父の実家は福島県の南相馬。子供頃、よく干し柿を作ったんだそう。あまり体調がよくなかった父だったけれど、布団から起き上がって、柿を丁寧に向いて、作り方を教えてくれた。
82年を生きた父のしわしわな手。
本来なら、柿を摘み取るときにT字に茎を残してそこを利用して干し柿を作るのが正しいらしいけれど、柿を摘み取るときにT字に茎を残さなかったので、やむなく竹串を刺して吊るすことに。
たくさんあった柿だったので、ずいぶんたくさん干し柿にした。夕陽に照らされる柿はなんだかとっても「日本」の風景で、美しかった。
母が、いつになったら食べれるの?と聞くと、父が「あんたの顔ぐらいになったらだよ」と言った。それぐらいしわくちゃになったら食べれると言う意味(笑)。
この柿が母の顔のしわぐらいになったときには、もう父はなにも食べれない状態だったので、父はこの干し柿を食べることはできなかったのだけれど、私の胃袋にはたくさんはいった。
葬儀の際に、柿を吊るして飾り、棺にもこの父との共作の干し柿を入れた。想い出の干し柿。
毎年柿をみるときっと思い出すだろう、父との想い出。カンボジアに暮らしてから、日本に戻ってきても仕事やおつきあい、友達と会う・・・ことが優先で、あまり家にもいなかった私。家にいても親のことなどあまり考えなかった私。
母が、いつになったら食べれるの?と聞くと、父が「あんたの顔ぐらいになったらだよ」と言った。それぐらいしわくちゃになったら食べれると言う意味(笑)。
この柿が母の顔のしわぐらいになったときには、もう父はなにも食べれない状態だったので、父はこの干し柿を食べることはできなかったのだけれど、私の胃袋にはたくさんはいった。
葬儀の際に、柿を吊るして飾り、棺にもこの父との共作の干し柿を入れた。想い出の干し柿。
毎年柿をみるときっと思い出すだろう、父との想い出。カンボジアに暮らしてから、日本に戻ってきても仕事やおつきあい、友達と会う・・・ことが優先で、あまり家にもいなかった私。家にいても親のことなどあまり考えなかった私。
吉兆庵の「粋甘粛」という干し柿そのものにあんこをいれて作成した「秋の和」そのものの和菓子。日本の和菓子の世界ってすごいなぁ。吉兆庵の和菓子は本当に季節感にあふれてすばらしい。
おじさんとおばさん、昨年の父と干し柿の話題を思い出して、この和菓子を選んで贈ってくれたのだろう。そのお気持ちがありがたかった。
子供の頃、柿なんて年寄りの食べる果物だと思っていて、ましてや干し柿なんてしわしわだし、見た目悪いし、じじばばの食べ物そのものだと思い込んで敬遠していた。今や、私もその柿の味がわかるお年頃になってきたようだ(笑)。
いつか私も、この顔が干し柿のようになる日まで、生き延びるのだだろうか?カンボジアの灼熱の太陽の日差しに長い年月毎日灼かれてしまったので、おそらく一般の日本人女性より早く干し柿になるだろう・・・。