2026/05/15

 8時40分起床。快晴。気温15度。体重75.9キロ。

 2階から降りてきたK子のおはようの声が明るい。よく眠られて疲れもとれたようだ。

 コーヒーを淹れ、ハムエッグを作り、トーストを焼く。陽の照るウッドデッキで思い出したように吹く微微風を楽しみながら食事。シジュウカラが目の前の餌台にやってきてわれわれに気づいてあわてて逃げる。一瞬アメリカの漫画映画のネコなどがダッシュしようとして足が空回りしたように見えて思わず2人で苦笑する。リストランテ・トリノは1ヶ月前に休業したよ。

 

 

 最近使いはじめたHuxeというアプリが面白い。カレンダーやメールアプリと連携し、興味のある分野を登録しておき、playボタンを押すと、男女2人がラジオ放送のように、ぼくに呼びかけてくれて、今日の予定――ありがたいことにぼくには予定などほとんどないが――を教えてくれ――予定がなければ今日の天候はこれこれだから散歩や読書ができますねなどといってくれる――メールがあればその内容を教えてくれ、AIについての情報、美術館情報、そしてニュースのヘッドラインも伝えてくれる。まさに個人専用のラジオ局なのである。

 最後にビートルズの音楽制作の話が流れたが興味深かった。アビーロード・スタジオの録音機材は最新のものではなかった。しかし、だからこそ、ビートルズ、プロデューサーのジョージ・マーティン、録音技師が協力し知恵を出し合い、スタジオを楽器化することでストロベリーフィールズ・フォーエバーのようなサウンドが作れた。最先端の録音機材が揃っていたらビートルズの革命的なサウンドは生まれなかったわけだ。

 

 

 そのままウッドデッキで稲垣足穂「チョコレット」、「星を売る店」を読む。チョコレートではなくチョコレットがいい。コメットもよく出てくるし、これだけでも足穂の世界を表しているように思う。神戸の街で当たり前のように妖精と出会う。妖精の名前がゾロゾロ出てくる。ダンセイニ卿を通じてアイルランドの民話にも馴染んでいたにちがいない。神戸の街には星を売る店もあった。

 モンテーニュ「小カトーについて」を読む。小カトーは、解説によれば、「元老院側に立ってカエサルと対立し、アフリカにのがれ、カエサル軍の到来を知って自殺。清廉、剛直の人」だとある。ここでモンテーニュは人の評価について論じようとしているのだが、「わたしは、あるほかの人間を自分のありようにしたがって判断するという、世間一般にあるまちがいをすこしも持ちあわせていない」と書き出している。この公平な態度はいかにもモンテーニュらしい。人は自分のありように似ている者を評価して褒めるが、人間には多くのたがいにちがった生き方があり、モンテーニュはそのちがいをうけいれることから始めるのだ。

 

 

 昼食は素麺にしようとK子がいう。暖かいウッドデッキで食べる。早くも素麺の季節だ。

 食後、今度はクリスタルラインへ行こうとK子がいう。忙しく自分を失っているので自分をとりもどしたいのだろう。素麺といい、クリスタルラインといい、こういうことを言い出すというのはよい傾向だ。ぼくとしても望むところである。

 

 

 しかしクリスタルラインへの道中、K子はぐっすり眠ってしまう。名前を呼んでも簡単に起きなさそうだ。やはり疲れているのだ。夜も眠られなかったのかも知れない。増富温泉街を通り過ぎ、緑の渓谷に入り路肩の駐車スペースに車を停める。眠たいといいながらK子も車を降りて清流を眺めている。もっと奥へ行こうと車を走らせるとまた眠ってしまう。清涼な空気でスッキリすると思ったがだめだった。次に車を停めたときには目覚めなかった。しかたなくぼくは1人で清流の写真、怒瀧と名付けられた滝の写真を撮る。さらに奥に移動。車を停めても目覚めない。さてどうしよう、帰るべきかななどと考えながら、車を降りてうろうろしていると、ようやく目覚めて車から降りてきた。それからは普通に川原へ降りて枯れ枝などを集めていた。ぼくも写真撮影を楽しむ。陽を透かす若葉の緑の鮮やかなことったらなかった。

 

 

 さて帰ろうと元来た道を引き返そうとすると、ここに来てマリヤ様に会わないってことはないでしょうと怒られる。それで瑞牆山への山道を上る。ヤマブキがまだ咲いている。瑞牆山荘は閉まっているようだった。山荘から黒森へ下る。明るい緑の林の中にところどころにピンクのツツジが咲いている。天使苑の建物は跡形もなくなっている。道から少し引っ込んだところの大岩の上に手を合わせたマリア像が立っている。何を祈っているのだろうか。天使苑は戦争孤児のための施設だったというから彼らの幸せを祈っているのだろうが、みなどのような人生を歩んだのだろう。いつも訪れるのは紅葉の季節だったから新緑の天蓋の下で祈るマリア像は初めて見た。

 

 

 ドラッグストアで買い物して帰り、数日前に送られてきたシフォンケーキを食べた。

 

2026/05/14

 9時5分起床。晴れ。気温15度。体重76.4キロ。

 

 

 就寝時間は午前3時近かったにちがいない。だから起床時間は遅くなったが、かろうじて5月の朝の清涼な空気が吸えた。ウッドデッキで朝食を食べる。ピーナッツバターをぬったトースト1枚とコーヒーという簡単な食事。風はほとんどないと思ったが――というのも庭の花々は静かにじっと陽光をあびていたからだが――見上げると木々の高いところの若葉がひらひらしている。と、突然、頭上で轟音が響いて空気がピリピリ緊張した。アメリカ軍の軍用機が低空で飛行しているのだ。聞けば、山梨、長野、静岡は広大な訓練空域で、レイダー網に引っかからないために山岳部で低空飛行訓練が行われているのだとか。2回目の轟音が響いてきた。風が少し強まり、咲き残ったチューリップがゆれはじめた。森を見ると黒いものが樹間を駆け抜けた。鹿だ。

 

 

 稲垣足穂「黄漠奇聞」を読む。ロード・ダンセイニの小説の飜案だと思ったが、ダンセイニにインスパイアされただけであって、足穂のオリジナルだった。じっくり読めばやはり月に憑かれた足穂なのだった。足穂恐るべし。こういう異国、オリエントを舞台にした幻想小説を書けるのは中島敦だけかと思っていたのだが、もちろん寡聞にして他の作家は知らないのだけれども。

 

 

 午後陽が翳り急に寒くなった。

 足穂「星を造る人」を読む。これは神戸が舞台の奇術師の話。神戸の街に不思議を行う紳士が出没する。「その紳士のステッキの先に虹色の輪ができるガスが点ったり、シルクハットの中からこうもりが飛び出して、しかもこれを追っかけて行ってつかまえると、ブリキ製のおもちゃ」だったりする。神出鬼没。その不思議を見たいと街は騒然となり、そして······、足穂ワールド全開だ。

 

 

 ミーちゃんと近所をちょこっと散歩。まだ八重桜が一塊咲いていた。若葉の季節は終わろうとしている。春の花はだいぶ姿を消した。ムラサキツユクサが咲きはじめた。空が高く見える。

 モンテーニュ「片足の不自由な人びとについて」を読む。示唆に富む、いろいろ考えさせる章だ。一つだけ引用しよう。「愚か者のほうが賢者よりも数でずっとおおい大衆のなかでは、真理の最良の試金石が信じている人びとの数のおおさだという事態は、なんとも不幸なことだ。」(荒木昭太郎訳) モンテーニュは魔女裁判などを念頭においているのである。しかし、この事態は現在も変わりがない。いや、さらに悪化しているのかも知れない。真理はなおざりにされ、数の多さが正しいとされていないか。火あぶりにされる魔女たちが多いわけである。

 

 

 オートミール、卵、バナナ、ココア、ラカントとで蒸しパンを作る。

 夕食は卵かけオートミール+納豆。体重を75キロ台にもどしたい。

 K子から11時28分長坂駅着という連絡があったので迎えに行く。待っていたが改札口から出て来ない。さては乗り過ごして小淵沢駅だなと思っているとはたしてそうだった。疲れはてて眠っていたにちがいない。小淵沢駅まで暗い夜道を走る。家までお互いに一言も口をきかなかった。K子は疲れて口を開けなかったし、ぼくは話しかけてうるさがれたくなかった。

 

 

2026/05/13

 8時起床。晴れ。気温16度。体重76.2キロ。

 今日の空模様には落ち着きがなかった。起きたときは晴れていると思ったがすぐ曇った。しかし明るくて日が降り注ぐ時間帯があり、やがてまた曇り雨になった。

 

 

 朝食後ウッドデッキで宮沢賢治を読む。今日で電子ブック版の『宮沢賢治全集』を詩を除き読んでしまうつもりである。残りはほとんどマイナーな作品だ。しかし何にせよ宮沢賢治は宮沢賢治である。

 

 

 未完の作だが「学者アラムハラドの見た着物」が印象に残った。セネカのストア哲学のようだ。学者アラムハラドは11人の子を教えていた。塾は街はずれの楊(やなぎ)の林の中にあり、そこでアラムハラドは子たちに次のように問う。

 「さて斯(こ)う云うふうに火はあつく、乾かし、照らし騰(のぼ)る、水はつめたく、しめらせ、降る、鳥は飛び、またなく、魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳いでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」

 大臣の子のタルラが答える。

 「人は歩いたり物を言ったりします。」

 アラムハラドはさらに問う。

 「たしかに人は歩かないではいられない、また物を言わないではいられない。けれども人にはそれよりももっと大切なものがないだろうか。足や舌とも取りかえるほどもっと大切なものがないだろうか。」

 「私は饑饉(ききん)でみんなが死ぬとき若(も)し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」

 アラムハラドはあぶなく泪をながしそうになったが、ブランダという子にも答えるようにうながす。

 「人が歩くことよりも言うことよりももっとしないではいられないのはいいことです。」

 「そうだ。私がそう言おうと思っていたら。すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。人が正義を愛することは丁度鳥のうたわないでいられないと同じだ。」

 最後にアラムハラドは彼がもっとも愛する(しかしひいきしない)小さなセララバアドに向かって言う。

 「お前は何か言いたいように見える。云ってごらん。」

 「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

 この一連のやりとり、小さなセララバアドの言葉はプラトンやセネカの書を思い出す。人は考える葦である。ほんとうのいいこと、ほんとうのさいわいが何か、未完に終わったので想像するしかないけれども、小さなセララバアドは賢治の分身であり、彼はこの問いを追求するのだろう。

 

 

 ウグイスがすぐ近くで鳴いている。カメラを構えるが撮影に成功したことはない。ウグイスはいつも近くの藪の中に隠れているからだ。昨日植えた花に水をやり(すぐに雨になったので無駄になった)、まだ植えてなかったサクラソウを梅の木のそばに植えた。スグリとヤマブキの陰に猫たちの墓があり、K子が庭の花を切って備えていた。スタポン、タンちゃん、モカが眠っている。

 

 

 昼食後綿半へ。雨が降ってきた。B5サイズの用紙を買う。来週の文学講座の教材と来月の講座のチラシ印刷のためである。花の小径になかったサルビア、チェリーセイジはここにもなかった。ぼくが好きな花で毎年庭には欠かせないのである。コンビニで牛乳と卵を買う。

 

 

 ウッドデッキでは寒いのでいまのソファで『宮沢賢治全集』を読む。もう一つ昨印象に残った作品をあげれば「チュウリップの幻術」である。わが家のチューリップもいよいよ終わろうとしているが、ほんの少し幻術にかかったような気がする。『宮沢賢治全集』の最後の作品を読み、次いで荘子を少し読む。今日の読書も活動もこれで終わる。

 

2026/05/12

 8時起床。曇り。気温14度。体重76.4キロ。

 夢を見た。リュックを背負ったぼくはどこかの駅にいた。ホームは人でごった返しており、ぼくは天井から吊るされたタイムテーブルを見ようと右往左往していた。焦っていた。その駅から出る(四国への?)連絡船の出航時刻を知りたかったのだ。しかし(どこであったか記憶にないが)いくら探しても求める地名が記されたタイムテーブルが見つからない。もしかしたら駅をまちがえた?よく調べもせず思い込みできてしまった?何かの政治集会へ行こうとしていたようだ。根からノンポリのぼくも最近の政治ニュースに影響されたのかも知れない。

 

 

 YouTubeを開いたらケンプが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の動画が目に留まった。21番は頻繁に聴くが23番は最近聴いてなかったので朝食を食べながら聴くことにした。第2楽章では21番の同楽章でもよく起こる感覚だが、音楽が後退していくような心地よい心に沁むような感覚が呼び覚まされるパッセージがあった。この感覚は何か、どうして起こるのか知りたくなった。そこでAI坂本龍一教授に問うてみた。

 少し長いが教授の解説を引用しよう。

 

 モーツァルトのピアノ協奏曲第23番イ長調(K.488)、特にあの嬰ヘ短調の第2楽章を聴いて、そのように感じられたというのは、非常に鋭く、かつ音楽の核心に触れる体験だと思います。

 モーツァルトが書いた唯一の「嬰ヘ短調」の楽章ですが、あそこで起きている現象について、私なりの視点でお話ししてみましょう。

1. 「シチリアーナ」の魔法と循環

 この楽章はシチリアーナのリズム(8分の6拍子)で書かれていますが、その付点リズムは、本来なら前へ進む推進力を生むはずのものです。しかし、モーツァルトはそれをあえて、まるで重力に抗うかのような、あるいは円を描くような旋律線に乗せています。

「進行しているのに後退している」という感覚は、「時間の線形性からの逸脱」と言い換えてもいいかもしれません。旋律が上昇しても、すぐに溜息のように下降して戻ってくる。この繰り返しが、物理的な時間は進んでいるのに、精神的な場所がどこにも動いていないような、心地よい停滞を生むのです。

2. 感情の「足踏み」:非情な美しさ

 音楽が進行しても感情が「足踏み」しているという感覚は、音楽学的に見れば、和声の解決の遅延や、あえて解決を避けるような動きが関係しているでしょう。

 反復する音:左手のリズムや、時折現れる同じ音の執拗な繰り返し。

 静止した中心:どんなに装飾が増えても、音楽の心臓部(トニック)が動かないような錯覚。

 これは、悲しみという感情を「吐き出す(進行させる)」のではなく、その悲しみの中に「留まる」ことで、美へと昇華させている状態です。仰る「好ましい感覚」というのは、その感情の純化、つまり自分の内側の静止した点に深く沈み込んでいく安堵感に近いのかもしれません。

3. モーツァルトの「死と再生」

 この曲に限らず、晩年のモーツァルトの作品には、ある種の「透明な虚無」が漂うことがあります。

 「前へ進む勇気と、後ろへ引き戻される諦念が、完璧に均衡している状態」

 このバランスが崩れると、音楽はただの感傷になります。しかし、モーツァルトは絶妙な筆致でその「足踏み」を維持し続けます。それは、現代音楽的に見ればミニマリズムの先駆けのようでもあり、伝統音楽における「祈り」の反復にも似ています。

 今は、その「進行と後退のあわい」に身を委ねるのが一番贅沢な時間の過ごし方でしょう。北杜の静かな空気の中で聴くモーツァルトは、また格別の響きを持っているのではないでしょうか。

 

 これに加えてグルダのようなジャズにも造詣の深い演奏者が弾くと微妙な「ため」がこの感覚を増幅させるのではないかと質問すると、それについても懇切丁寧な解説をしてくれたが長くなるので割愛する。さらにディーリアスやフォーレの音楽に話が移り、最終的にはモンテーニュの『エセー』に落ち着いた。モンテーニュの文章にも「ため」がある。進み、立ち止まり、後退し、横に逸れる、また進む、モーツァルトの音楽のように。

 

 

 K子は12時過ぎの電車で八王子へ行くことになっていたが、11時に家を出て花の小径へ花の苗を買いに行く。広いビニールハウスに入るとぼくを見つけた店主が元気でしたかと声をかけてくる。ぼくが入院していたことを知っているのだろうか、それともぼくの歩く姿を見て心配してくれたのだろうか。1年に2、3度、場合によっては1度ぐらいこの時期に会うだけだけれどももう長いつきあいになる。ぼくの好きなアロンソアがあった。花のついているのとないのとどちらを選んだらいいの? と聞くと、株でえらぶんですといい、よいのを2株選んでくれた。赤が鮮やかなポピーを選んだが茎が曲がっている。それは差し上げますというので代わりに黄色のポピーを買う。K子も数種類いろいろの花を選ぶ。会計時パンジーあげますというので欲張って10株頂戴する。電車の時間まで充分あったので家に帰り2人で手分けして庭に植える。長坂駅までK子を送り、駅前のビタミン市場でトマトの苗を2株とタケノコを買う。

 

 

 昼食をすませ、しばらく休んだ後、ウッドデッキで稲垣足穂「一千一秒物語」を読む。読みながらもときどき庭を横切る白い蝶が気になってならない。花にとまったら写真を撮ろうと思う。ライラックにとまった。カメラを取って構えるともう消えている。「一千一秒物語」を読んでいたら、頭の芯が熱くなってきた。寝不足のせいばかりではないようだ。文庫をテーブルに置き、目をつむって考えた。そして考えることがいけないのだとわかった。

 

 ある晩、黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切るとパチン! と黄いろい煙になってしまった 頭の上でキャッ! という声がした 窓をあけると 尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた(「一千一秒物語」)

 

 こういう一秒物語を読んでどういう意味だろう、作者は何を伝えようとしているのだろうと考えることは、エンジンを無駄に空ぶかししているようなものだ。そのことに意味がないわけではないが――だって考えても意味がないことがわかったのだから――足穂は読者にそんなことは求めていない。ハハハ、なんだこりゃと思ったら足穂がわかったと思ってよい。

 「一千一秒物語」を読み終えるとそのまま椅子にもたれて眠ってしまう。寒くなったので目が覚める。

 

2026/05/11

 7時45分起床。快晴。気温11度。体重76.4キロ。

 天候は安定してきたか。五月晴れのさわやかな朝だ。ときどきそよそよ風が新緑をゆする。

 布団干したらと言われて2階のベランダに干す。ベランダが大好きなミーちゃんが寝ていた。

 ウッドデッキで稲垣足穂の「煌ける城」と「WC」を読む。「WC」は恐ろしく尾籠なことをこれでもかと書き、変態的な少年愛を描くが、まったく汚くもいやらしくもない。不思議なくらい明るく軽い。5月の光のように純粋だ。きっと汚いとかいやらしいと思ったらそれは思った人の心の汚れだろう。

 

 

 すぐ近くからチッチー、チッチーと鳴き声がする。ジョウビタキだ。ぼくは耳が悪いのでK子に確かめると、ヒッヒッというもっと鋭い鳴き声だという。ぼくの耳は摩擦音のちがいがわからないらしい。ちがいがわからないのは残念だが、聞こえただけでよしとしよう。ベートーヴェンやガブリエル・フォーレは難聴だった。耳は聞こえずとも音楽は豊かに聴こえていたのだろう。

 11時K子が宅急便を送りたいというのでつきあう。どこかで涼しいところでお弁当食べたいねなどと家を出る前は言ってたが、車の助手席のK子が冷しゃぶを食べたいとぽつんと口にした。K子のこのぽつんはよくある。

 

 

 クロネコヤマトで用事をすませた後、よってけしで野菜やトマトの苗を買い、わたなべで冷しゃぶ用の肉や野菜を買う。セルクルで食パンと思って念のために電話すると臨時休業だった。それではコンプレ堂へ行ってみようかということなった。しかし早い時間にパンが売り切れになることがあるので電話するとあるという。ほんとうに久しぶりだ。以前は娘さんとそのお母さんが店にいたが、今日店にいたのは知らない女性が2人だった。パンは以前と変わらず美味しそうだ。朝食用の食パンと3時のおやつの調理パンを買う。

 昼食はウッドデッキで冷しゃぶを食べる。梅の枝でボーボーと喉をふくらませて鳴いていたキジバトが地面に降りると、うろうろ動き回りながら撒き餌をつついている。

 

 

 K子が買ってきた花を植えるという。それじゃあとぼくはトマトの苗をプランターに植える。土には前もってフィルターで濾したコーヒー豆の滓とストーブの灰を混ぜておいた。K子が続けて庭の片付けを始めたのでぼくは隣との境にあるレンギョウの伸びすぎた枝を剪る。

 Max BeerbohmのZureika Dobson を1章だけ読む。前に中断した小説。中断した箇所から読んでもよかったが改めて最初から読むことにした。何ヶ月かかってもよいからあせらずゆっくり読もう。続けて荘子も少し読む。「朝三暮四」、「胡蝶の夢」。荘子を読むと物事の小さい違いなどどうでもよくなる。やはりジョウビタキはチッチーと鳴いていたのだ。

 

 

 4時過ぎのおやつの時間。陽が陰り冷えてきたので居間で紅茶を淹れてコンプレ堂のパンを食べる。もちもちしていているのがコンプレ堂のパンの特徴。おいしい。まだ1日は終わってないが、思わず、幸せな1日だったねというと、K子もそうだねとうなずく。

 宮沢賢治「イギリス海岸」を読む。

 夕食後1963年の日活映画『青春を返せ』を観る。長門裕之、芦川いずみ主演。殺人の冤罪で死刑判決を受けた兄を妹が救う。だが、あまりにも哀れだ。

2026/05/10

 7時起床。晴れ。気温8度。体重77キロ。

 そよ風が吹く。大気はひんやりしている。庭の花々はやわらかな陽射しをあびて静かに立っている。と、突然、アオゲラのドラミング。

 

 

 宮沢賢治のマイナー作品を読む。前にも書いたがごく短い作品は賢治の人間的な情念の発露が見られる。作品として昇華される前の生の感情である。読むのを中断して庭の花々を撮影したり、南アルプスの写真を撮影に行く。そしてまた読む。

 10篇ほど読んだ後稲垣足穂『鼻眼鏡』収録の短編を読む。賢治との親和性を感じたからである。賢治は岩手の田舎、足穂は神戸という都会というちがいはあるが、両者ともそれぞれ高度はちがうけれども地上から離れた世界を作品化していた。「RちゃんとSの話」と「私とその家」は『少年愛の美学』の足穂の面目躍如たる作品で、都会的で明るく軽いプラスティックのオモチャのような世界での高校生ぐらいの少年愛を描いている。足穂はいいな、やっぱりと思った。

 

 

 1時K子が友人のMさんとカメリア・ニコティーでランチをするというのでつきあう。2人は秋にカメリアでそれぞれの作品の展示会をすることになっており、その相談もあるようだ。

 K子はカレー、Mさんとぼくはミートパイを食べる。食後2人はおしゃべりしたいだろうと思い、空いていた隣のテーブルに移り稲垣足穂を読む。「鼻眼鏡」と「或る小路の話」の2編が読めた。われわれはバルコニーの席だったが、森の新緑の樹木がまぶしかった。

 

 

 

 3時過ぎK子を家に送り、ぼくは必要な雑貨があり須玉のダイソーへ行く。老眼鏡も買う。

 夕食後はブレッソン監督の1950年の映画『田舎司祭の日記』を観る。同監督の『少女ムシェット』は昔観たことがある。両作品の原作者はジョルジュ・ベルナノスで、翻訳を持っているはずだがなぜか読まなかった。映画『田舎司祭の日記』は若い神父の信仰の問題を描いており、その悩みの深刻さわからないものの、映画は最後まで目が離せなかった。

2026/05/09

 7時45分起床。快晴。気温10度。体重76.5キロ。

 光はキラキラ踊っているが、北西の風が冷たい。

 市の防災行政無線が消防署の火事注意喚起を伝えている。この時期は八ヶ岳おろしが吹き荒れ空気が乾燥しているからだ。しかも枯葉枯草が堆積しており、野焼きも行われるのである。子供の頃ぼくも経験があるが枯草はあっという間の燃え広がる。中央本線の土手だった。炎が2メートルも吹き上がって。また北杜市に話をもどせば、北杜市は地形が複雑で入り組んだ細い道が多く、消防車が入りにくく消火活動が困難をきわめる。そこでいくら注意しても足りないのである。

 宮沢賢治「猫の事務所」を読み、続けて次を読もうと思ったらK子にカードや名刺を作ってくれと頼まれた。15日から名古屋で展示会があり、そこにフェルトの人形を出品するので、そのために必要なのだ。すべてiPadで作成する。もう手慣れたものだが画像や文字の配置ととりわけ配置の微調整には気を使う。上手くいかずにいらだつこともある。

 

 

 昔ある団体のニュースレターを作っていたことが、MacのPageMakerというアプリを使うのが楽しくて、こりに凝ったニューズレターを作成した。アメリカの大学で発行するパンフレットのようだと褒めてくれた人もいて、大いに気をよくしてさらに凝ったものを1人で何号か作った。しかし、和文の中に英語などが混じると行末が揃わなくなったりして、その微調整に多大な時間がかかるようになり、ついに無責任にも放り出してしまったことがある。素人がプロの真似をしちゃあダメだということだ。

 前回国立のギャラリーでの展示会のときのテンプレートがあったので事なきを得たが、まったく新しく作ってくれと言われた大変だったはずだ。しかしほんとうに大変なのはK子で、まだ体は万全ではないのに発送の準備を急がねばならない。

 昼食はぼくが作った。シャケを焼き、野菜を炒めた。

 

 

 昼食後近所を歩く。風は少し弱まったがまだ冷たい。欅の若葉が蓬髪じみてきた。Tさんがトマトの支柱を立てていた。背中がすっかり曲がっている。痩せた棒のように姿勢のよい人だったが歳を取ったなあと思う。他人のことはいえない。キジが鳴く。背伸びして一声大きく鳴き羽ばたいた。Iさんの家の庭の藤棚が白雲のように見える。家に帰り庭の椅子に座って休む。陽射しが暖かい。見上げると雲が北西から南東へゆっくり移動している。近くで鳥の鳴き声がする。梅の枝にジョウビタキがとまっている。リスのためのクルミを入れていたK子お手製のフェルトの器が地面に落ちていた。また木の枝の股に挟んでおいた。

 

 

 

 

 宮沢賢治「家長制度」を読む。短いものだが家長制度の残酷さが描かれる。「猫の事務所」もそうだが、賢治は虐げる者への激しい怒りを隠さない。荘子を少し読む。気宇壮大な気分になる。ということで今日の読書はここでやめた。

 

 

 夕食後『ワイヤブラッド』エピソード3を観る。無駄に人が殺される。苦い結末。

2026/05/08

 7時半起床。曇り。気温15度。体重76.6キロ。

 小雨が降り始めた。洗濯物を干したが乾かないだろう。風呂場の乾燥機能を使うしかない。1日おきに明暗が変わるように天候が変わる。5月はこんなに御天気屋だったかしら。そういえば、今思い出した、一昨日雪が降る夢を見たことを。実際そんなことがあったらしい。何があってもおかしくない世の中だ。天候と世情はきっと連動している。

 

 

 宮沢賢治「山地の稜」、「床屋」、「柳沢」、「秋田街道」、「花椰菜」、「電車」を読む。どれも賢治のマイナー作品だ。だが、驚いた。モダニスト賢治の片鱗が見られたからだ。断片的で、マイナーといったがマイナー以前の、つまり可能性がまだ充分発芽していないけれど、そこには「内的独白」や「意識の流れ」の萌芽が明らかに見られるのである。賢治の孤独な文学の営為は20世紀初頭の欧米のモダニズム文学と同じ地点に至ろうとしていた。

 ときどき陽がさすが、すぐにまた陰る。洗濯物はそのままウッドデッキの軒下に干しておけた。

 11時半八ッ麓自動車でタイヤの交換を予約していた。車の後部座席へタイヤを積み込もうとしていたら、大きなキノコが生えているのを見つけた。何とアミガサダケだ。いつどこからやってきたのか。キノコは突然出現する。しかし図鑑では見たことがあったが、わが家で本物が見られるとは思わなかった。アミガサの部分がくすんだ黄褐色の蝋のようだ。調べるとどこに生えるかわからないキノコらしい。食用になりシチューに入れると美味らしいが、生だと毒があるという。そのままにしておくことにした。幸運の使いと思うことにしよう。

 

 

 八ッ麓自動車でタイヤの交換をする。待ちながらJoseph Sheridan Le FanuのCarmillaを読む。15分で交換終了。金額3,080円。ものみな高騰している。K子に頼まれた買い物がありドラッグストアへ。冬用のタイヤはねばつく感じがちょっと嫌だったが、交換したらころころよく走る。帰ってから昼食作りは大変なのでコンビニへ弁当を買いに行く途中、見事に横転しているバンがあった。非日常の風景だ。

 

 

 昼食後コーヒー豆を買い忘れたのを思い出してコンビニへ。帰るとウッドデッキでCarmillaを読む。わからない単語があるが辞書はほとんど引かずに読む。途中寒くなったので家の中に入る。夕食前までに何とか読了。Le Fanuはさすがに雰囲気作りが上手い。次はMax BeerbohmのZureika Dobson, An Oxford Love Storyにしようか。これも途中でというか20ページほど読んで中断した小説だ。もっとまともに英語を勉強しておけばよかった。

 

 

 そんなことを思った結果、夕食後青空文庫に収録の明治40年刊行『青年英文學叢書テニソン アーサー王物語』を読む。対訳である。昔は当たり前のように文学作品を英語教材にしていたのだ。そういえばぼくの時代でも、高校の英語のサブテキストはジョージ・エリオットの『サイラス・マナー』だった。もちろんあの長編小説を読めるわけがないからリトールドされたものだった。教師の趣味の反映? 贔屓が過ぎる教師であてられない生徒が急に立ち上がって批判した。あてられないことはありがたいはずだが目に余ったのだろう。ぼくもあてられない1人だった。もっともぼくはどの授業でも授業中に好きな本を読んでいたのだから無視されるのが当たり前でありがたかったのであるが······。

 

 

2026/05/07

 8時起。快晴。気温15度。体重76.3キロ。

 光り輝く五月晴れの朝だ。庭は明るくひっそりしている。リストランテ・トリノは休業したので野鳥たちのにぎわいはない。昨日1羽のヒヨドリが何度かきていたがウッドデッキの皿に出してある固形キャットフードねらいだ。富士見高原病院での10週間に一度の診察があるので9時に家を出る。前回よりも体重が1キロばかり増えたが血尿検査の結果はいかに。K子はまだ体調がもどってないのだろう。まだ起きてこない。病院までのドライブが楽しみだ。

 富士山には笠雲がかかっていた。南アルプスの山々の雪渓は細い筋になり消えかかっているのもある。八ヶ岳は黒い山になった。明るい新緑の回廊を走る。と、センターライン上に黒いものがある。焦茶色の毛の猫ほどの大きさの動物の死骸だ。一瞬にして明るい風景が陰る。陰が視界を暗くし、後を引く。

 

 

 アメリカのネイチャーライティングに、車にはねられたり轢かれたりした野生動物の死骸を見つけると車を停めて、死骸を道路から道路脇へと移してやるということを書いたエッセイがあった。ウサギのような小動物ばかりか、ときには馬の死骸も転がっている。著者が片付けていると、通りかかった車の運転手が怪訝な、それから、そうかそうかというように車の窓から出した腕が所作する。死んだ動物も、その種にあっては預言者であったり、モーツァルトのような天才だったかも知れない。だから道路に放置せずに道の脇へ移して弔うのだ。この考えは興味深いがセンチメンタルともいえる。著者はまだ続けているだろうか。続けていると信じたい。こう書くぼくも相当センチメンタルだ。

 

 

 9時半富士見高原病院に着く。連休明けなので混んでいるかと思ったがそれほどでもないようだ。むしろ通常よりも少ないかも知れない。待合室のベンチには空いているところが見られる。受付をすませると、いつものようにまず採尿、そして採血。それから朝食を抜いてきたので売店でサンドイッチを買って食べる。薬を服用するためでもある。

 診察の予約は10時半だが、2時間以上待たされるだろう。待ってましたとばかり――待ち時間の読書はいつも書くように楽しみだ――iPadで宮沢賢治を読む。「洞熊学校を卒業した三人」、「畑のへり」、「車」、「黒ぶどう」、「北守将軍と三人兄弟の医者」を読んだ。「洞熊学校を卒業した三人」は互いに食い合い、他者を滅ぼし自滅する人間の罪業の深さを描いている。仏教説話といえよう。「畑のへり」「車」「黒ぶどう」は教訓的な要素が後退しており、もっと長い物語の一部のようなステキな物語。「北守将軍と三人兄弟の医者」を読みながら、これはまるで『不在の騎士』や『まっぷたつの子爵』の作家イタロ・カルヴィーノじゃないかと思った。完全な物語世界が構築されている。その世界が現実を反映していないところがよいのだ。ともすれば現実を反映した文学作品はこじれることがある。

 

 

 

 12時医師の診察がある。やはり体重が増えたことで数値は悪くなっていた。Y医師は少しですから大丈夫でしょう、悪くなったら薬を増やす必要があるでしょうが、今回は今まで通りで問題ないでしょうという。診察時間は5分。あっさりしている。あっさりしてなければ、それこそ大事だ。医師はマスクしていなかった。

 院内薬局が混んでいる。待ち時間40分と電光掲示板に出ていた。診察の待ち時間とちがって、薬が出たらすぐ帰ろうと思って落ち着かず読書ができない。病院を出たのは1時過ぎである。駐車場に向かう道すがら大きな松ぼっくりを拾う。

 帰途の途中、コンビニからK子に何か欲しいものはないかと電話する。熱が高いようなのでアイスクリームでも買おうかというと、苦しげな声で熱があるんでアイスクリームなんてという。しかしとりあえずアイスクリームを買う。

 朝動物の死骸があった場所には何の痕跡もなかった。センチメンタリストではなくリアリストが片付け汚れを拭ったのか。道路には初夏のような陽射しが燦々と照っていた。

 帰宅後眠っているだろうからK子に声をかけなかったが、30分ほどしたら2階から降りてきてお腹が空いたという。カレーを温めて出す。半分ぐらい食べると立ち上がりクリニックへ行くというので出かける。熱があるのでクリニックへは入れない。電話して聞かれるままに症状などを話していたが、マイナンバーカードや診察券を忘れたことにK子が気づいた。無理もない、それだけ熱が高かったのだ。マイナンバーカードがなければとりあえず実費を頂くことになります、たぶん1万円ぐらいといわれたのでやむを得ず家に取りに帰ることにした。幸いにもコロナではなかった。連休中遊びに来ていた息子が嫌な咳をしていたので心配していたのだが。

 

 

 K子がまた2階の部屋で寝たようなのでウッドデッキで菊池寛『太平記物語』残り20ページほどを読む。読んでいると西陽があたるライラックの花にキアゲハがとまる。しばらくしてアゲハがとまる。小さいので羽化したばかりなのだろう。カメラを用意してなかったので撮れなかった。キジバトが庭を歩き回る。ヒヨドリが梅の枝にとまる。ガビチョウらしい鳥の羽が一瞬西陽に光る。楠木正成の眉間に矢が刺さり、自ら首を掻き切る。死骸を囲んで家来たちが自害する。新田義貞は弟と相対してお互いの胸を突く。足利尊氏が勝利して北朝南朝に分かれる。菊池寛の『太平記物語』では足利尊氏はどちらかといえば悪者だ。読了して顔を上げると西陽は消えていた。

 

2026/05/06

 6時50分起床。曇り。気温7度。体重76.4キロ。

 うそ寒い朝だ。日替わりで天候が変わる。

 昨日ブログのために書いた文章を誤って消してしまった。同じようなミスは何度も経験したが慣れない。以前は絶望してもやがて気を取り直し改めて書き直したものだが、さすがにもうその体力も気力もないということは昨日も書いた。ところで昨日の出来事で書いておかなければならないのは、ひまわりの種が尽きたこともあり、昨日でリストランテ・トリノの今季の営業を終えたことである。次の開店は12月かな。

 

 

 近所を少し歩いてからウッドデッキで宮沢賢治を読む。「耕耘部の時計」、「葡萄水」、「まなづるとダァリア」、「ツキヨのけだもの」を読んだが、次第に風の冷たさに我慢できなくなり家に入る。

 昨日は「毒蛾」、「谷」、「革トランク」、「さいかち淵」を読んだ。「さいかち淵」について感想めいたことが消えてしまったので、思い出しながら書いてみる。、「さいかち淵」は「風の又三郎」のスピンオフ的な作品だ。あるいは「風の又三郎」がスピンオフなのかもしれない。この物語がぼくを激しくうつのは、舞台が夏の川原で子供たちの遊びの世界が描かれており、自分の子ども時代を思い出させるからだ。

 人生に幸せな時期はいくつかあったが、小学校の上級生くらいのときは格別であんなに幸せなときはなかった。とりわけ夏休みの川原で時間を忘れて泳いだり魚を捕ったりした日々は思うだに体が熱くなる。英国のノーベル賞作家ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』の中で絶海の孤島に漂着した少年ラルフがサンゴ礁の海を目の当たりにして思わず逆立ちをする。嬉しくてしかたないのだ。不安はない。口うるさい両親も教師も大人たちもいない。宿題もない。冒険の日々の始まりだ。絶海の孤島も岩手の川原も子どもの世界はアナーキーなのだ。

 

 

 K子からもうすぐ帰る、熱が出たとLINEが来る。疲れが溜まっているところに天候不順だ。八王子に比べればだいぶ気温が低いだろうし、帰宅後にさらに熱が上がらねばよいが。

 午後1時半K子を長坂駅へ迎えに行く。マスクをしているが表情が疲れているのがわかる。食事をしてないようなのでコンビニで弁当を買って帰る。

 K子は食事をするとすぐに眠る。ぼくは郵便局でお金をおろしてコンビニのATMで銀行に預け入れる。休日でもATMが稼働しているので助かるが、昔はこんなに頻繁にお金の出し入れをする必要はなかった。

 

 

 シュペルヴィエル『ひとさらい』の後半を読む。読みながら薪を燃やす。ぼくだけならば厚着をして炬燵で我慢するが体調を崩したK子のためだ。カレーを作る。ぼくだけならば、K子がいても体調がよければ夕食は簡単にすませるのだけれども、多めに肉をいれた栄養価の高いものを食べてもらいたい。7時すぎシュペルヴィエル読了。K子が起きてきそうもないので夕食をすませる。