僕は歩くのが好きで、旅行などではいつも無計画に歩きまわる。もともと予定を立てるのが好きじゃないから現地についてから考えればいいやと思ってしまうのだ。バスとか電車の時間もろくに調べないからありえないほど長い距離を歩きまわることになって、次の日に筋肉痛とともに目が覚めホテルのベットの上で激しく後悔する。こんなことだから旅行には一人でしか行けない。

休みの日も(休みじゃない日も)よく晴れた日には街中を歩きたくなるけれど、夏場の暑い日に鉄板のように熱されたアスファルトの上を歩きたいという人はいない。冬も散歩者(?)にとっては厳しい季節なので、散歩シーズンというものは自ずと春か秋になってくる。

僕の住んでいる場所はここのところすごく寒くて、三日前には外に雪が積もっていて驚いた。綺麗に晴れていてこれは散歩日和だと思っても、一歩外に出ると歩けたものじゃないと思ってすぐ中に引っ込んでしまう。そんな厳しい寒さが3週間ほど続いているのだけど、この前の土曜日は1日だけ嘘みたいに暖かかった。東京ではうっかりした蝉が間違えて出てきたらしい。僕はそういう「1日だけ浮いてしまった日」というものが好きなので、蝉と同じように外に繰り出して久しぶりの散歩を楽しんでいた。

坂道を下って川沿いの道に入り、アパートの駐車場に住んでいる猫の様子をチェックする。本屋に入って雑誌を一通り立ち読みして何も買わずに出る。人混みを避けて適当に歩き、入ったことのない細かい路地に入ってみる。小綺麗な古着屋を発見するが入る勇気が出ず通り過ぎる。

穏やかな午後に無計画な散歩をすることはなんとも楽しいことだと思う。特に、小川美潮の「おかしな午後」を聴きながら道を歩いていると、退屈な午後でも無条件で楽しい気持ちになってくる。歌詞の中では特にたいした話をしていないけれど(白い犬に骨のガムをあげる。など)、何の予定もない休日がなぜだか豊かな時間に思えてくるのだ。

 

 

「キッチン」という小説は、祖母を亡くし天涯孤独となった主人公のみかげが夜中に台所で布団を敷いて眠っているというところから始まる物語だ。吉本ばななが日芸を卒業した直後に発表されたもので、言い方が難しいけれど、この物語には奇抜なところはあまりないように思う。どこにでもいそうな女の子が、居候先の部屋でごろごろしたり、サッポロ一番のラーメンを作って食べるという日常が描かれているという内容だから、この小説が世界中でベストセラーになったと知って驚いた。二十歳かそこらの女の子がどうしてそんな小説を書くことができたのか、僕は不思議に思わないわけにはいかなかった。なぜみんながこの本を読むのだろうか、今でも理解できたわけではないけれど、何回か読み返すうちに僕は自然とその事実を受け入れていった。

 

「キッチン」「TSUGUMI」を発表したあと、吉本ばなな自身の小説は、超能力やサイキックという方向に傾倒していくのだけれど、その物語の中に登場する超能力者も、結局部屋でごろごろ昼寝したりしているから、笑ってしまう。自分の気分が落ち込んできて何も手につかなくなった時にはなぜかそんな小説を読みたくなって、読んでみると新鮮な発見があったりする。

「アムリタ」のあとがきの中で、「超能力が使えてもお風呂を洗わなくちゃいけない」という意味の文章があって、僕はそれを読んで妙に納得した覚えがある。

吉本ばななの小説を読む人は、当たり前の日常を求める人たちだと思う。当たり前の日常を求める人たちというのは、やっぱり、ギリギリのところにいる人たちだ。休みの日に散歩したり夜中にサッポロラーメンを作ったりすることを、書く必要があり、読んで確かめる必要があったのだと思う。何か悲しいことがあったり、とんでもなく楽しいことがあったとしても、お風呂洗いはしなくちゃいけないし、台所にだって立たなくちゃいけない。当たり前の日常というものは、感情よりも大きな力を持っているということを、確かめる必要がある。味気なくて繰り返しに見える毎日の中でも、小さなことで驚いたり、いちいち悲しんだりしていたいと思うのだ。

 

それにしても「キッチン」て良いタイトルですね。

 

 

 

 

 

小川美潮 / おかしな午後