運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏)

♪どうせおいらはヤクザな兄貴
わかっちゃいるんだ妹よ
渥美清演ずる車寅次郎は「男はつらいよ」の
3番をこう歌い出す。
その妹さくらが倍賞千恵子である。
たとえ妹がいなくても、それを彼女や母に
置き換えて、世の男どもは次のように続ける。
♪いつかお前が喜ぶような
偉い兄貴になりたくて
もちろん、さくら以外にも倍賞の当たり役は
あるのだが、何せロングランの超人気シリーズ
とあって、倍賞イコールさくらというイメージが
定着している。
渥美さんは私のことを娘みたいに思ってくれていた
そのさくら、いや倍賞と『俳句界』で対談したのは
2014年の暮だった。
話は渥美清の思い出から始まったが、倍賞は
さくら役が少し重荷になっていて、一時
休憩しないかんなと思っていたところ、渥美に
「役者が役名で呼ばれたら、それは
ほめ言葉なんだよ」と言われた。
渥美は家庭を守るためか、友人をほとんど自宅に
連れて行かなかった。
浅草時代からの古いつきあいの関敬六でさえ、
「お前はここで帰んな」と言われたのである。
倍賞は、「寅さん」と騒がれれば騒がれるほど
そうなっていったんだと思うと語っていたが、
それだけに「さくら」に占領されてしまうと苦しんでいる
倍賞を渥美は気遣っていたのだろう。
対談する前、手紙の整理をしていたら、
渥美夫人からもらった手紙が何通か出てきて、
倍賞は読みながら、ぼろぼろ泣いてしまった。
渥美が亡くなってからもなかなか会えず、柴又で
コンサートをやった時に初めて夫人が楽屋に
姿を見せ、黙って2人で抱き合って、ワーワー泣いた。
開演前なのにである。その後の倍賞の言葉を引こう。
「渥美さんが私のことを娘みたいに思ってくれていた
ということも、あとから頂いた手紙でわかったんです。
ちゃんと大切にしなければいけないことをいっぱい
見逃していたんじゃないかしらって後悔しました。
今からでも遅くないし、人と出会ったら、それを
大切にしていこうかなって思っているんです」
倍賞は個性的な役は少ないと言い、
「無個性の個性」と言われたこともあると語ったが、
しかし、高倉健と共演した『駅 STATION』は違った。
内面に激しさを秘めた飲み屋の女将の役である。
「“桐子”ですね。私は、そんなに激しい人とは
思っていなかったんですよ。桐子はさくらさんとは違い、
目の前で男の人が殺されたり、男を待つみたいな
女の部分では随分違っていましたが、私の中では
拒否感もなにもなく、割と自然に入っていけました」
『駅』は美術部が凄かった。
初めて桐子の居酒屋のセットに入った時に、
桐子がこうするだろうな思うところに物が
置いてあったのである。
ゴミを捨てようと、ふっとゴミ箱を見たら、
前の日に捨てたゴミがあったり、おでんの種が
満杯ではなく程よい入り方だったり、テーブルには
タバコの焦がし跡があったり……。
セリフを言いながら、どうにでも動けた。
とてもやりやすくて、かなり長回しでワンカットを
撮っていたけれども、するっといけた。
おかげで自然に動けて、すぐに桐子に
なれたのだった。
生活のにおいをつくり、まき散らす女優
倍賞は、チケットぴあの矢内廣がやっている
俳句の会に入っている。俳号は「ちえこ」。
代表句を尋ねると、「ないです。
1回ほめられたことがあったけど、忘れちゃった」と
言うので、文章を書くことは恥をかくことであり、
俳句をつくるのも同じではないかと受けたら、
こう打ち明けられた。
「私なんか中卒だったから、国語でも数学でも
社会科でも、わからないことがいっぱい
あるんですよ。
だから、勉強するだけですごいなあと思うし、
だから、俳句でいろんな勉強をしたあとの
飲み会が楽しいんです」
中山千夏も同じである。しかし、最後は、
勉強してもこの程度かと思うようになったと
言っていた。
そう伝えたら、「本当は、私もそう思って
いたんです。
社会に出たら、勉強より人間としてどうか
ということが一番大事なんじゃないかなって。
そういった意味でも、寅さんは人間として
大切なものを持ってるんじゃないかなと
思います」と、また寅さんに帰った。
10年ほど続けている『俳句界』の「佐高信の
甘口でコンニチハ!」の中でも、倍賞対談は
極めて評判が高かったが、それが『佐高信の
一人一句』としてまとめられる時、倍賞の項に
私は次のような「まえがき」をつけた。
「倍賞さんは私にとって♪うるわしき桜貝一つ
去りゆける君にささげん の歌のひとである。
と同時に、渥美清が演じた寅さんの
妹さくらでもある。
倍賞さんには、高浜虚子の娘の星野立子の
『たんぽぽと小声で言ひてみて一人』は
どうだろうか」
レコード大賞新人賞を受けた倍賞の
『下町の太陽』は映画にもなったが、その脚本、
監督が山田洋次だった。
あまり華やかさのないこの映画に、当時の
松竹の製作本部長は「こんな写真が当たれば、
苦労しないよな」とため息をついた。
やはり当たらず、山田は干される。
しかし、山田の頭には倍賞という女優の
イメージがくっきりと焼き付けられた。
読売新聞社文化部『この歌この歌手』
(現代教養文庫)で、山田はこう語っている。
「松竹といえば、女優王国といわれ、田中絹代、
高峰三枝子、木暮実千代など数多くの女優が
出ました。
ところが、倍賞千恵子という女優がSKD
(松竹少女歌劇団)から大船にトレード
されてきた時、大きな旋風のようなものを
巻き起こしました。
岩下志麻もデビューしたころでしたが、
彼女はいわゆる松竹の正統派。
ところが、倍賞は、それまでの松竹にはない、
生活のにおいをつくり、まき散らす女優
だったんです。
サンダルばきが似合うというか、リアリズムの
演技ができるスターの出現が、大変新鮮でした」
山田はまた、「彼女は自分の生活、人生を
隠そうともせず、誇りにさえ思っています」と
続ける。
倍賞も「隣の家の玄関をがらっと開けて、
こんにちは、というような作品だと、わたしは
だれよりもうまく表現できるでしょうね」と
語っている。
渥美がまだ生きている時の話だが、
そんな倍賞がスキーで足を折った時、渥美は
こんな見舞いの手紙を出したという。
「痛くてかわいそうだが、だいじょうぶだよ。
あんたはクソババアになるまで女優を
続ける人だよ」・・・・

「母と過ごした時間は決して長くはありませんでしたが、
母がああいう人でなかったら、私はグレて
いたかもしれません」
世界の発明王・エジソンは、晩年のインタビューで、
こう語っています。
エジソンは、白熱電球や蓄音機、映画、謄写版、
アルカリ蓄電池などを次々に発明し、生涯に1200余りの
特許を取得しています。
「グレていたかもしれない」子供を、偉大な発明家に
育て上げた母親とは、どんな人だったのでしょうか?
少年時代のエジソンは、好奇心が強く、
いつも「バカげた質問」ばかりしていたといいます。
父親はうんざりしていましたが、母親は忍耐強く
答えてあげました。
「お母さん、ガチョウは、なぜ卵の上に座るの?」
「温めてやるためよ」
「なぜ、温めるの?」
「卵をかえすためなのよ」
「卵をかえすってなあに?」
「ガチョウの子供を、殻の中から出してやることよ。
ガチョウはそうして生まれるのよ」
「それじゃ、卵をあったかくしておいたら、ガチョウの
子供は生まれてくる?」
「そうよ」
その日の午後、エジソンの姿が見えなくなりました。
家族であちこち捜し回ると、隣の家の納屋にいることが
分かりました。
なんと、ガチョウや鶏の卵をいっぱい集めて巣を作り、
うずくまって温めていたといいます。
8歳で小学校へ入りました。
しかし、彼には学校の授業が合わなかったようです。
興味のわかないものを無理に強いられることに、
拒否反応を示したのでした。
後年、彼は、次のように言っています。
「わたしは学校ではどうもうまくいかなかった。
クラスでいつもビリだった。
先生たちは、私のことを解ってくれないし、父は私を
バカだと思っているのだ、と私はいつも感じていた」
学校に通い始めて三ヵ月ほど経ったとき、エジソンは
校長から、
「あいつの頭は腐っている」と言われたのです。
彼は、怒って教室を飛び出して家に帰り、
「もう学校へ行かない」と言い出しました。
母親は、じっと少年エジソンの表情を見つめました。
そして、何か心に決めることがあったようです。
翌朝、母親はエジソンを伴い、学校に向かいます。
そして、母親がとった行動が、その後のエジソンの
運命を決定づけます。
翌朝、母親は、子供と一緒に校長のところへ行き、
激しく抗議しました。
母は、わが子の能力が低いとは夢にも思っていません。
激論の末、息子を退学させ、自分の手で教育すると
宣言したのです。
母は、朝の仕事がすむと、エジソンに読み書きと
算数を教える毎日が始まりました。
やがてエジソンの興味が、科学に向いていることに
気づいた母は、初等物理の本を与えました。
その中には、家庭で出来る科学実験が図入りで
説明されていました。
彼は夢中になって取り組み、掲載されている
実験をすべてやり遂げました。
10歳になると、化学への情熱も高まり、あらゆる
化学薬品を集めてビンに入れ、自分の部屋の
棚に並べました。
小遣いは全部、化学薬品や金属板や針金の
購入に使いました。
実験中に、自分の部屋で爆発を起こす騒ぎも
ありましたが、母だけがエジソンを理解し、
彼の才能が伸びる方向へ押し出してくれたのでした。
その後、エジソン少年は貧しい家計を救うために、
12歳の時には列車で新聞売りの仕事をやったり、
また耳が聞こえなくなるという苦難にも遭遇します。
しかし、あの日、校長から「頭が腐ってる」と
言われた少年は、あらゆるハンディをものともせず、
次々と自分の夢を実現していくのです。
晩年に、エジソンはこう語っています。
「今日の私があるのは母のおかげです。
母はとても誠実で、私を信頼してくれましたから、
私は母のために生きようと思いました。
母だけはがっかりさせるわけにはいかないと
思ったのです」・・・・
