カンボジアの首都プノンペンから北西に約40kmのカンダール州に、
カンボジアの旧首都(1618年~1866年)だったウドンという街がある。

カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


この街にはウドン山という小高い丘があり、
メコンデルタに広がる平野を一望出来る。
この写真は、山の頂上のお寺から撮影したものだ。

カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


そして、17世紀の朱印船貿易時代、
この街の近くの村に日本人町があったことはあまり知られていない。


カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


17世紀から19世紀まで首都ウドンの水運の玄関口として
トンレーサップ川周辺地域は繁栄していたとされる。

当時、この地方にあったオランダ商館には、
ピニャルー村に70~80軒程の日本人の集落が
存在していたという記録があるそうだ。

およそ300人から400人程度の日本人が暮らしていたことになる。

ピニャルーでは過去に発掘調査が何回か行われて、
伊万里焼の破片数点が見つかった。
しかし、陶磁器は貿易品の可能性があり、
日本人が住んでいたと証明できる遺物や痕跡はまだ見つかっていない。
更なる発掘調査が待たれる場所である。

日本人町は、江戸幕府の鎖国政策により
日本との往来が途絶えたため、
今ではその痕跡を見つけることはかなり難しいことだろう。

大きな歴史の流れの中で、
カンボジアに移住した日本人も土着していき、
カンボジア人に同化してしまったことも考えられる。

ウドンという地名も日本語の「うどん」から由来されたものだという、
噂まで耳にする。

この時代タイのアユタヤやフィリピン等でも
同じように日本人町が作られた。


カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


朱印船貿易の時代、
間違いなく日本と東南アジアの繋がりは深かったはずだ。

鎖国以前の日本人たちが小さな島国を飛び出して、
海外へと目を向けた時代がそこにはあった。

時代が流れ、移動手段も発達して、
経済不況という壁にぶち当たった時に改めて
東南アジアに目を向け始めた日本。

当時の日本人も当然、
カンボジアという国を様々な角度から眺めたことだろう。

カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


私たちは今、江戸時代の鎖国以前の人々と
あまり変わらない景色をようやく、
カンボジアで見ているのかも知れない。