微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

八ヶ岳南麓、北杜市長坂町小荒間に在住。ときどき仕事をしながら、読書、音楽鑑賞、カメラ撮影、オートバイツーリングなどの趣味を楽しんでいます。

2025/12/23

 8時起床。快晴。気温− 2度。体重74.9キロ。

 

 午前中は何をしていただろう。時々思い出せないことがある。たぶんYouTubeの動画を見ていたのだろう。ネット上では日中関係の悪化が取り沙汰され喧々諤諤だ。思い出した。トレイルカメラで撮影した野鳥の動画をYouTubeにアップしようと試みていたのだった。しかしうまくいかず、時間を空費したのだった。

 

 

 11時40分八王子の息子の所へ行くK子を長坂駅に送る。電車の時間まで魔があったので駅前に停めた車でK子はおにぎりを食べる。ぼくは駅前のながさか図書館へ行き来月の文学講座のチラシを預ける。K子が駅舎に入るのを見送り、レインボーライン沿いにある満福へ。以前から一度食べたいと思っていた店だ。先日は休業日だったので初めてである。駐車場には8台の車。男性客ばかり。チャーシュー麺を食べる。普通に美味しい。値段は他店と比べて安いかも。

 

 

 一度家に帰り、洗濯をする。2時過ぎ、洗濯した衣類などを石油ストーブの周りの保護柵にかけてながさか図書館へ。宇野浩二を読みたくなり、図書館の書棚から日本文学全集の『宇野浩二』を引っ張り出して、受験生が勉強している横で「蔵の中」を読む。若い頃読んだはずだが内容はまったく覚えていない。その頃は宇野浩二のとぼけた味が分からなかったのかもしれない。「蔵の中」を読み終えると外は薄暗くなっている。すでに3冊借りているので、次に借りようと『宇野浩二』は書庫に戻す。

 

 

 夕食後坂口安吾「いずこへ」、角田光代訳『源氏物語』から「空蝉」を読む。「夕顔」は半分だけ読んだ。

 

2025/12/22

 7時40分起床。快晴。気温0度。体重74.7キロ。

 図書館に配布する来月の文学講座のチラシを印刷する。市内8館の図書館へ15枚ずつ計120枚印刷する。15枚は少ないように思うが、各種チラシが大量に展示されており、期日が過ぎれば捨てられるチラシは半端ないだろう。

 

 

 2時K子があかりファームへ苺のジャムを受け取りに行くという。K子がアルバイトしているところだ。今は仕事はないが来年はまた雇ってもらえそうだという。富士山の眺望がよい場所なので写真を撮りたいと思って運転手をつとめる。残念ながら富士山は雲に隠れていた。八ヶ岳の赤岳が綺麗だった。

 

 

 郵便や税金の支払いが有り郵便局に行ってからクリニックへ。月曜日なのできっと混んでいるわよとK子がいうように駐車場はいっぱいだ。運よく出る車があり、日陰に停められた。今日は日差しが強い。車内で角田光代訳『源氏物語』から昨日睡魔に負けて途中で放り出した「帚木」を開く。しかしまたもやほとんど読まぬうちに眠ってしまう。ドラッグストアで買い物して帰る。

 

 

 帰宅後「帚木」を読む。今度は眠らずに読めた。「帚木」の後、吉行エイスケ「職業婦人気質」(『ダメ男小説傑作選』)を読む。

 

 

 

 夕食後風呂に入り、1959年の日活映画『かわいい女』を観る。公開当時はいざ知らず、現在では凡庸な悪女ものだった。

2025/12/21

 7時15分起床。曇り。気温5度。体重74.5キロ。

 二度寝すべきだったのに起きてしまったので終日眠たかった。

 モンテーニュ『エセー』から「真実と虚偽の区別をわれわれの能力にまかせるのは愚かしい」を読む。

 

あまり本当らしくは見えない事柄がどれほど数おおくあることか。それらについては、もしわれわれがどうしても腑におちないというのならば、すくなくともそれらのことを未決定のままにしておくべきだ。なぜならば、それらをあり得ないものと断定してしまうことは、向こう見ずな思いあがりによって、あり得ることの範囲がどこまでかを心得ているといって自負することだからだ。(荒木昭太郎訳)

 

 このモンテーニュの態度はよい。判断停止あるいは未決でいることは、信じがたいことに出逢ったときに、安易にその出来事を否定することではない。安易な決定をすることが愚かなのはそこで思考を止めることで、思考の限界を決めてしまうことだからだ。

 10時散歩に出るが雨が降り始めた。寒気はゆるんだ。

 

 

 野鳥の餌台リストランテ・トリノの前にトレイルカメラを設置。

 午後1時50分K子を長坂駅まで迎えに行く。帰宅後、おやつを食べ、K子はフェルト制作。ぼくは角田光代訳『源氏物語』から「帚木」を読み始めたが睡魔の波状攻撃を受けて撃沈してしまう。読書を諦める。

 Geminiで遊ぶ。父が撮影してくれたぼくの3歳のときの写真を動画にする。しゃがんでいる3歳のぼくが立ち上がってよちよち歩いた!

 

 

 次いで3歳の僕の写真と現在のぼくの写真を合成。孫のように3歳のぼくが老人であるぼくの膝の上にいる合成写真ができた。

 さらにその合成写真を動画にしてみた。祖父が膝の上の孫が可愛くてしょうがないという風に笑顔で孫をくすぐるように抱こうとする。孫も嬉しそうに笑う。

 

2025/12/20

 7時35分起床。曇天。気温3度。体重75.3キロ。

 

 

 7時50分、八王子へ行くK子を長坂駅に送る。小雨が降り始めた。帰って体重を測り、朝食を食べる。

 庭にトレイルカメラを仕掛ける。野鳥、とくにゴジュウカラヲ撮影する為である。

 

 

 河竹黙阿弥『十六夜清心』を読む。主要な登場人物たちが因果で結びついており応報を受けるところがわかっていても恐ろしい。

 午後1時半ながさか図書館へ。カポーティ『あるクリスマス』を返し、角田光代の現代語訳『源氏物語1』を借りる。そのまま図書館で角田訳「桐壺」を読む。現代小説を読んでいるようにわかりやすい。ふと目を上げると、『ダメ男小説傑作選』が新着図書のラックにある。以前にも目にとまり借りようかどうしようか考えた本だ。光源氏の息子である薫のダメ男ぶりが強く印象に残っていたので大半は既読だが借りることにした。「桐壺」を読み終えたので早速ダメ男小説の1篇宇野浩二「屋根裏の法学士」を読む。極貧のオブローモフ。面白い。傑作だ。やはり近現代日本文学はダメ男からじゃなければ始まらない。

 わたなべへクリスマスの鶏もも肉を買いに行く。4本買う。その他食材を買って帰る。

 他に読む予定があったが、宇野浩二が気になるので――『苦の世界』など昔読んだことはあるが――iPadのブックアプリを開いたら、以前無料で購入した『宇野浩二全集』があった。全集とあるが収録されているのは数篇で、しかも小説ではない。エッセイである。「質屋の小僧」「質屋の主人」。作者が母を抱えて貧困に苦しんでいた頃母の着物などを曲げに(質屋に入れること、質と同音の七の第2画は曲げるので)行った質屋の小僧が成長して文学青年になり、作者のもとへ作品の批評を頼みに来る。質屋の主人は小僧が年季奉公、お礼奉公を終えて暖簾分けしてもらい質屋の主人になったというわけだ。その他文藝春秋と菊池寛、斎藤茂吉、上司小剣とその小説についての文章を読んだが、鋭い批評眼の持ち主だということがわかる。

2025/12/19

 8時起床。快晴。基本0度。体重75.3キロ。

 

 

 野鳥の餌台リストランテ・トリノにゴジュウカラが来る。去年は一度も見なかったし、2、3年ぶりの来訪だ。同じカラでもシジュウカラとは姿がちがう。色も。背中の水色と、目の黒い筋が印象的だ。流線型なのでドルフィンのように見える。

 

 

 ドストエフスキーの「宣告」「現代生活から取った暴露小説のプラン」「おかしな人間の夢」を読む。やはりドストエフスキーはすごい作家だなと改めて思った。長編小説だけでなく短編も多様で、それぞれが重く深い。とりわけ「おかしな人間の夢」はSF的幻想小説で人間の歴史の過去現在未来、個人の実存をあらわにしている。

 午後3時K子とカメリアニコティーへ。K子が落としたフェルトの人形の帽子を保管してくれていたので受け取る用もあったが、K子は来年Mさんと2人でカメリアニコティーでやる展示会の相談もあったようだ。ぼくは初めて八宝茶を飲んだが、とても気に入った。

 

 

 帰宅後K子はフェルト制作、ぼくは河竹黙阿弥の『十六夜清心』を読む。いわゆる白波もの。女犯をおかした坊主が盗賊になる話のようだ。半分しか読んでないけれど。

 夕食後『ライ・トゥー・ミー』を2話観る。

 

2025/12/18

 9時20分起床。快晴。気温2度。体重75キロ。

 

 

 文学講座の翌日はいつも開放感と疲労が残っている。ミサキがミャーミャーと枕元で鳴いているが起きられない。

 

 

 こういう日は書くことはあまりない。あまり考えることなく自動的に毎日行っていることを行っているだけだ。田中小実昌に『自動巻き時計の一日』というタイトルの小説があったがそんな感じ。

 

 

 ドストエフスキー『後期短編集』から「ボボーク」「百姓マレイ」「百歳の老婆」を読む。

 

 

 4時暗くなる前に近所を少し散歩。富士山や西陽にオレンジ色に染まる八ヶ岳を写真に撮る。K子は疲れて眠っていた。

 

 

 夕食後『事件記者』を観はじめたが、iPadをアップデートするために写真アプリからビデオをSDカードに移動して空き容量を作っていたのでほとんど観なかった。しかしようやくアップデートできた。

 

2025/12/17

 8時10分起床。晴れ。気温0度。体重75.1キロ。

 午前中は文学講座の準備などをする。

 早めに昼食をすませて12時45分八ヶ岳文化村へ。いつも校庭で行われている犬の訓練もなく、オカリナ教室も休みのようでひっそりしている。

 

 

 1時20分、昨日参加希望のメールをくれたTさんが最初に来る。久しぶりにMountain BookcaseのIさん、K子のアルバイト仲間のYさん、Kさん夫妻、Hさんが参加してくれた。教材作りに時間をかけたので参加者6人はちと残念だが、この時期にこれだけきてくれるのはありがたい。読んだのがカポーティの「クリスマスの思い出」と「あるクリスマス」だったのでアメリカ人のDさんも参加できなかったのは残念である。質問したいこともあったからである。でも、彼女はデンバー出身だから南部アラバマのことはわからないかも知れない。しかし、それにしてもカポーティのクリスマス物語な純真な魂が宿った傑作だ。

 

 

 来月小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」などを読むというと、本屋のIさんが友だちの文学講座にも参加したことのある女性が琵琶をやっている、この前も『平家物語』を演奏したので、私は娘と外国旅行に行くので来月の文学講座には出られないが、彼女に連絡してみましょうという。実現するかどうかわからないが、琵琶を弾いてもらえれば楽しいだろう。

 

 

 Iさんとカメリアニコティへ行きおしゃべり。客映われわれだけだったので店主夫妻もときどき話に加わる。来月小泉八雲をやることを伝えてなかったが、奥さんが小泉八雲の掌編にアイルランドの話がありましたよねという。Iさんは娘さんがステンドグラスで有名なリヒターという人(ぼくは寡聞にして知らなかった)の作品展か何かがあってパリ、ケルンを訪ね、ヘルシンキにも行くのだそうだ。貧乏旅行だというが、円安とヨーロッパがインフレに悩んでいる今、実際貧乏旅行なのだろうが、豪勢なものである。

 

 

 ドラッグストアで買い物して帰る。シニアデーということで全品5%と引き。つぶれたドラッグストアの跡に新しいドラッグストアが開店したのでまた競争が激化したようだ。

 夕食後ドストエフスキー「おとなしい女」を読む。太宰治の語りをもっとねちっこくしたようだ。

 23時過ぎK子を長坂駅に迎えに行く。空腹だというのでファミリーマートへ寄る。自動ドアが自動ではなくなっていた。クマ対策だという貼り紙。まさかここにまで出没することはないだろうと思うが、ニュースを見れば出てもおかしくはない。市からの指導があったのかも知れない。

 わが家のご飯をもらいに来るクマという野良猫がいる。ツキノワグマのような模様なのでクマと呼んでいるのだが、子熊と誤認されないかと心配だ。一方、もう長い間飼っているミサキというお婆さん猫もいて、人の体を平気でまたいで行くのでマタギとも呼んでいるのだが、クマが出没してもまたぎがいるので安心だと話している。

2025/12/16

 7時起床。快晴。気温-4度。体重75.3キロ。

 午前中はドストエフスキー「弱い心」を読む。下等官吏が結婚を決めたものの次第に精神を病んでいき、ついに狂人になってしまう。迫真の筆致。傑作だ。

 11時40分、八王子へ行くK子を長坂駅まで送る。途中のコンビニに寄って弁当を買いK子だけが食べる。ぼくはどこか食堂で食べることに決めていた。

 店の前を車で週に何度も通り、気になっていた店でラーメンを食べようと思った。新規開拓である。しかし休業日だった。縁がないのかも知れない。

 仕方ないので小淵沢の地元民に人気のある店へ向かったが、途中でもう一軒、先の店と同じく気になっていながら一度も食べたことのない店を思い出した。ジンギスカンである。いつも駐車場に車の停まっているのをあまり見たことはなかったが、昼時に通らなかっただけで今日は数台駐車していた。ジンギスカンはずっと昔1度食べたきりだ。肉はほとんどクセがなかった。

 

 

 サンロードが10倍ポイントだったので食品などを買う。寒い家に帰るのをやめて――燃料費を節約するためだ――金田一春彦記念図書館で読書することにした。ドストエフスキー「弱い心」に感動したこともあり続けて「鰐」を読みたかったのだ。

 

 

 さて、金田一春彦記念図書館に着いたものの、なぜか図書館に入る気持ちが失せ、そのまま駐車場の車の中で読むことにした。風は冷たいが、車内はフロントグラスからまぶしく陽が差し込みポカポカ温かい。1時間半ほど読書していたが半分以上は気持ちよく眠っていた。

 

 

 4時過ぎ帰宅、夕食まで「鰐」を読む。ゴーゴリ「鼻」を意識した作品。現代のわれわれには批評の対象がわかりにくい憾みがある。

 

 

 明日の文学講座の準備をする。教材などの印刷は終わっており、忘れ物がないか注意しながらバックに詰める。

2025/12/15

 7時起床。快晴。気温0度。体重74.8キロ。

 今日はやらねばならないことが多い。2ヶ月に1度の年金の支給日なので郵便局のATMで必要な金額をおろす。健康保険代を払い込む。各種引き落としが待っているのでコンピ二のATMで銀行に金を預け入れる。車の半年点検を予約し、冬用のタイヤへの交換もお願いしたので4本のタイヤを車の後部座席に積み込む。切れた電球を取り外す。K子をクリニックへ送る。100円ショップなどで買い物······

 9時過ぎ郵便局へ。保険会社へマイナンバーのコピーを送る。ATMで金を下ろして、健康保険代などを払い込む。

 

 

 家に帰り冬用のタイヤを車に積み込む。玄関の切れた電球を外そうとするとK子に止められる。高いところに上ることは落下の恐れがあるからだ。代わりにK子が外す。ぼくはしっかり脚立を支える。JAのGSに灯油の配達を頼む。セルクルに食パンの注文。

 11時八ッ嶺自動車へ。予約していた半年点検とタイヤ交換を頼む。オイル交換も追加。小1時間待たされる。『円地文子の源氏物語』を読む。

 中村農場で昼食後。休日は混んでいて待たされるが今日はすぐ入れた。K子はいつものチキン南蛮、ぼくは親子丼。お米は梨北米だという。親子丼の卵の黄身は濃いオレンジ色だ。ボリュームがあるので満腹。

 

 

 韮崎へ向かう。ダイソーやDMCで買い物。店内を歩くのが腰が痛くて苦しい。

 ガソリンはまだ半分あったが給油する。リッター146円。近隣では多分最安値だからである。

 2時半クリニックへ。K子の午後の予約番号は13番。念のために午後の開業時間にきたが相当待ったされるだろう。ぼくは駐車場に駐めた車で待ちながら読書。『円地文子の源氏物語』。車内がポカポカ温かいので気持ちよくうたた寝。1時間ほどしてクリニックから出てきたK子が薬局に向かうのが見られた。

 

 

 家に帰り車に積んでいたタイヤをおろす。ぼくはセルクルへ食パンを受け取りに行く。時刻は5時、パンはほぼ売り切れていた。セルクルの前のセブンイレブンのATMで銀行に金を預け入れる。ナッツとチョコレート効果を買う。甘い間食を避けるためだ。GSによって灯油代を払う。

 電球の取り付けはK子に任せる。彼女は落下を心配してぼくにやらせないが、ぼくは彼女のことが心配だ。怪我をするとしたら彼女の方がある可能性が高いわけである。実際に脚立に上っているわけだし。脚立を支えるぼくは緊張し腕に力が入る。

 『円地文子の源氏物語』を読む。宇治十帖も六帖まで読んだ。

 夕食はオートミールのお粥を作る。K子が腹ごなしのよいものを求めているだろうから。

 10時『円地文子の源氏物語』読了。薫は主人公として物足りない。光源氏と比較すれば当然そうなる。ChatGPTに薫と匂宮は光源氏が2つに分裂したのではないかと問うと、その通りだという。薫は日本文学には登場するダメ男の始祖ではないかと問うとやはりその通りだという答え。

2025/12/14

 8時起床。雨。気温3度。体重75.2キロ。

 雨模様の朝だったが午後には晴れた。暖かくはないが雨のおかげで寒さが緩んだ。

 午前中は水曜日の文学講座で参加者に配る1月の講座のチラシを印刷。フィールディングの悪漢小説『大盗ジョナサン・ワイルド伝』を読む。『トム・ジョーンズ』もそうだったが長編である。焦らず毎日少しずつ読もう。返却日までには読了は無理かも。

 昼食後k『円地文子の源氏物語』3から「総角(あげまき)」を読む。

 3時20分に長坂駅に着くお迎えお願いとK子から連絡があった。1時半、たまった燃えるゴミ3袋をゴミ集積所に運び、長坂駅前のながさか図書館へ行き、到着を待つことにする。カポーティ『あるクリスマス』の貸出延長を頼む。ドストエフスキーの短編「クリスマスと結婚式」を読む。受験勉強をしている高校生。来館者は老人が多い。

 車に乗り込んできたK子は疲れている。さかんに生あくび。でも、昨日の夕食は孫とサイゼリアで食事した、食べた料理を挙げて、孫がたくさん食べたと楽しげに話す。

 帰宅後、K子はチーズを肴にワインを飲み、すぐフェルト制作。ぼくはドストエフスキーの短編をもう一つ読む。YouTubeで音楽を聴こうとしたら、夭折の伝説的ピアニスト、リパッティの「主よ人の望みの喜びよ」が流れた。リパッティはぼくの父が生まれた年に生まれ、ぼくが生まれた年に33歳で白血病で亡くなった。33歳前後で亡くなった天才が思い浮かぶ。モーツァルト、ジェフ・バックリー、それからぼくの好きなイギリスの作家デントン・ウェルチ。ニック・ドレイク······、いや、彼は26歳だった。

 アンドレ・ジッドが日記で自分と同じ年齢の天才が(天才などという言葉は使っていなかったと思うが)何をしていたか知るべきだというようなことを書いていた。残酷な言葉だ。自分の才能のなさを思い知らされるばかりだからだ。同じ年齢だった天才を見て頑張れとジッドが言っていたかどうか忘れたが、頑張りようがなく、頑張れば頑張るほど絶望するだけだろう。さて、ぼくと同じ年齢のモーツァルトも、バックリーも、ウェルチも、みないなかった。だから安心して彼らの音楽や小説を楽しめる。もちろん、現在のぼくと同じ年齢の頃にすばらしい業績をあげたひとは無数にいたわけだし、現在もいるわけだが、徹底的な差がついた今、もう彼らに拍手するだけだ。