2007年2月20日「私はニッポンジン」 | カンボジア的スローライフ

カンボジア的スローライフ

スローダウンしてみると見えてくるものがある。ありふれた日常のささやかな出来事。人生って、そんなささやかな暮らしの一つ一つが集まったもの。だから、その一つ一つを大切に暮らすことができたらいい。マンゴーがたわわに実る国、カンボジアからの発信。

どうも今日までが中国正月になるらしい、今日も教室には生徒が15人ほど。先生が来て「少ないですね」とおっしゃる言葉に、「今日ここにいるのは、純粋なクメール人、クメール・アンコールの血筋のものだけです。」と誰かが真面目に答えている。また、誰かが気づいて「あ、一人、日本人がいました。」「いや、お姉さんは、以前は日本人でしたが、もはや、同じクメール・アンコールです。今日ここにいる人は、お姉さんも含め、クメール正月まで新年は来ません。」誰かがそういったので、爆笑になる。

クメール・アンコールというのは、混血をしていない純粋なクメール人ということだが、その意味の中には、肌の色が黒いとか、毛が縮れているとか、の意味も含まれていて、どうも、そういう人を馬鹿にした意味合いもあるらしい。中華系の血が混じったクメール人などは、純粋なクメール人は、利発でない、原始に近いという意味を含めて、その言葉を使うこともあるようだ。

私は、市場に行けば、大体が中国人に思われる。間違われる人種は、中国、ベトナムだ。先日も、市場で人とぶつかってしまったら、「アーユオン!」「ベトナム人!(蔑称)」とものすごい顔で、叫ばれた。この国で、ベトナム人に間違われるのと、日本人と思われるのとは、待遇が天と地ほどに違うのだ。それもどうかと思うけど、でも、本当だ。

でも、でも、私は、クメール・アンコールでも、ベトナム人でも、中国人でもない。

純粋な、ニッポンジンだ。私は、日本と離れていくとともに、どんどん愛国者になっている。人間というものは勝手なものである。

ケマラーの元リーダーが最近ぼやきっぱなしである。

「姉さん、授業で、昔はクメール帝国は大きかった、大きかったというけど、そんな過去にしがみついたって仕方ないじゃないか、過去は過去、今はこれだけの国なんだから、今あるものを見つめたほうがよっぽど実りある会話ができる気がするよ。そう思わないか?」

私もホントそう思っているので、「うん、うん、そう思うよ。でもこの国じゃ、そう考える人あまりいないよね。」

「だから、うんざりするんだよ。政府から、社会まで、全部うんざりだよ。」

「本当は、私だってうんざりだけど、あんまり、うんざりしてると、芥川龍之介になっちゃうよ。」と冗談で返す。

元リーダーはさらにぼやき続け、長いことの立ち話となる。

カンボジアでは、物事を深く考えたら、目に映るものはみな苦痛、地獄で暮らすようなものである。物事を深く考えちゃいけない、それがここで楽しく生きるコツだ。でも、それじゃ、この社会が一向に成熟していかないことは、避けて通れない。

確かに、学校をよくサボって、ノートもちゃんととらないで、宿題は人任せ、試験は丸写しのカンニング、それでそこそこの成績をとって、なんだか恥じや悩みのひとつもなさそうで、楽しそうな多くの学生。

なりたくはないけど、ちょっと、うらやましい(笑)。

元リーダーのぼやきはまだまだ続く。中国正月の休暇であれこれ悶々と考えていたのだろうか、今日は、吐き出せるだけ、吐き出そうという感じだ、よし、受け止められるだけ、受け止めよう。「日本のコイズミは、任期で総理の座を自ら降りた。それが正しい指導者の姿だよ。カンボジアはさ・・・・・。でも2008年の総選挙の行方を見てみることにするよ。」

「だって、一国の総理なんて苦しいだけで、何年もやったら、ストレスで死んじゃうよ。だから、5年もやれば、充分だよ。コイズミなんか、きっとせいせいしてるよ。」私は言う。

元リーダーは言う、「それが、この国じゃ、死なないんだよ。」・・・・(笑)。

元リーダーは、「カンボジアの歴史と宗教と文学」について自分の考えをまとめて、なにか書いてみたいという、ただ切り込み口がまだ見つからないのだそうだ。頑張れ、頑張れ。