうな小さい空間がぽっかりと空いていた。中に入ると非常に深く、外とは別世界のジャングルのような風景がある。そこを進むと、すぐ人骨があった。
頭蓋骨ひとつ。割れもせず、汚れもせず真っ白いまま。戦後63年という歳月をまったく感じさせなかった。「たくさん写真を撮っておきなさい」と言われたことを思い出し、カメラを構えたが、シャッターが切れない。ふだん何気なく押しているのに、とんでもなく重いもののように感じた。自分の頭の中に留めておくだけでなく、多くの人に伝えねばと思い直しシャッターを切った。
今なお沖縄では未回収の遺骨や、その場所すら判明していない遺骨が数多く存在している。この現状を一人でも多くの人、特に将来を担う若い世代に伝えていくことが、私たちに与えられた使命だと感じた。
●韓国人学生と沖縄
日本に留学して2年目になる。韓国でも「韓国戦争記念館」などに、戦争当時の遺品や写真が展示されている。しかし沖縄に出かける前は、うかつなことに「戦争」との関連がよく分からなかった。 私たち取材班は、沖縄南海岸にある場所に着いた。戦争当時の遺骨がそのまま放置されている。私の目に人間の遺骨が飛び込んで来た。大腿骨、頭がい骨などだ。どれほど辛かっただろうか。目が涙でうるんだ。
韓国の戦争博物館で私が見た遺骨も、こういう場所で収集されたのだろう。しかし私自身が現場に行って見た「戦争の現場」は、博物館で見る印象とはまるで異なるものだった。「私はなぜ今まで、このような遺骨を展示品と考えてきたのだろうか」。戦争経験のない私にも、戦時の状況がありありと目に浮かんできた。
韓国人を含む多くの犠牲者を出した沖縄の戦争ーー。いったい誰のための、何のための戦いだったのか。
日本に留学して2年目になる。韓国でも「韓国戦争記念館」などに、戦争当時の遺品や写真が展示されている。しかし沖縄に出かける前は、うかつなことに「戦争」との関連がよく分からなかった。 私たち取材班は、沖縄南海岸にある場所に着いた。戦争当時の遺骨がそのまま放置されている。私の目に人間の遺骨が飛び込んで来た。大腿骨、頭がい骨などだ。どれほど辛かっただろうか。目が涙でうるんだ。
韓国の戦争博物館で私が見た遺骨も、こういう場所で収集されたのだろう。しかし私自身が現場に行って見た「戦争の現場」は、博物館で見る印象とはまるで異なるものだった。「私はなぜ今まで、このような遺骨を展示品と考えてきたのだろうか」。戦争経験のない私にも、戦時の状況がありありと目に浮かんできた。
韓国人を含む多くの犠牲者を出した沖縄の戦争ーー。いったい誰のための、何のための戦いだったのか。
●遊び場が戦跡だった
22年前に沖縄で生まれ沖縄で育った。戦闘機が爆音をたてて飛ぶ光景は、小さいころと変わらない。63年前、沖縄は悲惨な戦場となった。今もなお当時使用された壕(ガマ)が多数存在する。
取材班が訪れた壕は「那覇新都心」と呼ばれる場所の端にあった。そこには、かつて米軍住宅があった。今は開発が進み、大型ショッピングセンターなどが林立する。沖縄戦の激戦地だったのは知っていた。よく遊びに行っていたショッピングセンターの近くに、今も壕が存在する。そのこと自体に私は驚いた。
●壕の違いに驚く
沖縄で起きた事件が他県に県に伝わりにくい。日本なのに日本にいる気がしない。車を走らせ、どのくらいたったのだろう。車が行き交い、ショッピングセンターが立ち並ぶ。ほんの数十分前、遺骨を見たことさえ忘れてしまった私が、そこにはいた。
沖縄滞在の最後の日、旧海軍壕資料館の壕へ向かった。周囲を見渡せる小高い丘の上にある。壕を見て、あ然とした。広さ、天井の高さ、部屋の広さ。私たちが遺骨の収集作業をした壕とは、比べものにならなかった。
線香の匂いが漂う部屋には、自決の痕跡がある。壁の傷、つるはしの跡を触るうち、当時の人々の気持ちが読み取れるような気がしてきた。
数十年前、命がけで走り抜けた人たちいた。「お国のため」「家族のために」と戦った人がいた。その人たちが、まだどこかに眠っている。
沖縄で起きた事件が他県に県に伝わりにくい。日本なのに日本にいる気がしない。車を走らせ、どのくらいたったのだろう。車が行き交い、ショッピングセンターが立ち並ぶ。ほんの数十分前、遺骨を見たことさえ忘れてしまった私が、そこにはいた。
沖縄滞在の最後の日、旧海軍壕資料館の壕へ向かった。周囲を見渡せる小高い丘の上にある。壕を見て、あ然とした。広さ、天井の高さ、部屋の広さ。私たちが遺骨の収集作業をした壕とは、比べものにならなかった。
線香の匂いが漂う部屋には、自決の痕跡がある。壁の傷、つるはしの跡を触るうち、当時の人々の気持ちが読み取れるような気がしてきた。
数十年前、命がけで走り抜けた人たちいた。「お国のため」「家族のために」と戦った人がいた。その人たちが、まだどこかに眠っている。

