朝鮮歴史館


【民団新聞】 「韓国の人にきちんと説明して、在日に対する誤解を解きたい」 ~「祖国へ伝えたい 在日の心」 金智子さん [02/18]


「マイノリティーだからこそ、海外で同胞に出会ったときの感慨はひとしおです」。2007年8月、カザフスタン政府主催の「コリアン・ソングフェスティバル・アリラン」歌謡祭に日本代表として出場した、在日韓国人3世シンガーソングライターのChijaさん(金智子、31)。優秀賞を受賞した

この歌謡祭では、遠い異国で暮らす同胞たちと貴重な時間を過ごし、改めて在日への思いを深めた。現在、東京、神奈川、大阪、韓国(ソウル)を中心に、精力的なライブ活動を行っている。

誤解とき真の姿を 「1世への敬い」も切々と

智子さんがシンガーソングライターになるための第一歩を踏み出したのは大学卒業後。実は昨年までは、OLと二足のわらじを履いての音楽活動だった。
最初の就職でソウルに、そして再就職した商社でロサンゼルスに海外駐在員として勤務した。

韓国語と英語は大学を1年間休学して、ソウルとニューオリンズで各4カ月間、学んだ。韓国語を学ぼうと思った理由は二つ。
一つは日本語の分からない韓国の親戚たちとの懸け橋役になること。そして韓国の人たちに在日の姿を正しく伝えたいという思いからだ。

韓国語学べぬ人達の事情も

在日は韓国語が話せないとか、金持ちとか思っている人は多い。でもさまざまな理由で韓国語の教育を受けられなかった家庭がほとんど。
韓国の人にきちんと説明して、在日に対する誤解を解きたい」。その働きかけは現在も続いている。

ロサンゼルス滞在中、進路を決定する出会いがあった。知人が参加するカラオケサークルに顔を出したときのこと。歌った直後、日本の歌謡界で活躍し、
この地に移り住んでいた2代目コロムビアローズに声をかけられた。「私のレッスンを受けたらもっと声が出る」。
決して自分からは声はかけないことで知られていただけに、サークル仲間たちは驚いた。

小さいころから歌うことが好きだった。迷いなく師事した。約1年間のロサンゼルス勤務を経て帰日。歌手活動をスタートさせた。
03年帰国後、OLになったのは「仕事をしながら歌を聴いてくれる方たちと、同じ立ち位置」でいたかったから。音楽活動は週末に集中した。
同年、友人の紹介で知り合った編曲家の推薦により、キングレコード「はじめてのベビーサイン」に参加し、童謡を歌った。

心に焼きついている出会いがあった。07年8月、カザフスタン政府主催の「コリアン・ソングフェスティバル・アリラン」歌謡祭に日本代表として出場したときのことだ。このイベントは現地の定住同胞で組織する団体が運営していた。海外同胞に関する知識はほとんどなかったという。

「日本から20時間かけていくような国に降り立ち、同じ肌の色で韓国語を学んだからつながれる仲、歌という共通点でつながる仲があったことが嬉しくて、大声で泣きました」

当日歌ったのは2曲。オリジナル曲『消えない時間』は、3世の智子さんが1世への敬いの意を込めて書いた作品で、とにかく生きようと、死に物狂いで子孫を守り貫いてきた、1世たちの想いを描写した。詩中の「陽炎」は韓半島をさす。

なんにもなくて、失うものさえ。 陽炎眺め 泣いた日々 見上げれば 蒼い空 こんなはずではないと砂を噛み 空き地の隅に目をやると ムグンファがほら咲き誇る

またこの曲は、白頭学院建国学校の草創期と当時の世相を映像に納めた貴重なモノクロフィルムをビデオ化した作品に書き下ろし、提供した。

思春期につらいできごとがいくつも重なった。一人旅は孤独だった。だが旅先で出会う人々を通して、「一人で生きていない」と思えた。
「はい上がることができたから、今苦しんでいる、悶々としている人の心の扉に少しでも、触れられる曲作りができたらと思う」。音楽の力を信じている。

「現実の種」で花を咲かそう

好きな言葉は「想いは現実の種」。「想った分だけ花は咲くと思っています。想いというたくさんの種を持っていたい」。
韓日両国で、CMや劇中音楽なども手がけてみたいが、新たな目標だ。

写真:金智子さん
http://www.mindan.org/upload/499b9c5746557.jpg

ソース:(2009.2.18 民団新聞)
http://www.mindan.org//shinbun/news_t_view.php?category=13&page=38


>在日は韓国語が話せないとか、金持ちとか思っている人は多い。でもさまざまな理由で韓国語の教育を受けられなかった家庭がほとんど。

また、得意の被害者面だよ。

一体どんな理由だ?

日本人に恨まれることをやったから、在日だということを隠して生きていかざるを得なかったらだろ。


>とにかく生きようと、死に物狂いで子孫を守り貫いてきた、1世たちの想いを描写した。詩中の「陽炎」は韓半島をさす。

その死に物狂いというのはこういうことだろ


アメリカ人が見た戦後の在日朝鮮人

戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。 数においては大いに減ったもの、朝鮮人は依然として口喧しい、感情的・徒労的集団である。彼らは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとはせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は一般に日本の法律は彼らに適用され得ないものとしてアメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。 そのため国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。
経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。 1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で実地しようとするのを妨害した。/たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に
 与えた影響は依然として甚大なるものがある。朝鮮人の略奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。
 さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだという事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。

ハーバード大学教授 エドワード・ワーグナー(朝鮮史)
http://ameblo.jp/campanera/theme37-10002909941.html#main


悔しい思いをしている日本人は、全国に大勢いると思います!


私の実家は、静岡県沼津市です。軍需工場があった沼津は戦争中に大空襲があり、市街地は壊滅的に破壊されました。
戦後、実家の隣の家族が疎開先から戻ると朝鮮人の家族が庭に勝手に住み着いていました。立ち退くように言っても聞きません。
警察に言っても、裁判所に言っても何もしてくれなかったそうです。この朝鮮人家族は、現在でも実家の裏にのうのうと住んでいます。
土地の持ち主は庭の返還を求めたが、高額な立退き料を請求されました。
我が家を含め周りの家は、高い塀で自宅を囲みました。
つまり、この朝鮮人の家は道路に出る手段を失いました。

子供の頃の記憶で、昭和50年代まで近所に朝鮮総連の事務所があったので
先日、実家の母に聞いてみました。
例の事務所の土地も、戦後のどさくさで奪われたらしいのですが隣の家が裁判を起こしている間、嫌がらせや恐喝を受けたそうです。
自衛手段として高い塀で取り囲んでも、通名木村と名乗る家族は塀を乗り越え、他人の家の庭を通って道路に出ます。
父が怒鳴りつけると、翌朝には庭にゴミや空き缶が投げ込まれました。近所の人達も、何をされるかわからないので彼等を無視するしか
方法はなかった
そうです・・・
隣の家が裁判に負けた後、いつの間にか総連事務所はなくなりました。
隣の家族は引越し、跡地は(いわく付きなので)買い手が無く空き地のまま現在では、この空き地は駐車場になっていますが、所有者は在日です。
他人の家を通って外の道路に出ていた一家は、今ではその駐車場に自家用車を置き、ここから堂々と外の道路にでている・・・

某ブログコメントから

http://anti-korea.jugem.jp/?eid=367#comments


「田岡一雄自伝」より


通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。 善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。 こういった不良分子は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。 「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。~中略~ 一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。 途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。 どないしたんや」 「おかあちゃんが、おかあちゃんが」 少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。 「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。 少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の男たちだった。
http://www.youtube.com/watch?v=_JMfqsDbUjI


まず家主である日本人に住まわせていただいていることについて感謝の意を示した上で数々の犯罪行為について土下座しろ。


在日は徴兵もされず日本で大儲けして、祖国を支援せず優雅な暮らしをしてる特権階級の民族だから、大金持ちばかり。パチンコ、サラ金、地上げといった日本人の生血をすすって財産を築いてきた。

いくら口では綺麗ごとを言ったって、本心は違うだろ。


つまり

①兵役なんて嫌です
②韓国と日本の参政権どっちもほしいです
③お金もらえるなら日本と韓国と両方欲しいです
④日本に居れば嘘八百つき放題恫喝し放題生活援助もらい放題なで帰りません
⑤キムチ臭い死んだ犬の死体をメインストリートに吊るすようなとこには住みたくありません

「でも日本人を嫌いな気持ちは半島のみなさんと同じですみなさんを代表して日本へ損害を与えるべく内側から日本を滅ぼします力を合わせて日本を潰しましょう」

てことだろ?

日本と韓国のおいしい所だけいただきニダ!
義務なんか知るかニダ!
だろーが!

韓国人から見たら、朝鮮戦争という祖国の一大事に日本に逃れて、手厚い保護を受けてぬくぬくと暮らしている在日なんぞ裏切り者以外の何物でもないんだよ。


統一日報】母国と在日韓国人の関わりを記録に、本国では「韓国から去った移民」と考えられている[07/12]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1184257638/l50
宮台真司「在日の大半は韓国を捨て日本に一旗上げに来た連中
韓国では在日は日本なんかにいきやがった裏切り者として差別の対象になる」
http://www.youtube.com/watch?v=9NA22FXZDcY
【在日】『パンチョッパリ』と野次られ唾を吐かれ…金城(横浜)も在日代表で出場した韓国高校野球 ★2 [08/09]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1155221268/
秋山VS三崎の煽り映像
1分25秒から
秋山「日本でも受け入れられず韓国でも受け入れられず、結局日本に戻ってきた」
http://www.youtube.com/watch?v=taSNGWnha64

盧武鉉大統領 (03年6月の訪日時TBSのテレビ番組で) 
「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」
「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞にそんなことを言う資格などない。」
「私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、いいとこどりではないか。 私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞の連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」
「朝鮮戦争で逃げた連中」!
「在日の連中を信用なぞしていない」!

在日韓国人の強制退去、韓国側が拒否…70年代外交文書で判明


【ソウル=前田泰広】日本政府が1970年代後半、日本で犯罪を犯した在日韓国人を韓国に強制退去させようとし、韓国政府が受け入れを拒んでいたことが、韓国政府が12日公開した外交文書で明らかになった。
拒否された日本側は、強制退去対象者を北朝鮮に送還する可能性を韓国側に「暗示」したとしている。
外交文書によると、韓国政府は「韓国に生活基盤がない」などとして強制退去対象者20人の受け入れを拒否。在日韓国大使館は78年7月、「日本政府が北朝鮮に送還することを暗示した」と分析し、「日本との協議で1人の受け入れを決めた」と韓国外務省(現外交通商省)に報告した。だが同省は、「受け入れられない」と大使館に再協議を指示したとされる。
ソース:YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090211-OYT1T00976.htm
http://:3.csx.jp/peachy/data/korea/korea2.html (写真入り補足資料)

私が在日を嫌は数え上げればきりがないが、三つあげれば次の通り。

①日本人被害者に対する罪の意識がまるでない。

②日本人被害者に償う気持ちが皆無。

③日本社会に対する感謝の念が一切ない。