人生何度目かの英語への挑戦を始めた。

今週から週3日、イギリス人の若い女の子に教えてもらえるので
よりモチベーションがUPした。

そして、前回日本で買ってきて3日で眠ってしまっていたNINTENDO DSの
「もっと英語漬け」も先週からぼちぼち進めている。

いつも思うがこれが英語へのラストチャンスだと思う。

最近、仕事上で英語を話せなくて、理解できなくて
悔しい思いをすることが多かった。

クメール語ならまだ何とか相手が合わせてくれれば
言葉を拾えるが、英語ではかなり難しい。

仕事で関わる政府のお偉いさんは、英語が出来る人が多く
クメール語で話しかけてくれない。

それでも、リスニングはまだ何とかなることも多いが
返答は必ずクメール語というアンバランスな形式で会話が成り立っていた。

それでも、会議に出るメンバーが英語族の人達だと
クメール語で話すのも気が引けて、なかなか発言できず
少し落ち込んだ。

クメール語が世界の共通語でない以上、
英語もやらなくてはならない。

やはり、まず自分が変らなければ。


そう言えば、カンボジアでの活動がNHK BS1にて
先日放映された。

幸いなことに、カンボジアでもNHKワールドプレミアムで
本日放映してくれた。

日本では今週の金曜日の夜25時ぐらいに再放送されるようなので
興味ある方は見てください。

今更ながら、この国を根本から立て直していく今の仕事に就けて
幸せだと感じる。

だからこそ、もっと成長したいと思うし、その分だけ悔しい思いもする。

背伸びはせず、一歩ずつやっていきたい。

ぼちぼちやっています。


カンボジアは暑くなってきた。

小さい変化はたくさんあるけど、久しぶりのブログ更新で

重大発表を書くようなことは何もない。


先週、結婚一周年を迎え、嫁と一泊300USDするホテルに

2泊泊まってきた。


もちろん、自腹でなく抽選会で当てたものだ。


最近、お酒を飲む量が一段と増えた気がするが

大きな悩みがあるわけではなく、ただ年を重ねただけなのだと感じる。


思えば学生の頃の方が、何かよく分からない葛藤を多く抱えていた気がするが

今になると結構、どうでも良いことだったりする。


それが老いなのか、成長なのか分からないが、変化であることには変わりない。


振り返れば日本を飛び出して、カンボジアに住み着いて

いつの間にかそれが当たり前になってきた。


仕事は忙しいがやりがいもあり、かろうじて安定した生活も手に入れた。


自分の仕事にどれだけの人が「ありがとう」と言ってくれているのか

ふと気になった。


もっともっと頑張らなければね。


そう言えば、昨日就職にあぶれた学生たち向けに

NGO,NPOの就職説明会が日本で開かれていた。


一般企業に採用されなかった人たちの駆け込み寺が

NGO,NPOであること、何か違うと思うのだが、

きっとそうゆう志が低い人はすぐに理由をつけてこの世界を離れていくと思う。


キレイ事や自分本位な夢で誰かを救うなんてきっと出来ないと思う。

結局、最後にお金が大切なら、始めからお金を稼ぐ道を選べばいいのに。


と、まぁこれぐらいにして、最近は自分の成長したところと

昔から変わらないところを比べて、それでも少しは前に進めてきたかなと感じる。


そう言えば、少しずつ髭が濃くなってきました。

安物の電気シェーバーで対応できるのはいつまででしょうか。


さてさて、いよいよ明日の夜、
日本へ向けて出発します。

何事もなく、嫁さんと無事に日本に到着したいものです。


寒い日本に行く前に風邪ひいてしまった。

久しぶりの日本、楽しみです。
とにかく一日中、眠い。

3連休中は、少し仕事してあとはずっと寝てた。
ダメダメです。

一日12時間以上睡眠時間がある。

今日は夜から少し仕事して、
明日からは怒涛の業務内容が1ヶ月以上、続く。

日本行く前に、やることいっぱいです。

この分だと、日本に行く時には、ずっと寝てるかも!?

日本滞在中は、嫁さんと従兄弟の結婚式に参加するため、
実家だけでなく、福岡県にも行くことになった。

ご祝儀代が心配。

ではでは。
カンボジアの首都プノンペンから北西に約40kmのカンダール州に、
カンボジアの旧首都(1618年~1866年)だったウドンという街がある。

カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


この街にはウドン山という小高い丘があり、
メコンデルタに広がる平野を一望出来る。
この写真は、山の頂上のお寺から撮影したものだ。

カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


そして、17世紀の朱印船貿易時代、
この街の近くの村に日本人町があったことはあまり知られていない。


カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


17世紀から19世紀まで首都ウドンの水運の玄関口として
トンレーサップ川周辺地域は繁栄していたとされる。

当時、この地方にあったオランダ商館には、
ピニャルー村に70~80軒程の日本人の集落が
存在していたという記録があるそうだ。

およそ300人から400人程度の日本人が暮らしていたことになる。

ピニャルーでは過去に発掘調査が何回か行われて、
伊万里焼の破片数点が見つかった。
しかし、陶磁器は貿易品の可能性があり、
日本人が住んでいたと証明できる遺物や痕跡はまだ見つかっていない。
更なる発掘調査が待たれる場所である。

日本人町は、江戸幕府の鎖国政策により
日本との往来が途絶えたため、
今ではその痕跡を見つけることはかなり難しいことだろう。

大きな歴史の流れの中で、
カンボジアに移住した日本人も土着していき、
カンボジア人に同化してしまったことも考えられる。

ウドンという地名も日本語の「うどん」から由来されたものだという、
噂まで耳にする。

この時代タイのアユタヤやフィリピン等でも
同じように日本人町が作られた。


カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


朱印船貿易の時代、
間違いなく日本と東南アジアの繋がりは深かったはずだ。

鎖国以前の日本人たちが小さな島国を飛び出して、
海外へと目を向けた時代がそこにはあった。

時代が流れ、移動手段も発達して、
経済不況という壁にぶち当たった時に改めて
東南アジアに目を向け始めた日本。

当時の日本人も当然、
カンボジアという国を様々な角度から眺めたことだろう。

カンボジア考察【カンボ・クメール・カンボジア】


私たちは今、江戸時代の鎖国以前の人々と
あまり変わらない景色をようやく、
カンボジアで見ているのかも知れない。