
こんにちは。
私の惹かれる映画監督にレオス・カラックスという人がいます。
彼はアレックス3部作という3つの映画作品の中で、一人のアクターを同じパリの下、違う環境で登場させています。
ヒットした作品の続編という形ではありません。
とても長い年数の間に彼は4作品しか撮っていません。
彼に対して感じるのは、どうしようもなく誠実な人。
そんな感じです。
最初の作品は充分に自己表現できずに、何もかも満たされずに退廃的フィニッシュになるアレックス。
次に(転生した様な)アレックスは、満たされる事に錯迷のまま疾走の人生の果てに命を落とします。
息を引き取る前のアレックスは、「生きてスイスに行くことが出来ればしたいことは?」と尋ねられた時に
「石畳を歩きたい。そして、一段一段に感謝する。
このまま終わるなら怒り狂う。
自分の人生は書きなぐった下書きの様な人生だった。」と答えました。
この台詞が、当時の若いカラックスが掴んだ世界観、この世の仕組みのしっぽだったと思います。
この作品では、タイトルの通り登場人物全員に「汚れた血」を流し、それが妙に諦感と同時に赦しに近い救いのような温かささえ感じるのです。
自分の物質欲求だけに奔走する男たち。
他人の命を奪っていても、そんな男たちを愛する女性たちの性急な愛欲というエゴ。
きれいな女性の映像と対象に、易々と他人が死んでいく事には無頓着であるという冷酷さを殊更に主張せず、
それが余計に、映画全体に当たり前のように配置されることに、無言のコントラストが際立ちます。
まるで人は、自分の欲のために矛盾する事は見ないように自分を無意識に洗脳しているとでも言うように感じました。
日常の隅々のエゴを自然現象のように表現してみせるカラックスの才能に驚きます。
疾走の果てに虚しさを感受する男たち。
愛欲の呪縛から目覚めた瞬間に、籠から放たれ自由になる女たち。
その瞬間に空気は逆転し、まるで置いていかれた様な男たち。
アレックスは3作品目で、
ホームレスの大道芸人に転生します。
そこで初めてアレックスは、疾走ではなく「向き合う」という学びに至ります。
恐れから来るとても多くのものを持ちながら、苦しみもがきながらも、アレックスの魂は必ず何かを掴もうとします。
2度の人生がその衝動を作り出す理由のように。
何も出来なかった失望
疾走するエゴだけで果てた虚しさ、悔しさ
向き合うということへの恐れ...
3三品目でのアレックスは、深い傷と引き換えに、絶対に掴んだ手を離そうとしませんでした。
アレックスは「向き合う」という、「生まれたばかりの赤ちゃんのような勇気」を初めて体得し、カラックスはアレックスの探究の答えとしての長い時間を必要としたようです。
これは、カラックス自身が生きて体得し続ける進行形のワンシーンに過ぎないのだろうと思います。
人にはそれぞれの魂が求める「テーマ」があるような気がします。
行き着く答えは同じでも
方程式の解き方は、一人として同じ魂はないのだと思います。
そのプロセスが自由というものなのだろうと感じています。
この世でのテーマへの道が生きている間に進めますように。
私自身は、汚れた血の中のアレックスの言葉の様に、
「書きなぐった下書きの様な人生」で閉じないようにしたいと願っています。
今生はどんなものを掴みとろうとしているのか?
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