「大往生したけりゃ医療とかかわるな〜自然死のすすめ」中村仁一著 | カンボジア的スローライフ

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スローダウンしてみると見えてくるものがある。ありふれた日常のささやかな出来事。人生って、そんなささやかな暮らしの一つ一つが集まったもの。だから、その一つ一つを大切に暮らすことができたらいい。マンゴーがたわわに実る国、カンボジアからの発信。

もうすっかり前だけど2014年2月に中村仁一先生の講演会が地元であったので、参加してみた。大変興味深いお話であった。

「老い」は自然の摂理であり、あらがわないこと。また、「医療」は最低限の限定利用に心がけ、医療に信心して頼る思考をもたないこと。今の時代に減ってしまった「自然死」のすすめ、そういうお話に大変共感できた。

また事前に読んでいた中村さんの著書にもうんうんとうなずき共感できる部分がたくさんあった。

大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)/中村 仁一
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以下に共感した部分など。

-在宅における死も、普通は病院医療を引き継ぎますから、ほとんど「自然死」はないと言っていいでしょう。また医者の方も何もしないことには耐えられないでしょう。しかし、それは穏やかに死ぬのを邪魔する行為なのです。ですからほとんどの医者は、「自然死」を知りません。人間が自然に死んでゆく姿を見たことがありません。

-「逝き方」は「生き方」なのです。今の生き方、周囲へのかかわり方、医療の利用の仕方、これらが死の場面に反映されるということです。

-医者のいうことを聞くより、自分の身体に聞く方が間違いがないのです。

-在宅死には在宅医療死と在宅自然死があります。

-大事なのは死ぬまでの「生き方」なのです。これまでちょっと具合が悪いとすぐ「医者よ薬よ病院よ」と騒いでいた人たちが、延命拒否を声だかに叫ぶのはちぐはぐだということです。
 今の生き方、今の周囲へのかかわり方、今の医療の利用の仕方が死の場面に反映されるのです。
 やはり人は、事件事故災害やぽっくり死は別として、生きてきたように死ぬのです。

-今ほど「死」を忘れている社会はなかったのではないでしょうか。


 現代社会は医学も発展して、病気になったら病院というイメージが誰もの頭に植え付けられている。でも、そこが大きな間違いで、医療費が国の財政を圧迫するまでにばからしいことになっている。「医療」と「介護」が「穏やかな死」の邪魔をしている現代だ。よかれと思うことが実は人間を最後に苦しめて、それがあたりまえの風景になっている。

ここが変だよ、ニッポンよ!

死んでいくのに基本的にもう「医療」はいらないのだ。医療という分野で必要なのは堪え難い痛みをコントロールするぐらいだ。あとは足をさすったり、手を握ったり、そういうことが一番必要なことなのだ。

-死にゆく自然の過程を邪魔しない。
-死にゆく人間に無用な苦痛を与えない。
-本来、自然な死は安らかで穏やかなもの。

 このことを私は現代の日本人は学ぶべきだと思う。国民は、消費税アップを阻止する前に、無駄な医療費の削減に各個人が努めた方がいい。自分の安易な医療依存態勢を反省し、医療の利用は必要最低限にすべきだし、必要ない医療を拒否する覚悟をもつことが必要だ。

 中村先生の言う通り、日頃から「医者よ薬よ病院よ」とやってきた人が「自然死」を望んでも無理なことだ。また自分がそれを望んでも周りの家族が「医療よ薬よ病院よ」と望みもしない「最善」を尽くしてくれちゃうのもほんとうによくあり得る現実だ。

 幸い?カンボジアには医療が未発達のため、中村先生のいう「自然死」は多いと思う。癌だって、診断できなければまた診断できたとしても高度な医療ができなければ、そのまま祈祷や自然の薬草などを煎じて飲んで自然に死んでいくまでだ。それが正しいんだよなって気がする。若い人の病気は別として、老人になってからは、本当に自然にあることを積極的に選んでいくべきだ。

 私もそういう国にいたおかげでちょっとやそっとで病院にはお世話にならないけれど、これからもできるだけ身体の声を聞いて、自然の治癒力を信じて、それがもうかなわない場合には余計な抵抗はせず、自然に朽ちていかれるように、そういう方向で生きていきたいと思っている。

 大往生したいとは思わないけれど、この秋の落ち葉のごとく、自然に朽ちてさらりと土に還りたいもの。地球が人間のことなど考えずに淡々と自分の自然の摂理をこなすように、この私の命もまた「発展」などに惑わされずにできる限り自然の摂理に任せたいと思う。

-「死に方」は「生き方」、人は生きてきたように死ぬ。今日は昨日の続き、昨日と全く異なる今日はない。

うん、自然に生き、自然に死ねるよう、目指そう(←すぐ感化されてその気になる単純思考、笑)。