武将と言うより大河ドラマで坂本龍馬がやってるんだから、やっぱりここは威信獅子でしょう。
高杉晋作 | |
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通称: | 東行 |
生年: | 1839年9月27日 |
生地: | 長門国 萩 |
没年: | 1867年5月17日(満27歳没) |
没地: | 長門国 下関 |
活動: | 尊攘派 |
藩: | 長州藩 |
所属: | 奇兵隊 |
廟: | 靖国神社 |
晋作が活躍した時代の年表を、維新のうねりと関連付けて分りやすく纏めた:
嘉永6年(1853)6月 アメリカのペリー提督、黒船を率いて来航、幕府に開国を迫る。 |
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安政元年(1854)3月 松陰、アメリカ渡航に失敗し捕わる。 |
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安政3年(1856)3月 松陰、萩の松下村塾で教鞭をとり始める。 |
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安政5年(1858)4月 井伊直弼、大老就任。米露蘭英仏と修好条約締結。安政の大獄。 |
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安政6年(1859)10月27日 松陰、江戸伝馬町牢で刑死。桂小五郎等、遺骸を小塚原回向院に埋葬。 |
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安政7年(1860) 井伊直弼、桜田門外で暗殺さる。 |
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文久元年(1861) 長州藩主毛利慶親、藩士長井雅楽(うた)の「航海遠略策」を採用。 |
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文久2年(1862): | |
4月 薩摩藩主の父島津久光、兵を率いて上洛。長州藩の影途端に薄れる。 |
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4月27日 晋作、長崎を出航し上海へ、7月24日長崎に帰着。 |
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7月24日 長州藩、航海遠略策を捨て、攘夷へと方針を一大転換する。 |
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11月28日 幕府、安政5年以来の国事犯刑死者の罪を許し、その礼葬・復権等を行う大赦令を発表。 |
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12月12日 晋作、久坂玄瑞、赤禰武人等、品川御殿山に建設中の英国公使館焼討ち。 |
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文久3年(1863): | |
1月5日 晋作、伊藤俊輔等松陰の遺骸を小塚原から掘起し、現世田谷区若林に改葬。 | |
3月 上洛した将軍徳川家茂、5月10日をもって攘夷を断行すると孝明天皇に上奏。 | |
3月 晋作、玄瑞らの唱える尊皇攘夷路線から離脱し剃髪、萩の山奥に隠棲。 | |
4月 毛利家が攘夷断行の名目で萩より地の利を得た山口に移る。 | |
5月10日 関門海峡で外国艦砲撃開始。 | |
6月6日 晋作、外国艦に砲撃された下関に来関。翌日、豪商白石家で奇兵隊を結成。 | |
7月2日 薩英戦争。 | |
8月18日 会津・薩摩は御所内で政変を起し、長州は御所の警護を解任される。三条実美ら尊攘派七卿は長州に逃れる。 |
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元冶元年(1864): | |
1月 下関攘夷戦で戦死した奇兵隊士の霊を弔う桜山招魂場を下関郊外に創建。 | |
2月12日 周防上関駐屯の義勇隊、別府浦碇泊中の薩摩藩御用商人の船を襲撃沈没させる。 | |
3月29日 晋作、京都への脱走の罪で野山獄に投じられる。 | |
6月5日 三条小橋の旅宿池田屋で、長州系尊攘派を新撰組が襲撃(池田屋騒動)。 | |
7月19日 禁門(蛤御門)の変。会津・薩摩が長州を撃退。玄瑞自決。 | |
7月23日 朝廷、幕府に長州征伐を命ず。 | |
8月3日 晋作、藩主から呼び出され下関防衛を任される。 | |
8月5日 英米仏蘭連合艦隊17隻が下関を砲撃。 | |
8月8日 晋作、旗艦ユリアラス号に乗り込み、講和交渉を開始。 | |
9月25日 「正義派」井上聞多、「俗論派」刺客に襲撃され、瀕死の重傷を負う。同夜、「正義派」首領周布政之助自害。 | |
11月12・13日 「正義派」三家老を切腹させ恭順謝罪し、長州征伐は不戦解兵で終わる。 | |
11月 「俗論派」の台頭に行場を失った晋作は、福岡へ渡り野村望東の平尾山荘に潜伏。 | |
12月15日 晋作、下関に舞い戻り、功山寺で旗上げし藩出先機関の下関新地会所を襲撃。 |
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慶応元年(1865): | |
1月 奇兵隊など諸部隊が「俗論派」藩政府軍と、秋吉台に近い山間部の絵堂・太田で交戦し勝利する。 | |
3月 晋作、イギリス行きを企むも断念。脱藩し四国に潜伏、6月帰藩。 | |
3月23日 長州藩「武備恭順」の方針を一決。 | |
8月26日 薩摩藩名義で、小銃7,300挺と蒸気船一艘を英商グラバーより下関に密輸。 |
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慶応2年(1866): | |
1月22日 幕府、長州藩処分案(藩主父子の蟄居と十万石削封)を朝廷に奏請。 | |
2月 長薩連合成立。 | |
6月7日 大島郡で四境戦争始まる。 | |
7月27日 赤坂方面(小倉口)の戦争始まる。 | |
8月1日 小倉城炎上。 | |
10月下旬 晋作、白石宅から桜山招魂社付近の小宅に移り、東行庵と命名。 |
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慶応3年(1867): | |
4月14日 晋作、下関新地の林算九郎宅の離れで死去(29歳)。奇兵隊の本拠・下関市吉田町に葬られる。 | |
10月 徳川慶喜、大政奉還 |
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明治元年(1868): | |
1月 鳥羽伏見の戦い | |
4月 江戸開城 |
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明治44年(1911): | |
5月20日 吉田町清水山で高杉晋作顕彰碑の除幕式が行われる。 |
下関市内の国道9号線と191号線の沿線には、若年ながら奇兵隊結成、下関海戦講和、俗論派対決、小倉戦争指揮等で名を馳せた高杉晋作に関わる史跡が点在している。
■高杉晋作奇兵隊結成の地(下関市竹崎町)
長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが、さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にあるといわれている。奇兵隊は文久三年六月、この地の回船問屋白石正一郎家で結成された。正一郎は結成と同時に入隊し、高杉晋作を援けた。年齢も、身分も全く違う二人の固い結びつきが奇兵隊をささえたと言える。
■阿弥陀寺(下関市阿弥陀寺町)
白石邸で結成された奇兵隊は阿弥陀寺と極楽寺に分屯した。阿弥陀寺は赤間神宮の西隣にあったが、明治初期の廃仏毀釈で取り壊されその跡に料理旅館・春帆楼が建っている。
■極楽寺(下関市阿弥陀寺町)
奇兵隊分屯地で赤間神宮の東隣にある。
■光明寺(下関市細江町)
久坂玄瑞らが光明寺党を結成した所。
■教法寺(下関市赤間町)
長州藩士で結成された撰鉾隊の屯所となった。この寺に奇兵隊士が押しかけて騒動になった。この事件で晋作は奇兵隊総督を免ぜられ、奇兵隊の本拠は小郡に移された。