恋人の日、改め、愛の記念日。 | カンボジア的スローライフ

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スローダウンしてみると見えてくるものがある。ありふれた日常のささやかな出来事。人生って、そんなささやかな暮らしの一つ一つが集まったもの。だから、その一つ一つを大切に暮らすことができたらいい。マンゴーがたわわに実る国、カンボジアからの発信。

 先週買った新聞で2面に丸々1ページを割いて、でっかくのった記事、なかなか、伝統保守主義のカンボジアらしい記事であった。バレンタインデーについてである。結婚するまで男女は手も握らない、というような伝統を今もよしとする年配の方々の心配をよそに、現代の若者は大きく変貌を遂げようとしている。カメラ付き携帯電話により、未成年の恋人同士の性行為が撮影されて、巷に出回ったり、いわゆる伝統を守らなくなってきた若者たちの「恋人の日」騒ぎが、頑なに伝統遵守をしてきた大人たちには、我慢ならない光景なのである。

 

時代はこんなに大きく変化しているのに、カンボジアの頑なすぎる伝統遵守も時代錯誤と思う、そんな私もいささか、このカンボジアの「恋人の日」にはうんざりしている。責任をとるという言葉さえ知らないような大学の若者のこの日の馬鹿騒ぎ。バラの花を持ってバイクで狂ったように暴走している若者をみると、「ああ、この世も末だ。」と嘆いてしまう。責任を取れる、自立した恋なら、私は何をしようと大賛成である。でも、見ていて、そうじゃないだろうと思わざるをえない。お父さんお母さん、田舎で熱い太陽の下で、肌を黒くして、必死に稲を刈っているんじゃないのかな、君の学費のために、おばちゃん、そう思うよ。

この新聞のいうように、214日が落ち着いた「愛の記念日」に変っていってほしいものである。

まあ、日本のバレンタインデーのように商業ペースに巻き込まれすぎてもどうかとおもうけれども。

 

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214日:愛の記念日」

 若者達が、恋人から花や贈り物をもらうのを待っている、口から口へと伝わってきた「恋人の日」と呼ばれている214日がまもなく来る。

 この記念日の意味をはっきりと理解して欲しいものである、というのは、カンプチア王国はそのほとんどが仏教徒であり、1993年に憲法が宗教の自由を保証はしたもものの、憲法は仏教を国の宗教として、明確に記してあるものである。

 はたして、クメールの若者のどれだけが、この記念日の意味を明確に理解しているだろうか?父母をはじめ先祖代々のものがまったく感心を払ってこなかった、この記念日を敬うために彼らは、何をするのだろうか。この記念日について、英語ではまったく恋人という言葉も使われていないのに、「恋人の日、恋人の日」と皆が言っていることは、まったくもってよからぬことである。

 「セント・バレンタインデー」の本当の背景を見れば、この日がクメールの社会から生まれ出てきたものではまったくない。この記念日は、今なお人々がああでもない、こうでもないと言い、それぞれに断言している、ここから遠いところで発生したものである。しかし、どうか記憶しておいて欲しいのは、西側の人の書の中に英語で明確に記されている「St.Valentine's day is the world's Holiday of Love’」という意味である。それは、「聖バレンタインの日は、世界の愛の日である。」ということであり、この訳をみれば、どこに「恋人」という言葉があるというのだろうか?

 何故、私達クメールの若者、そのほとんどの者になってしまっているが、この記念日を恋人の日、恋人の日と呼ぶのだろうか?その答えは、小さな勘違いが大きな勘違いになり、それが一国の社会の勘違いになり、すべての子孫の無限の楽しみにおいて利益をもたらす商業の意義に混乱を引き起こすことを避けるために、私達一人一人が問うててみるべきである。

 たとえ上記の見解と同じではない他の解釈があったとしても、どうかこの解釈が、明確な言語学・科学の研究に沿った基礎事実に根拠があるものとし、どうか、バレンタインという言葉を「恋人」とか、ラブという愛とか愛するという訳の言葉を「恋人」と訳さないで頂きたいものである。

 

事実、クメールの社会における愛し仲良くすることは、遥か昔から存在していたものである。しかし、この世界の愛の日は、その意味を縮めて恋人の日とするよりも、現在のクメール社会に生きる人間と人間が愛し合い仲良くすることの意味をさらにもたらすものであるべきだ。

 

カンプチアで花やプレゼントを売る皆さん、特に、プノンペン市の皆さんは、「愛の記念日」という言葉を楽しんで欲しいものである。なぜなら、愛の記念日は、恋人の日よりも、より多くの人のためのものとなり、商業的にも売り上げが増えて、自らが売る商品ひとつひとつからの少しずつの利益を得ることができ、そのほうが実によいのである。

  しかし、もしも私達がさらに深く考えてみるとしたら、「金を集める」という言葉を「俺は早く来て、俺達は早く金持ちになる」と言い換えるこの方法で、急いで金を得ようとすることは、お世話になった自分の祖父母、父母、そしてクメールの先祖代々の文化・伝統を忘れ、捨て去ることであり、これは、高貴な仏教徒としても、またクメール人民としてもふさわしくないものである。

 

 クメールの若者については、特に、プノンペン市の若者は、毎年214日を各自の人生のなかで正確な意味で使い、その日がカンプチア王国政府が指定している休日ではないことを知るべきである。あなたは、214日を楽しむことができ、あなたは各自で、自分がどのように楽しむべきか?何を買うか?誰に買うか?買うお金があるのか?を気付くことができる。この4点の質問には、重要な意味はなく、もっとも大切なことは、この214日に、あなたは「愛の記念日」という言葉にふさわしいこと、何をすべきかということである。

 どうか忘れないで欲しい、「あなたのパパとママ、もしくは、お父さん・お母さんが、あなたを無限の愛で愛してくれていること」を。そして、あなたはこのことを、あなたがパパやママに、お父さんやお母さんになったときに、はっきりと理解することだろう。だから、あなたは、214日に1夜、2夜、もしくは幾家も家をあけるべきではない。

 あなたは、「愛の記念日」の意味に基づいて、どんな方法でも愛を恋人に伝えることは可能である。しかし、214日を、手綱の切れたような楽しみを隠す口実にして、クメール民族と一家の家名の恥や悲しみを探しにいくようなことはするべきではない。

 

 214日に儲けを得るために商売をして楽しむ、すべての花とプレゼントを売る人は、儲けと楽しい気持ちを得ることだろう、でもどうか、気持ちも行いも気高さを持ち、商品を買ってくれる若者にお世辞を言ったりしないでほしい、たとえ客が商業界の王であったとしても・・・。

 どうか「たくさん買って、たくさんの恋人に分けてあげてよ。」という言葉を使わないで欲しい、恋人がたくさんいたって別になんでもないけれども・・・・・どうかこのことをよく考えてみてほしい、もしも自分の娘にたくさんの恋人がいたとしたら、どうであるか?と。

 そうでしょう!上記の説明で否定し、すでに伝えたことは、214日は恋人の日ではないということ、そして、個人の宗教について、愛について、人生のプライベートについての自由は、踏みにじられることがなく、正しく尊敬されなければならないとも言える。

 214日について、記憶しておいて頂きたい。

1)「森の中に隠された遺跡」に残された、我々の先祖から生まれた記念日ではない。

(注:「」内はカンボジア国歌の歌詞から引用されている)。

2)この記念日受け入れることから発生するすべての悲しみは存在してはならない、なぜなら、これは「愛の記念日」だから。

 みなさん、どうか、民主社会の選択にのっとって、214日をお楽しみあれ!

週刊新聞「ダウム・アンプル」2年目9号:2007214日(水)―20日(火)より抜粋