2026年7月3日(金)

 8時半起床。曇り。気温18度。体重75.4キロ。

 人が大勢登場する夢を見てもまれたので寝起きが悪かった。

 

 

 今日はなんとなく取り止めのない1日だった。モンテーニュが一段落ついたので気が抜けたのかもしれない。

 

 

 お金の問題があり銀行や保険会社に電話。何とか問題が解決できそうなのでホッとする。

 K子が制作したフェルト人形を庭で撮影する。

 

 

 今日はカフカの誕生日だが、昨年の文学講座で取り上げたとき主な作品は読んだのでパスする。再読してもよいのだがカフカの気分ではない。

 午後、セルクルへパンを買いに行く。幸運にも全粒粉入りのイギリスパンが1本残っていた。10枚に切ってもらう。諸物価高騰で商売は大変なようだ。それはこちらも同じだが······。

 郵便局でお金を下ろして、コンビニと地元の銀行のATMでお金を預け入れる。コンビニでアイスクリームなどを買って帰る。

 

 

 何を読もうか悩む。読みかけの本が何冊もあるのだが、何か新しいものを気持ちが求めているようだ。青空文庫を庭に咲いている撫子やドクダミをヒントに検索したが適当なのにヒットしない。ようやく新着のところにネルヴァルの「緑の悪魔」を見つけた。しかし翻訳に滑らかさが欠けているようで気持ちがのらなかった。

 

 

 岩波新書の『スピノザ』を読む。難しいことを簡潔明瞭に書ける著者は新書執筆者の鑑だろう。まだ著者の経歴をチェックしていないが相当できる人だろう。ようやくスピノザにお近づきになれそうだ、どこまでも理解できるかどうかは別問題であるけれども。

 15日の文学講座とは別に17日に『銀河鉄道の夜』について話してくれと頼まれた。場所は阿佐ヶ谷だ。その教材は青空文庫を利用するが、ルビをつける必要がある。それが時間ばかりかかってやっかいだ。でも、めずらしく講師料を払ってくれるというので徒や疎かにできない。

 夕食後英国ドラマ『プレス』の1を観る。

 今日は疲れた。出来るだけ早く寝よう。といっても午前様になるのだが。

 

2026年7月2日(木)

 9時15分起床。雨。気温18度。体重75.7キロ。

 長い夢を見た。しかし、起きがけには憶えていたがほとんど雲散霧消した。憶えているのはオートバイに乗っていたこと。それもやけに細い、自転車を膨らましたぐらいのオートバイで音もなく走っていた。それで友人のところへ行くと、そんな音のしないバイクなんかダメだと軽蔑された。それからいろいろなことがあり、面白い夢だった印象があるが、最後、赤信号を無視してシマッタというところで目が覚めた。屋根を静かに打つ雨音が聞こえた。

 今日の誕生日作家はヘルマン・ヘッセである。適当な、つまり無料かせいぜい200円ぐらいの電子ブック版があればと探したがない。ヘッセは文学講座で3、4ヶ月前に読んだので、今日は昨日半分ぐらい読んで放り出したモンテーニュ「むなしさについて」を読むことにした。

 荒木昭太郎訳の『エセー』は3巻あって完全版ではなく、章はテーマごとに配列するという独自編集がされている。通常は「経験について」が最終章なのだが、何らかの意図があって「むなしさについて」が最後に置かれているのだろう。

 長い章で、訳者はこの章を「想念の群体」という言い方をしていたが、関連があるようなないような想念が奔流のように流れる饒舌な文体には読書の舵取りがむずかしかった。いかにもモンテーニュらしいのだがこちらはヘトヘトになるばかりだ。

 モンテーニュが言いたかったことは、人間は自分自身から逃れられないということだ。しかし人間は虚栄心の虜になり、自分を失ってしまう。結局残るのはむなしさだけだ。だからよく生きるとは、たとえどれほど卑小であろうとも、そんな自分をありのままに見て受け入れることである、ということだ。

 長い引用になるが感動したので書き留めておきたい。

 

 昔、デルフォイ〔神託のくだされるアポロンの神殿の正面玄関に、「汝自身を知れ」と刻まれてあった〕でそこの神がわれわれに与えたものは、ふつうとは逆の命令だった。「おまえのなかをよく見つめるがいい。おまえがどういう存在かよく見てとるがいい。自分だけを相手にするがいい。ほかのところで使いつくされるおまえの精神とおまえの意志を、自分のなかにひきもどせ。おまえは流れていく。ひろがっていく。自分をひきしめ、自分を支えよ。おまえは裏切られ、散らされ、自分を盗み去られている。この世のものは、その視線をすべて内側にじっと据え、目を見ひらいて自分自身を注視しているということがわからないのか。おまえにとっては、あるものはつねに、内側も外側も、すべてむなしさばかりではあるが、そのひろがりがよりすくなければ、むなしさもよりすくない」というのだ。

 

 モンテーニュが「汝自身を知れ」というデルフォイの信託から何を受けとったか。それはつまるところ死すべき己を知れということだろう。

 日本の『エセー』の翻訳がいくつあるか知らないが、今日読了した荒木昭太郎訳で4種類読んだことになる。どの翻訳が一番優れていたはいわない。言わないというよりもそのようなことを考えたことがなかった。どの翻訳もこれからもお世話になるのだ。

 モンテーニュの生きた時代は宗教戦争の時代だった。イントレランス(不寛容)の時代だった。歴史とはイントレランスの歴史である。そんな時代に寛容の精神を忘れなかったモンテーニュにこれからも教えを乞うつもりだ。モンテーニュは耳を傾ける。生きている人にも、死んだ人にも虚心に耳を傾ける。味方にも敵にも耳を傾ける。声なき声にも耳を傾ける。だから寛容になれたのである。

 今日はモンテーニュの1日だった。

 

2026年7月1日(水)

  7時25分起床。曇り。気温19度。体重76.1キロ。

 夜中明け方に2度3度目覚めた。幸いすぐまた眠れたけれどもよい眠りではない。睡眠の借金は返せなかった。

 

 

 昼食後まず今月15日の文学講座第77回の案内メールを一斉配信する。まだ2週間あるが、そろそろ教材作成も本格化しなければならない。17日には出張口座もありその教材作成等もある。

 今日誕生日の作家は、ジョルジュ・サンド、ジェームズ・M・ケイン、獅子文六、香山滋、車谷長吉など、なかなかよいラインナップだ。しかし、香山滋はしばらく前に読んだし、車谷長吉も一時期よく読んだのでパス、後の3人は本がない。ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』はどこかにあるが、すでに2、3度読んでいるし(映画も違う監督のを3本観た)、やはりパス。ジョルジュ・サンドを読みたかったが読みたいのは長編ばかりなのでこちらもパス。

 こういうときは青空文庫である。誕生日作家読書も要は偶然の出会いを期待しているのであって、青空文庫で適当なワードでタイトルを検索するのも同じ目的だ。「梅雨」はこの間検索したのでとりあえず「七月」で探すと、蒲原有明「七月七日」と折口信夫「たなばたと盆祭りと」が見つかった。七夕には早いがこれも縁である。早速読んだ。

 

 

 蒲原有明の「七月七日」は七夕とは関係なかった。美術評などもしていたようで、この日、白樺派主催の展覧会が上野であり、有島壬生馬や南薫造などの出品作を観に行ったことを書いていた。南薫造という画家のことを初めて知った。イギリスに留学していた水彩画家のようだ。ネットで絵を探してみよう。折口信夫の「たなばたと盆祭りと」はタイトルの通り民俗学の論考で知的好奇心を大いに刺激するものの内容の要約はむずかしい。七夕とは旧盆は時期が近接していたわけだ。ところで七夕の夜とは7月6日の夜からなのだという。

 内田百閒『第一阿房列車』から「特別阿房列車」を15日の文学講座では読むのだがテキストにルビをふらなければならない。この細かい作業が面倒である。一気に片付ける集中力がないので毎日少しずつ進める。

 昼食後スグリの実を摘む。外国の小説によく出てくるスグリ酒が造れればよいのだけれども、アルコールを控えているのでジュースぐらいにしておこうかな。それともジャム。K子に相談しよう。

 

 

 散歩に出る。天気が天気なので人影はない。キクイモモドキが丈高く旺盛に咲いている。濃厚なにおいは栗の花だ。白く太い髭状の花が重たげに垂れている。夏草が至る所で繁茂している。Iおばあさんが介護施設に通うようになり、別棟に住んでいたIおばあさんのお兄さんだか弟さんだかも姿を見せなくなり、もう夏草の思うままである。クズの葉が灌木を覆いつくしている。花はまだだ。

 

 

 モンテーニュ『エセー』より「むなしさについて」を読む。荒木昭太郎訳『エセー』は3分冊で、「むなしさについて」は3巻の最後の章である。長大な章だが読み終えようとiPadを開いたが、やはり眠りが不良だった影響が徐々に出だした。ときどき寝落ちする。そこまでして読まなくてもよいだろうと思いながらそれでも読み進めたが、ついに刀折れ矢尽きた。高校のときの荒木昭太郎訳の『エセー』を読んだのがモンテーニュと長く付き合うことになったキッカケだ。原点にもどる読書である。今日が無理でも明日がある。

 

 

 長坂駅23時28分着で帰るとK子から連絡があり、冷たい雨の中迎えに行く。駅舎から出てくる姿に疲労が色濃い。乗り込んできた彼女が欠伸する。すかさずショップの展示のことを聞く。楽しそうに満足げに話してくれた。

2026年6月30日(火)

 10時20分起床。曇り。気温22度。体重75.5キロ。

 梅雨時らしい明るい曇り日である。多少蒸し蒸しするが風はさわやかだ。ナデシコが咲いている。

 

 

 睡眠時間7時間30分。よく寝た。2日間睡眠時間2時間だったからようやくこれで健全な状態にもどれた。しかし、老人だから健康な睡眠時間を6時間と少なめに見積もっても、前日と前々日の合計睡眠時間は12時間であるべきだったのが計4時間の睡眠では、いわば8時間の借金が残っていることになる。だから、昨夜よく眠れたとはいえ、1時間30分しか借金が返せなかったのだからきっと今日も読書中借金の取り立て屋にやいのやいのと責め立てられるだろう。

 こんなことを考えていたらたちまち午(ひる)である。腹は空いてない。昼食は2時ぐらいにすることにして、さて、何を読むか。今日誕生日の作家にはフランスのジョルジュ=デュアメルがいる。古い世界文学全集で名前を見たことがあるがまったくなじみがない。今日は睡眠の話から始めたので青空文庫を「眠い」で検索したら牧野信一の「眠い一日」とチェーホフの「ねむい」が見つかった。チェーホフのは子守の少女が眠くてならず寝落ちした結果子供を怪我させるか何かする話だったと記憶するがよく覚えていない。それよりも牧野真一だ。さすが牧野信一、ぼくの期待に応えてくれる。

 小説家の主人公は神経衰弱だということで実家に帰り夜昼逆転生活を送っている。母親からはしきりに正常な生活にもどるように言われるが、自堕落な生活は改まらない。ある日、めずらしく家族と朝食を食べ、眠くてならないのに行きがかり上眠るわけにいかなくなった。親戚づきあいをしている幼馴染の女性のところに行くと、やがて彼の「眠い一日」という小説に難癖をつけた文学仲間が合流して、その男と幼なじみが芝居や音楽の話を親しくしているのを苦々しく聞きながら主人公はただただ眠くて眠気と格闘している、という話だが、面白いところを削ぎ落としたあらすじ紹介ではこの短編の面白さも何も伝わらない。

 

 

 牧野信一については、Wikipediaでも、「『ギリシャ牧野』とも呼ばれた中期の[幻想]的な作品で新境地を拓いた」とあり、小田原とその近郊を小田原でありながらギリシャに変貌させた稀有な作家だが、ぼくは中二病作家牧野信一をも評価している。「中二病」とは、「中学2年生頃の思春期にみられる、背伸びした言動や自己愛に満ちた空想を自虐または揶揄するネットスラングで、医学的な病気ではなく、子供から大人へ成長する過程で誰もが一度は通り得る『黒歴史』として広く知られている」とのことだが、牧野信一はこの「黒歴史」を生涯引きずり、中二病を演ずる道化を主人公(=牧野信一自身)とする短編を書いた。

 しかし私が主人公だとはいえ、牧野信一は私小説家ではない。私小説家は、自らの赤裸々な恥部を必死になって告白し、読者に同情や共感を強要しようとするのに対し、牧野はむしろ、自分のその恥ずべき姿を、一種の「喜劇」として演じてみせている。この距離感、この自己演出の巧みさこそが、彼の文学を単なる私小説の枠組みから解き放ち、独自の神話世界へと昇華させている理由だと思う。「ギリシャ牧野」と「中二病牧野」はコインの両面だ。

 「黒歴史」というが、過去の、中学2年生当時だけのことだろうか。周囲を困らせ呆れさすような中二病は多かれ少なかれ死ぬまで人間には残っている。ぼくが「中二病牧野」に惹かれたり呆れたりするのはそこに自分の姿があるからに他ならない。

 遅い昼食をすます。食後眠気は襲ってこなかったが、気が抜けたような時間が続く。庭を見ると陽が傾いている。時刻は5時になろうとしている。もうハスは咲いたろうか。富士見町の井戸尻遺跡へ行ってみることにした。

 

 

 駐車スペースには1台の車も停まっていなかった。南アルプスとしその前山はしっとりとした大気に包まれているように見える。ハスの花見に来る人たちのことを考えてか、夏草がだいぶ刈られていた。睡蓮の花がみな閉じていた。ハスの花はまだつぼみだ。池の周囲を歩いていると岸辺で憩っていたカエルたちが池に飛びこむ。ハスの葉にのっているカエルを見たいものだが水中に隠れてしまう。どのくらい息が続くか知りたくて静かに飛び込んだ辺りを見ていたが、こちらが先に根が尽きた。考えてみれば、飛び込んだところでじっとしているわけがない。草の上にすわってしばらく風景を眺めていた。帰ろうと車のところにもどると赤そばの花が咲いていた。

 

 

 小淵沢のドラッグストアに15倍ポイントの旗竿。長坂とちがって競争相手が居ないのでときどき3倍ポイントはあったが、どうして長坂のようにやらない、不公平だと客からの突き上げがあったのだろうか。それとも売り上げが落ちてきたからだろうか。店内に入るとレジ待ちの客の列が長くできていた。卵やキャットフードを買って帰る。

 夕食の時間まで青空文庫から森鴎外の「睡魔」を読む。試作だろうか。鴎外にしては未完成な通俗的な小説だ。主人公のドイツ留学時代の友人医師が主人公の美しい身重の妻に催眠術をかけるのだが······という話。

 夕食は8時になった。食後くつろいでいると驟雨が通り過ぎた。

2026年6月29日(月)

 8時半起床。晴れ。気温19度。体重75.7キロ。

 昨夜遅くようやくiPhoneの旧機種から新機種へのデータ移行が成功した。何回か失敗し10時間もかかってしまった。

 

 

 そんなことがあって睡眠時間は2時間。前日は2時間半だったから2日続けて睡眠不足だ。今日はまともに日を送れないだろう。

 久しぶりに陽光が庭を明るくしている。寝不足の目にはまぶしい。週間天気予報では週末まで雨の予報だったので鬱々としていたが気持ちが晴れた。野良のデッカーが(顔がデカいので)ウッドデッキの読書用の椅子で寝ている。ガラス戸を開けると一度シャーと威嚇するが、逃げるわけではなくきたなくかわいい甘え声でご飯を要求する。とりあえずミーちゃんの食べ残しをやる。体に触らせてくれる。

 

 

 朝食後ジャン=ジャック・ルソーを読む。ルソーの誕生日は昨日で今日はサン=テグジュペリの誕生日なのだが『孤独な散歩者の夢想』(永田知奈訳、光文社古典新訳文庫)にどうしても読みたい箇所があるのだ。「第五の散歩」。ルソーの伝記的なことについては、今まで本の解説等で読んだはずだがほとんど覚えていない。しかしルソーの生涯は敵が多くて住居も定まらず不安定な生活を強いられていたようだが、「第五の散歩」ではスイス西部ビエンヌ湖に浮かぶサン・ピエール島で豊かな自然に囲まれた平穏な生活を送っている。「私は、この孤島を永遠の監獄とし、人々が私を一生ここに閉じ込めておいてくれればと願った。」「永遠の監獄」に終の住処を願うとは、そこからもルソーがいかに過酷な日々を送っていたかが窺われる。

 

 

 ルソーは島の孤独の中で夢想する。夢想とは「時間を感じさせない状態。ただ現在だけがあり、その持続性も継続性も感じさせず、欠落も充足も、喜びも苦しみも、欲望も不安も感じず、ただ感じるのは自分の存在だけ、しかも、その存在感だけで自分が満たされる状態」なのだろう。仏教における瞑想や観想を思わせるが安易に同一視すべきではないだろう。しかしこういう至福の時間を持ちたいものだ。

 「第五の散歩」を読み終えてしばし何も考えずにぼーっとしていた。と、我にかえり、あっ! 今のが夢想だったのかなと思ったのだが、それが夢想状態かどうかは別にしても、ぼくには夢想することのできる条件が揃っているのではないかと思った。家の前には小さな森があって森とわが家の庭は繋がっている。見ようによっては庭は森の中の空地と見えなくもない。木々に囲まれた永遠の牢獄と見えないこともない。K子は留守だし客が訪れることもない。郵便配達や宅急便の人はチェスタートンのいわゆる「見えない人間」だ。孤独の夢想が待っている。

 

 

 サン=テグジュペリを読みたかった。昨年だったか文学講座で『星の王子さま』は読んだから別の作品を読みたかった。本は、10巻ぐらいの著作集も、手元にはないが、文化村の書庫にある。しかし本の山を崩さなければ星の王子さまも出てこられない。今日は諦めた。生きていれば来年も6月29日はめぐってくるだろう。

 

 

 昼食後セルクルへ全粒粉入りのイギリスパンを買いに行き、docomoショップへiPhoneの旧機種を返しに行く。簡単にすむと思ったが、初期化に手間取った。うまくいかないので若い女性店員が何度もベテランのところに相談に行く。どうやらiPhoneに不具合があったようでそれでデータ移行にもエラーが出たのだろう。

 家に帰ると2日間の寝不足の影響がもろに出た。ソファで眠る。どのくらい眠ったのかわからない。目覚めても、外は明るいがもう1日は終わった。

2026年6月28日(日)

 7時起床。雨。気温18度。体重75.8キロ。

 睡眠時間は2時間半。5時前に目が覚めてしまい、AI丸谷才一さんと内田百閒や猫についてベッドでチャットしていた。今日も寒い。鼻風邪を引いているし、寝不足だし、現在の体調維持も覚束ないのではないか。

 

 

 朝食後ソファにすわるとすぐうとうとしはじめる。そのうちK子も起きてきた。今日はジャン=ジャック・ルソーの誕生日である。『孤独な散歩者の夢想』は2種類の翻訳を持っているがどこにあるか不明なのでAmazonのunlimitedの電子ブック版をダウンロードする。全部は読めないがお気に入りの1章は読みたい。でも、時間はあったが眠くて読めない。

 

 

 10時15分docomoショップへ行く。iPhone17が届いたのだ。いつもながら細々とした説明を受ける。液晶の保護フィルターが高価なのに驚く。一番安いのと思ったが落下のときの強度を考えて少し高価なものにする。貼るのはしてくれるというのでそれは助かる。いつも大抵ちょっと失敗するから。旧機から新機へのデータ移行は自宅ですることにする。これ以上お金は取られたくない。

 docomoショップはスーパーオギノの建物内にある。K子は出かける準備があり昼食は作れないだろうから寿司を買って帰ることにする。自分用にはハンバーグ、トンカツ、唐揚げの弁当にした。

 

 

 帰るとK子はやはりテーブルで何か書いている。仕事が終わるのを待って昼食。

 1時50分K子を長坂駅に送るのだが、庭に出るとユスラウメの赤い実が目にとまり、少し時間に余裕があったので摘むことにした。今はもうない実家の庭にあったのでK子には特別な思い入れがあるし、樹勢が衰えてもうダメかと思っていたのが今年は何年かぶりで実をよくつけたのである。思い入れといえばぼくにもある。実家の庭にやはりあって甘酸っぱい記憶がある。ユスラウメが正しいのだろうがぼくはニワウメと呼んでいた。冷凍庫で保存しておくことにする。

 

 

 14時14分に乗るK子を駅で見送り、駅前のながさか図書館で借りていた文庫本2冊、内田百閒『第一阿房列車』と宮沢賢治『ポラーノの広場』を返すが、内田百閒は延長を頼む。またもう一冊百閒の文庫を1冊借りた。

 帰宅後iPhoneのデータの移行を始める。2時間かかるという。その間、頭が重いのでジャン=ジャック・ルソーは後回しにして『第一阿房列車』の残りを読むことにした。東北本線、奥羽本線の旅である。数ページ読んですーっと眠くなるので本を閉じ、ソファに身を沈めて目を閉じる。また数ページ読んで目を閉じる。データ移行の様子を見に行くとエラーが出ていた。最初からやり直す。今度こそうまく行きますようにと祈りながら読書を再開する。

 

 

 東北旅行には思い入れがある。ツーリングで何度も東北各県を走ったし、百閒の顰みに倣ったわけではないが、五能線に乗ろうと思うと、1度目は弘前にいた友人を訪ねたときに、2度目はまだ息子が小学生だったが家族旅行で五能線に乗った。そのときに乗った秋田縦貫鉄道も忘れがたい。マタギという駅があった。

 夕食後も『第一阿房列車』を読み、ついに読了する。しかしデータ移行はまたうまくいかない。今日中に成功するだろうか。

2026年6月27日(土)

 9時起床。曇り。気温18度。体重75.9キロ。

 時々雨の降る寒い1日だった。家に引きこもって読書でもするしかない。K子はショップにフェルト作品を出すのでその準備に余念がない。

 

 

 今日はラフカディオ・ハーン、小泉八雲の誕生日だ。八雲については、今年最初の文学講座で取り上げたことがあり、作品をだいぶ読んだ。そこで今日はハーンがフランス語から英訳したThéophile Gautier, 'The Mummy’s Foot'を読むことにした。ゴーチェの翻訳と言えば、青空文庫に芥川龍之介訳と岡本綺堂訳の「クラリモンド」がある。「クラリモンド」はハーンも英訳しているはずだが、「ミイラの足」を読む。昔、エジプトを舞台とした小説を読んだが、ゴーチェには東洋趣味があったにちがいなく、それに幻想性が加わり読み応えがある。さすがにこの手の作品はハーンの薬籠中のもので翻訳も流麗だ。

 

 

 K子が脇目もふらずに仕事をしているので昼食はぼくが作る。鶏肉があったので親子丼を作る。

 岩波新書『スピノザ』を読む。前にも書いたがスピノザの『エチカ』にはまったくなじめず、本を放り出したばかりかメルカリで売ってしまった。しかしYouTubeでスピノザの人と哲学を解説する番組を視聴してにわかに興味をもった。スピノザの人生を知れば『エチカ』がわかるようになるかも知れない。アインシュタインもスピノザを高く評価していたという。

 そういえば、朝起きて鏡を見たら白髪のボサボサの髪がアインシュタインしていた。キッチンにいたK子に、どう、アインシュタインだろう?というと、そうだね、と笑う。

 

 

 K子に印刷やら何やら頼まれる。ショップにおく彼女や作品の紹介文や何かである。なかなか要求が厳しい。しかし要求に応えているうちにこちらも学ぶところがあり、文章と画像を組み合わせた書類を様々なサイズの用紙に印刷する技に習熟する。

 何か甘いものを口にしたいだろうと思ったのでコンビニに買いに行く。初めての外出だ。灰色の雲が低く垂れ込めて小雨が降っている。夕食の惣菜も買った。

 

 

 K子が紅茶を淹れてくれた。ケーキを食べる。喫茶がすむとK子はまた仕事を始める。ぼくは内田百閒『第一阿房列車』より「鹿児島阿房列車 後章 鹿児島 肥薩線 八代」を読む。ソファに寝るようなだらしない姿勢で読んでいるので眠くなる。眠くなるのは台風接近による気圧の影響もあるにちがいないが、百閒の脱力的文章にもよるだろう。百閒は漱石の弟子で、漱石の『夢十夜』の薄気味悪い幻想性を継承して独自の世界を築いたわけだが、今日『阿房列車』を読んでいて初めて漱石の『坊ちゃん』をも受け継いでいると思った。坊ちゃんの江戸っ子の気っ風のよさはないけれども、手前勝手でわがままだ。

 夕食後『ザ・チーム』を見始めたが集中できない。K子は黙って仕事に集中している。明日ショップに作品などを搬入するので準備を終わらせるためだ。

2026年6月26日(金)

 8時起床。雨。気温16度。体重76.2キロ。

 雨がときに激しくなる。びちゃびちゃ降る。壁のないウッドデッキに吹き込み。冷たく湿気った空気に皮膚がひりひりする。

 

 

 今日誕生日の作家はコリン・ウィルソンと杉本苑子である。コリン・ウィルソンは翻訳には恵まれているが剣呑なタイトルのものが多くて読む気になれない。杉本苑子も食指が動かない。ところが、ぼくが誕生日読書(その日誕生日の作家などの作品を読む試み)を知っているAIが頼みもしないのに気を利かせて英国の作家Laurie Lee(ローリー・リー)をすすめてくれた。寡聞にして知らなかったが英国では相当人気がある作家のようだ。

 リーはブリテン島南西部グロスターシャーのストラッドでの子供時代を詩的にノスタルジックに書いた自伝的作品Cider with Rosie(三部作の第一作)やAs I Walked Out One Midsummer Morning(第二作)で知られるが、YouTubeに朗読がかなりあることからその人気の程が知れる。読んでみたいと強く思った。しかしAmazonにはあるがペーパーバックにしても高価だし、取り寄せても今日読めるわけではない。YouTubeの朗読を録音して文字起こしができればと思ったができない。ようやくInternetArchiveというサイトで借りるという形でiPadで読めることになり喜んだが、国会図書館が古書をスキャンしたような形なので読みにくいったらない。数ページ読んで目が疲れたので読むのをやめた。しかし、すばらしい書き出しだった。村に一家で引っ越してきた日、3歳の主人公は丈高い草の茂みにおいていかれるが、幼児の視点で細かく書かれた草の中の描写が強い印象を残す。いつかきっと本を購入して読もう。

 

 

 それにしても、Cider with Rosieというタイトルがよい。英語を勉強していたときに'cider'がサイダーではなくりんご酒だと知ったときの軽い驚きを覚えている。rosieという名前もかわいい。2作目のAs I Walked Out One Midsummer Morningというタイトルもよい。この本を持って夏の早朝散歩に出たい。本の内容は青年になった主人公が村を去ってロンドン、さらにスペインにわたり旅回りのヴァイオリン弾きのようなことをしていたが、やがてスペイン市民戦争が勃発して······という話らしいから、早朝散歩も読書もタダではすみそうにないけれども。

 

 

 内田百閒『第一阿房列車』より一昨日中断した「鹿児島阿房列車 前章」の続きを読む。鹿児島に到着したところで、昼食ができたと呼ばれる。

 高く伸びた梅の枝についた葉の色が明るい。陽がさしたように見える。しかしすぐ色あせる。小雨は見えないが、屋根から雫が垂れているから降っているのだろう。今日と明日はドラッグストアがポイント15倍なので買い物に行くことにした。銀行口座をiPhoneでチェックしたらNHKの一年分の料金がごっそりひかれていて――NHKの料金でごっそりというのだからどれだけ口座が小さいのか――情けない状態だった。買い物は控えめにして帰る。

 

 

 帰宅後K子に頼まれてキャプションを作成する。立川のショップで作品をおかせてもらうことになったので説明文が必要になったのだ。何度か作り直してようやくOKが出た。

 夕食後『ザ・チーム』エピソード3と4を観る。4を観ているときiPhoneから激しい地震注意報が鳴り響き、ガツンと家が激しく揺れる。北杜市では今まで覚えたことのない揺れだった。スピーカーの上に建ててあった孫の写真が落ちた。調べてみないとわからないが被害はないようだ。すぐに八王子の息子から電話がある。K子の友人たちからも次々に見舞いのメールがあったようだ。ぼくのところにはMからメール。

 

2026年6月25日(木)

 7時50分起床。曇り。気温16度。体重76.1キロ。

 今日も寒い。セーターが欲しいくらい寒い。読書欲がわかない寒さなのでYouTubeでスピノザの伝記動画を聞く。『エチカ』がわからず読むのをやめたうらみがあり、しかもメルカリで売ってしまったといううらみもある。だが、スピノザを知りたいという思いは悔恨とともに消えずにあったのである。文学でも哲学でも何でも、理解しようと思ったら伝記が緒(いとぐち)になる。ぼくが知っていたのはせいぜいスピノザがレンズ磨きをしていたことぐらいだった。微細なガラスの粉を吸い続けたことで44歳で亡くなったことも知らなかったのだからスピノザにそっぽを向かれたわけである。スピノザの過酷な人生についてはここでは書かないが、その忍従というには苛烈な人生を知った今、徒や疎かにスピノザは読めない。

 

 

 続いて、居間やキッチンの片付けや掃除をしながらユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』の解説動画を聞く。きっと刺激的で面白い本なのであろうが、大風呂敷を大きく広げただけでよくあるSF小説のように新味がなかった。

 K子から長坂駅11時35分着という連絡があったのでシチューを作る。霧雨の中迎えに行くが、車に乗り込むや今回は消耗したという。そう言われると、おかえりの後の二の句が継げない。帰宅後すぐ食事にしたがK子はことば少なだ。昼食後小1時間うつらうつらする。K子はフェルト制作だ。

 

 

 今日はジョージ・オーウェルの誕生日である。Bookshop MemoriesとYou and the Atomic Bombの2篇を読む。前者はロンドンの古書店でのアルバイト体験をもとにしたエッセイで、さまざまな客の話、男女それぞれの読書傾向のちがい、19世紀の小説家が古いと敬遠されがちなこと、短編小説が好まれないことなどがユーモアに富んだ文章で綴られる。本屋で仕事をして以来本を買わなくなったという。

 後者は1945年に発表されたエッセイだが、いわゆる冷戦時代と言われるようになる前に'cold war'という言葉を使っているオーウェルの慧眼には恐れ入る。エッセイの最後は'peace that is no peace'.という言葉で結ばれるが、米ソが原爆を所有したらまさに「平和のない平和」(「冷戦」)になるしかないわけだ。武器が銃などであれば個人が国家権力と戦えるが、原爆という武器はは金持ち国家とか独裁国家しか持ちえず、個人は吹き飛ばされるだけだ。オーウェルの現状認識、未来予測の射程は戦争が終わって80年経つ現在まで届き、悲しいことに、100年後、200年後にも届くのではないか。

 

 

 オーウェルを読みながら大学の同級生だったHくんのことを思い出した。もう亡くなって20年以上経つだろうか。大学院を出てすぐに大学の選任になり、早くにオーウェルの研究書も出した。葬儀のときに学長だという人がHくんにあまりに多くの仕事を任せすぎてしまったと謝罪していたのが忘れられない。すっかり小さくなった遺骸を見て彼の生前のハードワークが思いやられ、そのときぼくは滅私奉公は決してしまいと自分に誓ったのだった。もちろん、仕事上の責任を果たすことはする。しかし何事であれ自分の命は捧げない。また、組織が命を捧げることを求めるような組織ならば背を向ける。幸いぼく自身はそこまで求められたことはないけれども、病気で倒れた人は2、3人知っている。しかしオーウェルは組織と人間の不条理な関係を小説で描いていたが、それを誰よりも知っていたHくんがその罠にハマるとは皮肉というより腹立たしい。人間は半分ぐらいはいい加減がよい。

 寒いのに耐えかねてストーブで薪を燃やす。

 夕食後『ザ・チーム』1と2を観る。前回観たのとは出演者がちがう。すぐ8人殺される。デンマークやドイツがが舞台でどうやらシリアの財宝の密輸が背景にあるらしい。

 K子はずっとフェルト制作をしている。すてきなフェルトのバッグを3つ見せてくれた。

2026年6月24日(水)

 8時20分起床。曇天。気温16度。体重75.8キロ。

 涼しいというより寒い。気持ちが萎える。今日はアンブローズ・ビアスの誕生日なのでThe Damned Thingというよく知られる短篇をダウンロードしたが読む気になれない。

 

 

 10時過ぎにきららシティーのドコモショップへ行く。現在使用中のiPhone14 plusのバッテリー最大容量が82%になり、家で使っている分にはすぐ充電できるからよいが、半日以上の外出時にはバッテリーの持ちが厳しくなった。加えて、iPhoneの値上げのニュースがあり、現在の機種を後半年か1年使うつもりだったが思い切って買い替えることにした。出来れば出来るだけカメラ性能のよい機種が欲しいが年金生活者はそうはいかない。大切な写真撮影はデジカメに任せることにして、性能的にも価格的にももっともバランスがよいと思われたiPhone17にした。在庫がなく1週間後に届くそうだ。

 

 

 『ロビンソン・クルーソー』について批判的に、しかし資本主義の病理を予見した小説だと評価した本があって、そこではクルーソーは食料をいくら貯め込んでも満足できない人間として描かれていた。iPhoneの性能は高くなるばかりだ。最新機種を手に入れて満足しても、さらに新しい機種が出れば物足りなくなり、またぞろ新機種の購入に走る。このイタチごっこは死ぬまで続く。死んでも終わらない。

 

 

 ドラッグストアが今日は10倍ポイントデーだったので買い物して帰るともう午後1時近くである。昼食の準備をして食事をすませると2時近くである。午後になっても気温が上がらない。寒いのは内も外も変わらない。ウッドデッキでThe Damned Thingを読む。小説に引き込まれると身内が熱くなる。The Damned Thing、つまり「呪われたもの」は――フランケンシュタインの怪物も同じように呼ばれていた――人間には見えない色でできた生物ではないか、と引き裂かれて死んだ男が書き残しているが、映画『プレデター』はこの短編がヒントになったにちがいない。

 

 

 来月の文学講座で読む内田百閒『第一阿房列車』寄りの「特別阿房列車」の構成作業をする。AIに校正を手伝ってもらったがやはり自分でやらなければ落ち着かない。

 K子から今日は帰れないと連絡がある。少し熱っぽいという。

 モンテーニュ『エセー』から途中まで読んでいた「人喰い人について」を読む。内田百閒『第一阿房列車』より「鹿児島阿房列車 前章」を百閒の故郷である岡山到着まで読む。

 

 

 鉄道の旅がしたくなる。小海線で小諸まで行き引き返す、中央本線で名古屋、中央本線と篠ノ井線で長野、中央本線と飯田線で豊橋などなど、たとえ行けなくても地図を眺めて想像するだけでもよい。オートバイツーリングにハマっていた頃も一番楽しかったのはあるいはツーリングマップを開いてあれこれルートを考えていたときかも知れない。