Die Hard--クタバリぞこないの視点。
きょうはちょっと個人情報の公開を、これらの経験が私の意見、感じ方のBack Groundとなっていると言う事を理解してもらうために、
この国に来て、これまでに2回、この病気であなたの状態の場合には死ぬ確率はxx%とですと言われた事がありました。わたしが40歳と45歳の時でした。最初の時は2週間ほどおろおろして、なにも手につかないという浅ましい姿でしたが、人間はどのょうなものにも慣れるのがか、2回めのときには、平静に”そうですか、それでどうすればいいでしょう”と言う対応が出来るようになりました。比較的に若い?時にこういう経験としてしまうと、どうも自分と同年代の人との感性のずれを感じてしまうようになってしまうような、感じがします。お年寄りとはすぐ仲良しになり話題も豊富なのですが。
このような経験をしてしまうと、世の中を見る目がかわる、自分にとって大事なものと大事でないものが、白黒で見分けはっきりしてくると言う事があります。家族は大事、友達も大事、後のものは大事ではないというのが、わたしの分類でした。仕事とか、お金とか、財産などは、必要ではあるが大事ではないと言う事になります。こうなると身軽に家族のために転身なんて事が、迷いなくできるようになりました。
息子が中学にはいり、変化がきらいで、順応が苦手な子なので、私が面倒見の役につくため、転身して起業、時間が比較的に自由になる職に変わりました。学校に送り迎えの間に仕事をして、ちょうど日本のパートのお母さんという感じでした。
高校に息子ははいると、家が高校に近いので、友達が帰りに遊びに来る。同じ、クラブの子達が
クラブ間のダンス大会のために大挙、練習にくるという具合で、大忙し。このあいだ考えたら、4年間でのべ1000人くらいは、我が家に来てるぞ、と改めてびっくりしてしまいました。友達の親も
あそこの家は父親が目を光らせているので放課後遊びによらせても安全と思っていたようです。
こういう付き合いのなかで、子供達とも仲良しになり、子供たちのボランティアの時に人数が足りないと借り出されたりしていました。こういう子供達の成長と見るのは、本当に楽しいし、私にとって大事な事の一つになりました。
お天道さんと米の飯はどこでもついてまわるとおもっている、楽天主義者です。アメリカにも深い考えもなく、軽い調子で移民しました。今までのところは、自分の生きたいように生きてこれたと
感じています。連帯を求めて、孤立を恐れずという対句のあった時代の申し子です。裕福ではありませんが、快適な生活をおくっています。