「空き家問題」と「里山資本主義」 | 原(ウル)に降りていく

先日、お客さんの中に空き家の処分に困ってるという方がいらして、3人子供さんがおられて、1人は国立病院に勤めるお医者さん。それから後の二人は、公務員という堅い仕事についていらっしゃるそうで、子供たちは独立して出て行ったきり、250坪の空き家を、大阪の四条畷の山手の方で、跡継ぎもなく困ってるいるというお話。山の方にあるので、蛇や虫などがでるのを子供さんたちは嫌がるというお話。でも、40代ないし30代後半くらいの世代でしょうから、子供の頃はそうした自然の中がまだ遊び場だった筈。田舎の土地の放棄化と、生活の場の都市化という問題とが双極化して、引き裂かれているこのような状況がまずあるわけです。ぼくの家の近所でもチラホラ空き家が目立ってきました。都会に住んでる方には、ピンと来ない問題らしいんですが、相当に、いろいろな問題をはらんでいる。大きな社会的な課題となるだろうということは、素人目にも明らかです。

 

ところで、一方で、「里山資本主義」という考え方が少し前から言われています。ぼくの住まいも、そういった里山の残る地域で、山の恵みを中心とした経済とか生活とか、そういうファクターを用いる社会ということが、未来的な生活のモデルとして、考えるべきではないか。という視点です。また各所でそういうムーヴメントがあります。しかし現実的な問題として、事業として、経済活動として成立してゆかない、という壁もあるようです。

古来より、ぼくらの祖先は山や森や湖といった自然の中に抱かれて暮らしを営んできました。自然から得る恵みによって人の生命は生かされている、という道理は今も昔も変わりはないのです。そうしたより根本的なレベルでの問題が、世界的な都市化やグローバル資本主義的な経済のあり方の急進的な増長によって脅かされていくとしたら、これは大きな本末転倒を起こしていると言わざるを得ないでしょう。