母の期待を背負って生きた結果 | 凸凹ママの日常~我が子たちと描く凸凹な世界

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発達障害と不登校。それに向き合ってきた私と子どもたちの凸凹な世界を描き続ける、直感表現アーティストである私のブログです

おはようございます。

 

今日はちょっと母の話を。

 

私の母は18年前に他界しましたが、私は母の育て方になんの疑問も思わず、彼女の期待に応える生き方が当たり前と思っていました。

母は勉強が良くできたこと、でも経済的に進学できなくて、今の父と妥協して結婚したことを後悔していることをこんこんと私に話してきました。

 

自分の経験談ですが

親が今の人生に後悔している話を子どもに話すと、子どもは親の期待に応えようとする子どもに育ちます。

 

あんなふうになってはいけない。

親の望むような選択をしなければならない。

 

ただ、大学受験は期待に応えられませんでした。

失望した母の一言

「お前が幼稚園や保育園のような小さい子の面倒なんかみられるわけがない」

結局、教育学部に行っても教育関係の仕事につきませんでした。

 

代わりに福祉関係の仕事に就きました。

就職してすぐに母は亡くなりましたが、今から思うと教師になれない自分にとって人の役に立つ=介護の仕事という図式が頭にあったのかなと思います。

 

今なお、人の役に立つ仕事をしたいという自分の固定観念に縛られています。

でも現状は子どもの事に手がかかり、働くこと自体私にとって大きなハードルです。

私は働いていない=人の役に立っていないと思っていて現状に対して何とも言えないあきらめの境地にたっていました。

 

そんな時に学んだ勇気づけ。

勇気づけで貢献感について本などで見たとき、自分の人の役に立ちたいって定義がずいぶんおかしいものなんだと気づきました。

 

お役に立つっていうのが別に介護の仕事じゃなくてもいいし、母の期待と失望にずいぶんと縛られていたんだなと思いました。

 

介護や福祉の仕事じゃなくても人のお役に立てる。

今向き合っている子どもたちと向き合うことが自分の貢献感の一歩なんだなと。

 

子育てしている人に伝えたい。

今子どもにこうしてほしいって思うのはなぜですか?

自分が出来なかったことを子どもでかなえようとするのは子どもにとっては負担です。

こうしてほしかったのにできなかったということは、自分でどうにかそれを叶える努力をしてください。

 

母の期待と失望に振り回された一子どもより。

 

やつゆき。