みなさん、はじめまして。
本日から、「お勧め本と独り言」を始めます。
まず第一弾として、常磐大学教授の湯浅赳男著『日本近代史の総括 日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析』(新評論 2000年7月31日発行)です。湯浅教授は、明治維新以後の日本の置かれた国際的立場を地政学的視点から、中心(中国)、周辺(朝鮮)、亜周辺(日本)という関係からの分析である「東アジア世界体制の解体」、アメリカの西部開拓(先住民の虐殺)から最終地点としての日本・中国の位置づけとしての「日米の宿命の関係」、そして、日本人とユダヤ人を対比した「ユダヤ人の歴史から学ぶもの」に、それぞれを章立てして考察されています。
http://www.shinhyoron.co.jp/books/newb/0493-8.htm
特に、日露戦争から1945年の敗戦を概観して、日露戦争終結後の「ポーツマス条約反対のジャーナリズムの大衆扇動が、1945年8月15日までの日本の道を決めた」(17頁)と述べられています。日露戦争の勝利が、敗戦の道を決めたという論説があることは知っていましたが、マスコミの「大衆扇動」が敗戦への起因であることを指摘した見解は初めてです。当時においても、現代と同様に、いかに、マスコミの責任が大きいかを再度、確認した次第です。
他に、私が興味を持った記述として、次のものがあります。
一つは、「しかし、それは擦り傷程度のもので、日本はそれまでまるごと他民族に征服、支配されたり、他民族を征服、支配したりする経験はなかっただけに、ウブといえばウブ、バカといえばバカな民族であって、敗戦で50年経ってもまだまともに総括もできず、おりにふれてつけ入れられている始末である。」(93頁)
二つ目は、「一方、ロシアの脅威といった外圧があったとはいえ、その問題が解決した日露戦争以後の日本の朝鮮半島政策は全く性急かつ稚拙であったといわざるをえない。
村の巡査から小学校の訓導に至るまで、日本人をこの地に送り込むなど愚劣の極地である。日本がこの国の諸制度の近代化をはかろうとするなど、とんでもないことであった。禿山に樹を植えたなどという人がいるが、こいうのを余計なお世話というのである。
(中略)
ましてやコリア人は伝統的に日本人を文明的に下等な民族として蔑視してきただけに、この野蛮人に支配されるということに我慢ならない。彼らは旧い文明人である中国人や新しい文明人である白人(ロシア人を含む)はまだしも、同じ東アジアの、しかも周辺ですらない亜周辺(文明果つるところ)の日本人には我慢できないのである。」(95~96頁)
上記に加えて、さらに湯浅教授自身が、この本の内容をまとめられたものを次に転記します。私たち日本人にとって、きわめて重要な指摘だと思います。
「この本で明らかにすること
(1) 日本は東アジア文明の刺激によって文明化し、民族形成を行ったが、中国から軍事的=政治的な支配を受けることがなかったので、亜周辺として固有の文明を発展させることができた。このことは19世紀後半に近代文明への積極的な参加を決意することができ、これを実現させたが、そのためには東アジア世界体制(中華朝貢冊封体制)を破壊しなけらばならなかった。したがって、中国とその周辺の朝鮮半島の社会は震撼させられ、しかも近代化で出し抜かれたので、深い恨みを残すこととなった。
(2) 日本は近代文明への参加に成功し、その中心部にすら入ることができた。しかし、近代文明は西ヨ-ロッパ文明から歴史的に発展してきたのであるから、その中心部の欧米諸国にとって日本は異質であって、違和感は避けがたい。のみならず、強力な日本の成立は油断できない競争者の誕生である。したがって、欧米諸国にとっての日本は、利用できるときには利用し、邪魔になるときは排除する対象となっている。
(3) といっても日本が欧米諸国と対抗するために東アジア諸国と結ぶという戦略をとることはこれまで日本にとって自殺行為であったし、これからもそうだろう。東アジア諸国は自分よりも劣位にあると思っている国(日本)に自分たちの伝統的秩序を破壊されたうえ、近代化で出しぬかれたため、日本の孤立を絶妙のチャンスととらえ、自分を半植民地化した欧米諸国と同盟して日本を零落させることを深層心理では望んでいる。(第二次世界大戦の敗北ではまだ不充分と思っている。)民族のプライドは自分より高位にあると思っている国の成功よりも低位にあると思っている国の成功によって癒しようもなく傷けられるのである。
(4) 近代日本は本質的に孤立した国なのであるから、近代文明中心部(欧米諸国)との調和を絶対的な前提として、遠い西アジア、南アジアを重視して、あらゆる国との友好を維持しなけらばならない。その際にもっとも危険なのは東アジアに深入りすることだろう。それは複雑すぎる関係に巻き込まれるおそれを意味するため、いずれとも等しい距離をとらなければならない。このことは難しいかもしれないが、ユダヤ民族の事例と比べれば、日本はまだまだ恵まれていると言わざるをえない。日本人とユダヤ人は20世紀末において非キリスト教徒かつ非ヨ-ロッパ人にして近代文明の中心部に参入しえたたった二つの民族なのである。この意味で、ユダヤ人はセム族であるが他のセム族と違っているし、日本人は東アジア人であるが他の東アジアと違っているのである。(これは20世紀末の厳然たる状況を記述したもので、民族の資質の評価ではない。筆禍を怖れてこの種の記述を避けているかぎり、国際関係史の科学的分析は不可能である。)
(5) ユダヤ人は伝統的文化において明確にオリエントのセム族に属している。早くから国を失って、ディアスポラ(離散)の生活に入ったが、固有の精神生活は頑なに保守してきた。長い間、客人民族としての屈辱に耐えながら、しかし「選民」としてのプライドを固守して2000年近くになろうとしている。この間、イスラーム文明のもとでは、この文明に適応して脱農化し、さらにイスラ-ムが衰退しはじめると、キリスト教国に流れる傾向を見せるが、西ヨーロッパ中世では激しい迫害を受けた。まずフランス、ドイツから追われて、東ヨーロッパに流れ、最後にスペインからも追放された。
(6) ユダヤ人は近代資本主義の勃興とともに、近代化する西ヨーロッパに帰って新しい経済の流れに合流しはじめる。フランス革命をきっかけとして市民権を獲得することで、その国の社会に平等な市民として融合、同化する展望も生み出した。さらに、19世紀にはロシア帝国においてポグロム(集団虐殺)が始まったので、西方へ逃亡する流れが生まれた。しかし、西ヨーロッパでも1894年にドレフェス事件が起こり、近代社会の表層の形式的な平等、深層の陰湿な差別という二重構造が明らかになると、ユダヤ人もやはり民族国家をもたなければ救われることはないというシオニズムを成立させた。これをダメ押しするように近代の偽善性をシニカルにあざわらうナチスのホロコースト(大虐殺)が起こったので、ユダヤ人は1948年に断固として古代ヘブライ王国の故地にイスラエルを建国した。これはアラブ人との間に極めて困難な衝突を引き起こしている。
(7) 日本・東アジア・欧米という三角関係とユダヤ人・イスラーム圏・欧米圏という三角関係はほぼ同じ構造をもっている。日本人とユダヤ人は国際社会におけるコウモリである。ともに哺乳類でありながら、20世紀末現在において鳥のように飛ぶことができる二つの民族なのである。彼らは哺乳類よりするならば、裏切り者であって、東アジアならびに中近東の既成の秩序の破壊者であるから恨まれるのは必然である。といって、近代化へ向かって羽ばたいたとはいえ、優雅に翼を広げる欧米諸国よりすれば、気心のよくわからない異教徒であるから、内心の警戒感をとくことはできない。
(8) 日本人とユダヤ人は意識の表面はともかく、心理の深層では二方面から差別されており、国際社会においてはタテマエはともかく、内心ではとげとげしい関係の中にある。日本人は今後、細心かつ果断に、将来を知的に読みきらなければプライドをもった民族として生存することはおぼつかない。この点、ユダヤ人は2000年の長い苦難の間に耐えぬかれた先見性をもって細心に行動するとともに、必要となったら果断に実行する。アラブ人の憤怒を承知のうえでパレスティナに地政的拠点を打ち込み、それを死守しているのである。それにひきかえ日本人は周辺の民族がそれぞれの自国の利害から宣伝する主張に対し無原則に迎合している。しかしこの迎合の深層には凄まじい反発が渦巻いており、しかもそれが意識化されないため、鍛えられて成熟することがない。つまり、いつまでも幼児的なナルシシズム、その一面であるセンティメンタルな(独り善がりの)「愛」を温存しているのである。今日の課題はこの“箱入り息子”の魂に現実を突きつけて幻想をひっぺがし、アイデンティティを確立させることである。
言うまでもなく、以上の議論は日本人の立場に立ってのものである。このような議論はいかにしたら客観性をもつことができるであろうか。この問いは社会科学に一般的にいえるものである。それは社会科学では問題意識、すなわち立場なくしては認識は成り立たないからである。この問題に対してウェーバーが与えた回答は、認識にあたっては自らの立場そのものにも距離を置かなければならないということである。距離をとることに比例して認識は深まるのである。対象への熱烈な関心と立場との冷静な距離の複合こそが社会科学のエートス(精神)である。なお、本書では対象の概念化にあたって地政学と精神分析を使った。地政学の使い方はすでに説明したが、ここでの精神分析とは民族の大衆心理の成長、成熟をフロイトの性の発展段階の概念を比喩として使うということである。ともに旧来のアカデミズムでは敬遠されきたものだが、無難を求めて無意識に押しとどめておきたい事柄を意識化するためには役立つ道具なのである。」(23~27頁)
注 :「“箱入り息子”」は、原文では、確固書きではなく、傍点が付けられていますが、このブログでは傍点を表示できませんので、「“ ”」を使用しました。
私は、国家間において、民族、宗教が潜在的な対立要因になることには賛同しますが、基本は経済対立だと考えています。また、先のアメリカとの戦争の起因は、中国をアメリカとの“取り合い”だということでは、湯浅教授の見解に賛成です。