「死の医学」への日記 柳田邦男著 | カンボジア的スローライフ

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スローダウンしてみると見えてくるものがある。ありふれた日常のささやかな出来事。人生って、そんなささやかな暮らしの一つ一つが集まったもの。だから、その一つ一つを大切に暮らすことができたらいい。マンゴーがたわわに実る国、カンボジアからの発信。

「父の教室」シリーズはまだまだ続く。

この本は平成11年の出版なので少し古いが、でも日本の「死」の変さをよく描いている。

-医学の進歩とは何なのだろうか。
治る患者よりも、ある意味ではるかに貴重な日々を過ごす死にゆく患者とのかかわりを考え記録する作業は辛い作業ではあるけれど、現代の医学・医療を見直すうえで重要な突破口になるはずである。


「死の医学」への日記 (新潮文庫)/柳田 邦男
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-治療の見込みのなくなった患者こそ1日1日がかけがえのない時間になっている。

-かつて家で死を迎えるのがあたりまえだった時代には、おとなも子供も肉親の死を日常生活のゆるやかな時間の流れと空間のなかで経験し、それを人間の自然の営みとして受け容れていた。


この本によると、日本社会では、1960年代から「病院死」が増え始め、1977年には「病院死」が従来の「在宅死」を上回るようになったのだそう。

「人は土から生れ土に還る」から社会の進歩とともに「人は病院で生れ、病院へ還る」ようになり、「生への畏敬」が生まれにくくなってしまったと著者は言う。進歩とはあるいみ「退化」でもある。

著者は言う。「看取りのとき」とは、死にゆくものの精神的ないのちの永続生を静かに引き受けるときであると。

また、現代は「自分の死を創る時代」であり、そうしなければ「よりよき死」を手にすることが難しくなっている時代なのだと。死ぬに死ねない時代。尊厳ある死を自分で創らないと人生を完成することのできない時代。

でも著者は続ける。

-死をたんなるおわりと考えるのでなく、死への過程を人生の完成期としてとらえる。

-遺された者にとって死は辛く悲しい。しかし、悲しみの中でこそ、人の心は耕されるのだ。


誰もに訪れる「その日」まで自分の生き方を貫く為に、この「生」を創っていけたらいいと思う。またこの日本の社会に、そのかけがえのない最期のときを、自然でありながら、なおかつ今の時代に沿って無理なく、幸せにすごせるようなそういう考え方がたくさん増えるといいと思う。