沼田杏子は、3年前、ドラッグユタカに就職した。
地元の岐阜に本社のあるドラッグストアのチェーン店だ。
何店舗かのお店で勤めた後、京都の店舗の店長を
命じられた。
杏子の岐阜の実家は、母親が美容院を経営していた。
商店街の小さな小さなお店だったが、それなりに
繁盛していた。
母親は、店を継いでくれるものと思っていたらしい。
杏子も、なんとなく専門学校へ行って、美容師に
なるのだと考えていた。
だが、高校生になって、実家の美容院がだんだん
疎ましく思えるようになった。
いつも、近所の誰かが店に来ていた。
カットしてもらうお客様というわけではない。
ちょっとお茶を飲みに来て、世間話をして行くのだ。
話題のほとんどが、噂話だった。
どこそこの息子さんは、受験失敗してうつ病になった、
とか。誰々の旦那さんが、水商売風の女性と
ラブホテルに入って行くのを見た、とか。
いわゆる、女性週刊誌のネタみたいな話だ。
下手にお店に顔を出そうものなら、
「あー、杏子ちゃん、キレイになったわねー、
ねえねえカレシいるの?」
などと聞いてくる。
いつしか、「私は、絶対、あんな人たちと
関わりたくない」と思うようになっていた。
しかし、ドラッグユタカで働くようになり、
杏子はその考えを少しずつ改めるようになっていた。
地域の人たちに愛される店作り。
それが第一の目標。
そのためには、噂話も貴重な情報なのだ。
どこそこのお婆ちゃんは、目が不自由であまり
外出しない。
公団に引っ越して来たばかりの家族には幼稚園の
お子さんがいて、アトピーで悩んでいる。
そんな情報を得ることも仕事と大きく繋がっていた。
ゴシップ好きというわけではない。
そのお婆ちゃんがたま~に来店されると、
薬や湿布薬の効能を一つずつ読んで差し上げる。
アトピーのお子さんのお母さんには、評判の良い
皮膚科を教えてあげたりする。
今になって、母親の美容院のことを思い返していた。
魚屋さんの奥さんが病気で入院してしまった時、
みんなで「晩ごはんは魚にしようね」とPRした。
美容院は、地域の情報ステーションだったことに
気づいたのだ。
杏子は、京都の店舗に着任して、いきなり
壁にぶち当たった。
近くに、安売りで有名な競合店があるのだ。
どうしたら、あんな安い価格で売れるのか、
不思議でならない。
お客様からもよく言われた。「あそこでは、
コレ98円だよ」と。
そう言われると返す言葉もない。
頑張れば頑張るほど、自分の無力さを痛感した。
ある日。
いつも飲料水やらトイレットペーパーなどを
配達している幼稚園に出掛けたときのことだった。
何やら子供たちが騒いでいる。
「ミーちゃんどうしたの?」
「ミーちゃんは」
何人もの子が、園庭を望む縁側のところで、
ミーちゃん、ミーちゃんと言っているのが聞こえた。
「どうしたんですか」と園長先生の奥さんに尋ねた。
「ああ、そうなのよ。3時のおやつの時間になるとね、
いつも猫がテラスのところにやってくるの。
茶色のシマシマ模様でかわいいのよ。
右耳だけが茶色なの」
誰というわけではなく、3時頃になるとやってくる猫を
ミーちゃんと呼ぶようになった。
黄色い首輪に鈴を付けている。
どこかの飼い猫なのか、それとも捨て猫なのか
わからない。
しかし、幼稚園の人気者なのだそうだ。
ミルクを飲んだ後も、子供たちがミーちゃんの
絵を描いていると、じっと座っている。
抱きかかえても嫌がらない。
一緒に滑り台に連れて行って、上から
滑り落ちたりもする。
ところが・・・。姿を見せなくなり1週間が経った。
子供たちはミーちゃん、ミーちゃんと心配していた。
ひょっとして、交通事故に遭ったのではないか。
そんなことを子供たちの前で口にできるわけもない。
「あのう・・・もしよかったら・・・」
杏子は、ずっと考えていたことを園長婦人に提案した。
「うちの店にインフォメーションボードがあるんです。
お店のイベントとか安売りのチラシとかを貼って
あるんですけど。
それとは別にですね。
もう一つインフォメ-ションボードを作りますから、
迷い猫の案内を出されてはいかがでしょうか」
「あら、それはいいわ。ありがとうございます」
それは二つ返事で決まった。
杏子は、一番お客様の目に留まりやすい
自販機の隣の壁に、新しいボードを設置。
そこへ、園長婦人と子供たちの手作りの案内を
張り付けた。
「迷い猫を探しています」
そこには、幼稚園の女の子と猫の頬を
寄せたツーショットの写真が貼られていた。
杏子は思った。ダメモトでいい。
そう簡単に見つかるはずもない。
でも、何かお役に立ちたい。
形だけでもいいから、地域の人に頼られる
店作りをしたい。
これは、そのきっかけなのだと。
ところが、ところが、である。
駅前の酒屋さんの奥さんから、またまた
頼まれごとを受けた。
今度は、子猫のもらい手を探して欲しいというのだ。
何だか妙なことになってきた。
設置早々のインフォメ-ションボードは、
猫の話題ばかり。
それを見たお客様に「猫専用」だと勘違いされて
しまうのではないか。
そう思いつつ、その依頼も引き受けた。
翌日、酒屋さんの奥さんが、パソコンで手作りした
ポスターを持ってお店にやってきた。
5匹の生まれたての子猫の写真がキレイに写っている。
「お上手ですね。レイアウトも上手いし、
『カワイイ子猫を飼いませんか?』の文字もステキ!」
「あら、ありがとう」
「これならきっと、すぐに引き取り手が見つかりますよ」
そう言い、奥さんをインフォメ-ションボードに案内し、
見やすいように張り付けた。
「え!?」
その時だった。奥さんが、ボードに釘付けになった。
幼稚園の「迷い猫を探しています」のポスターを
指差し、「コレ、どういうことですか」
「え? どういうことって・・・」
「この猫、うちのレモンちゃんですもの」
「えええ!」
「間違いありません。黄色い首輪に鈴。
それより何より、右耳だけこんなふうに茶色なんて
珍しいでしょ」
杏子は、ケータイを手にして、夢中で幼稚園の
アドレスを探した。
すぐそばで、酒屋の奥さんが、いったい何事なのか
という顔をして杏子を見つめていた。
5匹の子猫のもらい手はすぐに見つかった。
すべての話が決まるまでわずか3日。
杏子は、自分の発案ながら、インフォメーシヨンボードの
威力に驚いていた。
5匹のうち、右耳が茶色の子猫2匹は、幼稚園で
飼われることになった。
名前は、オレンジとアップル。
ミーちゃんの本当名前がレモンちゃんだと知った
子供たちが付けたのだった。
まだ、小さいので、幼稚園の建物から外へは
出さないようにしている。
プレイルームには、子猫たちのためのトイレも作った。
「あ! ミーちゃんが来た!」
「ちがうよ、レモンだよ」
「レモン、レモン」
3時になると、再び、ミーちゃん・・・
いやレモンは幼稚園に現れるようになった。
杏子は、思った。
ドラッグユタカを、お母さんの美容院のように
みんなが集まるお店にしようと。
終わり

父も母も今はもういませんが、 人生で大切なことを
教えられ、残してくれました。
父からは『あり方』でした。
みんなから愛されていた父に、 最も愛されていたのは
自分だったということがわかったとき、
父が亡くなったあとも後から後から涙が流れてきました。
それから6年後、桜が舞う季節 。病院主催の
お花見会に参加するため、 病室から小さくなった母を
車椅子に乗せて近くの神社に足を運んでいました。
母が34歳の時に難病のベージェット病が発症した。
母がずっとつけていた日記には、ほとんど毎日のように
微熱や頭痛があると書かれていました。
妹と一緒に、その日記を見ていて辛くなった。
無理をすると発症するからと医者には言われて
いたようだ。
子供たち二人が学校から帰ってきたらお腹を
空かさないように、 いつもお菓子が買ってあった。
お菓子はいつも妹と半分にして食べた。
看護婦をしていた母にとって、毎日のようにお菓子を
買っておくことだけでも大変だったはずだ。
神社には桜が舞っていて、ポカポカと暖かく
気持ちが良かった。
看護師の方たちが おいしいおでんを振舞って
くれている。
よく煮込まれた大根はとろとろでした。
看護師さんからスプーンが手渡された。 今
日は、母にもちょっとだけなら食べさせても
良いという。
病気のため、母の身体がだんだんと動かなく
なっていった。
ついに身体に必要な栄養を毎日3度の点滴で
補うようになっていた。
幼い頃に大火傷を負い、頭皮に後遺症が残った
母のこれまでの人生は 辛かったことのほうが
多かったはず。
いったい何が楽しかったんだろうかと妹と
話したことがあった。
人を傷つけることは決して言わなかった。
誰に対しても優しかったのは人の痛みが
よくわかったからなのかもしれない。
母の病気が進行するにしたがい、
身体の自由が利かなくなった母の身の回りの
お世話をすることが多くなっていった。
そのうち、母を幼い子供のように接するように
なっていた。
「おでんが欲しい?」と聞くと 食べたいという。
久しぶりに人間らしく口からおでんを 食べさせて
あげられることに嬉しさを感じた。
おでんを小さく小さく刻んで、スプーンの上にのせ、
口元に運んで食べさせた。
「おいしい」
母が本当に美味しそうに嬉しそうなので、自分も
本当に嬉しくなり、 嬉しくて、嬉しくて涙が
にじんできた。
口元にスプーンでおでんを運ぶとき、 母が自分が
赤ちゃんの時に今の自分が 母におでんを運ぶのと
同じようにスプーンで 口元に運んでいたときの
映像が入ってきました。
子を思う母の愛情がポンと心に入ってきました。
時を越えて、母の愛を受け取った瞬間でした。
そこには、愛しかありませんでした。
子が存在しているだけで愛おしく感じる心。
自分のすべてを注ぎ込む愛情がそこにはありました。
母の無償の愛を感じて泣き崩れました。
おでんをのせたスプーンを口元に運びながら
無理に微笑もうとすると余計に涙が溢れます。
こんなにも愛されていたんだと思うと涙が
止まりませんでした。
もっと親孝行すればよかった。
もっと作ってくれた料理をおいしいって言って
あげればよかった。
それなのに、こんなにもこんなにも愛されていたんだ。
そう思うと涙があふれて止まりませんでした。
「こんなに素晴らしい行事をしてくださり、
本当にありがとうございました」
感謝の手紙を院長先生宛に出しました。
心から接してくれる看護師さんたちを院長先生に
褒めていただきたかったのです
それ以降、母は友人から呼ばれていたように
看護師さん達からは、 「あっこさん」と呼ばれる
ようになっていました。
母の最期の友人たちでした。
『人には優しくしよう』 これが、母から学んだことです。
それから数年後、最愛の妹にガンが見つかった。
聞いたとき、目の前が真っ暗になりました。
目を開けているのに何も見えませんでした。
祖父母、両親をすでに亡くしている自分にとって、
たった一人でこの世に残されるような虚無感を
感じたのです。
全く現実を受け入れられませんでした。
手術は成功しました。
いまは、再発の可能性がなくなる5年が無事に
過ぎればと思っています。
心の底から気がついたことがあります。
それは、
人生で一番大切なことは、 一番大切なことを
一番大切にすること。
好かれていない人のご機嫌を取るより、
自分を愛してくれている人のために時間をもっと使おう。
でっかいことをしようとするよりも、 いつも
見守ってくれている人が喜ぶことをするために
時間をもっと使おう。
ありがとう、ごめんなさいがちゃんと言える人になろう。
人に迷惑だけはかけない人生にしよう。
嬉しいときには嬉しいとちゃんと伝えよう。
愛している人に愛しているとちゃんと伝えよう。
人生で一番大切なことだから、 親が子供に
一番最初に教えることなんだと思いました。

