月4日で、第一大邦丸事件が起こって55年となる。
第一大邦丸事件を知らない人や、記憶があいまいになっている人のために、事件の概要を
ここで再確認しておく。
 1952年2月4日、福岡県北湊町の大邦漁業株式会社所属の漁船、第一大邦丸と第二大邦丸
(それぞれ乗組員22名)は、済州島に近い公海上に設定された284農林漁区で操業していた。
午前7時ごろ、韓国漁船第一昌運号・第二昌運号が接近してきて友好的な態度をよそおい、
「魚はとれますか?」などと日本語で話し掛けてきた。 韓国漁船は大邦丸からいったん
離れ、操業をはじめたという。
ところが、この漁船には武装した韓国の憲兵を含む7~8人が潜んでおり、漁船に偽装した
武装船
だった。
第一大邦丸が網揚げ作業をはじめたとき、およそ30mの距離から無警告で、韓国漁船に
潜んでいた憲兵が自動小銃で日本漁船を攻撃しはじめた。
不意をつかれた日本漁船は攻撃を回避しようと船を走らせたが、韓国武装船のしつような
追跡と銃撃を受け、このときに第一大邦丸の漁労長・瀬戸重次郎さん(当時34歳)の後頭部
に銃弾が命中、意識不明の重体となった。
これによって二隻の日本漁船は、韓国武装船に拉致された。
日本漁船は済州島・翰林に連行、金目のものは韓国警察に略奪された。
日本人漁師たちは韓国警察に、頭部に重傷を負った瀬戸さんのすみやかな治療を懇願したが、
韓国側は瀬戸さんを一人の”開業医”に預けただけだった。
そこは病室はおろか治療に必要な設備が何一つないところで、日本人漁師たちは、医療設備
が整った韓国軍の病院で瀬戸さんが治療を受けられるようにしてくれと抗議したが、何度も
拒否された。
それでも食い下がって何とか入院の承諾を得たが、瀬戸さんは放置されたままだった。
日本人漁師たちは、瀬戸さんの生命維持のためリンゲル注射をしてくれるよう頼んだが、
韓国人医師に「リンゲルは高価だから」と冷たく言われ拒否された。
日本人漁師たちが、自分たちの所持品を売って現金を払うという約束をして、ようやく
瀬戸さんは注射をうってもらえた。
ところが韓国側の約束はウソだった。
「救急車よ早くきてくれ」という日本人漁師たちの願いも空しく、瀬戸さんはそれから
2日間も放置されたままだった。瀬戸さんは2月6日23時ごろ亡くなった。
すぐに解剖が行われ、瀬戸さんの死因は韓国憲兵の発射した銃弾が頭部に命中したことで
あることが判明した。
日本人漁師たちは、韓国側に瀬戸さんの葬儀を願い出たが無視され、漁師たちが数少ない
私物をお金にかえて薪を買い、それで火葬が行われた。
一方、後に残された日本人漁師たちは、韓国側に拉致され”取り調べ”を受けている最中、
全く食事を与えられないという虐待を受けた。
これは明確な国際条約違反である。
そこで漁師たちは、韓国側の略奪を免れ漁船に備蓄してあった食料を分け合って、命を
つないでいた。
また取り調べにおいても、脅迫によって無理やり「自分たちは韓国領海を侵犯しました」
という内容の調書へ署名させられた。
日本政府は抗議したが、韓国の李承晩政権は「大邦丸はわが国の領海と”李承晩ライン”
を侵犯した」と言い張った。
ところが海図など取り調べ調書がデタラメであったことが判明、在日米軍のグリッチ少将
が事件解決に乗り出し李承晩大統領と会見、李承晩は韓国憲兵隊が日本漁船を公海上で
拉致したことについて遺憾の意を表明した。
これによって日本人漁民と漁船の返還が決定され、2月15日に済州島を出発、アメリカ軍
のフリゲート艦に付き添われてようやく帰国した。
日本人漁師たちは韓国を出航するとき、ずうずうしくも韓国側から「日本に帰っても韓国
の悪口を言わないでくれ」
と言われたという。
これが第一大邦丸事件である。
1965年までに、韓国側によって射殺された日本人漁師は瀬戸さんを含め44人、拉致被害者
は3929人
、拿捕された漁船は328隻に及ぶ。