最近、大事な場面でくだしてきた決断が正しかったのか自信をなくしていました。
私が通っている教会の方式で祈ったところ、家族との会話から、私がこの家で必要とされている知り、正しかったことを確信しました。
そして、気持ち悪さが消えました。
今回は教会の資料ではなく、ネットの記事から紹介しようと思います。
ネットの記事から紹介することで、気分がいいかどうかで判断するメリットは宗教は関係なく人類共通であることを証明したいからです。
https://natsuorei.wixsite.com/bliss-is-this/blank-21
人生の岐路の正しい選択方法
あなたの人生において迫りくるカーブの先に広がる『きらめく絶景の海』と、
『強風の断崖絶壁の淵』とをどう見分けたらよいのでしょうか?
それは何かの選択をしなければならない時、
つまり人生において『この先カーブあり』の標識を目にした時に、
一旦スピードを緩めてみることです。
さあ、あなたの心の奥底はなんと言っていますか?
頭や理性じゃないですよ、あなたの気持ち、魂がなんと言っているかです。
カーブオーライGOとするかUターンをするか。
いずれにしてもどちらかを選択した時の感情が、
「気分が良い」か「気分が悪い」のかがとても重要です。
あなたの心や魂は遠慮がちに「Uターン」と反対している。
そして頭では「本当は行きたくない」と思っていることもわかっている。
なのに、聞こえないふりをして目的地に行かなければならない、
時間通りに到着しなければいけない、寄り道はできないなどと
「常識」を振りかざしながら、「GO」を理性で武装する。
もしあなたが今の現状や人生に不満を抱いていたり、
もうどうしようもないくらい八方塞がりだったり、
もはや自分の意志や行動だけでは状況を変えることはできない、などという状況なら、
今まで数々のカーブを走る時に、自分の心の声を無視して
「だって〇〇だから仕方ない」「こうするよりほかない」と選択してきたからに他ならないのです。
確かに「仕方がなかった」「こうする以外方法が見つからなかった」「知らなかった」
いうこともあったでしょう。でも本当の本当にそうでしょうか。
一番最初の方の2つ、3つのカーブの時、そう、まだ選択肢がいくつかあった時、
勇気を出して心の声に従ったとしても、それほど悪影響にならなかったはずなのに、
心や魂の訴えを無視してしまいませんでしたか?
最初はただの風邪だったのに、無理をして仕事を頑張る、
そのうち風邪は治ったはずなのに咳だけがずっと残り、
それでも仕事を休まない、そのうち倒れて肺炎になってしまう。
肺炎だけならまだしも、別の細菌に感染し、もはや自分の力だけで治すことはできない。
ただの過信からくる場合もあるし、
自分に対する無価値観からくる場合もありますが、
ビタミンでも摂って一晩早めにゆっくり寝るだけでは
回復できないところまでいってしまったのです。
このようなことにならないためには
何かの選択をする時、決断をする時に魂の快・不快を判定することです。
それは「気分」という形で現れます。
決断をした時に、あなたが渋々決断したり、重い気分であれば
それは「悪い」ということが明らかです。
もし選択をしてしまった後でも、変更可能ならすぐさま変更する方がよいでしょう。
ではあなたの魂が本当に「いいえ」と言っているかわからない時は?
それはあなたが自分自身を言葉で納得させたり、
説き伏せたりして「はい」と言わせなくてはならないのであれば、
魂は「いいえ」と言っています。
あなたの魂が「はい」と言っている時は、あなたは自分自身を説得する必要がありません。
『この先カーブあり』の標識はわかるのか?
そもそも選択云々の前に、
カーブがあるかもしれないというサインは?
確かに道路だったらのカーブの標識も実際のカーブも目に見えるけれど
人生のカーブは事前にわかるのでしょうか?
それは何かの現象に注意を払った時、
そこに普段とは違うただならないものを感じたら、
それはサインかもしれないということです。
「これだ!」というほどの変化は、気付かないことが多いかもしれませんが、
とにかくちょっと前と何かが違うという感覚です。
実際にすでにカーブに差し掛かっていたら、
今までとは違う明確な変化を直観的に感じ取るでしょう。
流れの中に何か新しいものが現れて、ちらりと目にすると、うすうす勘付くものです。
しかしカーブの標識を目にする前のサインは、はっきりとした説明はつかない場合が多く、
なんとなく違う感じというようなものであることが多いです。
例えば横断歩道のない道路を
年老いた人がゆっくり横断していたのを目にしたとします。これはどういう意味だろうか?
「危ないことはするな」というサイン?
「車のスピードは出し過ぎるな」という意味?
はたまた「年配者にも違うと思ったら意見した方がいいってこと?」
もしその現象自体があなたに警戒心を呼び起こすものではなければ、
一つ一つの現象に細かく注意を払う必要はないでしょう。
なぜなら今いる人生ラインで起こった現象は警戒心を引き起こしたりしないからです。
でももし何かしら違うものや警戒心が起こるようなことがあったら
それはサインとみなしていいと思います。
それは不安、不快感、ネガティブな感覚などです。
しかしその感覚もいろいろな意味にとれる場合は、
大きな意味付けをするのはあまり意味がないかもしれません。
通常、今までとは違うことが起こりそうな時は段階的にサインがきます。
最初の警報を無視することはよくあることです。
二回目の警報が出て、三回目も発せられる。
もしこの後も警報が止まらなければ、最終的に起こるべきことが起こるということです。
これが先述した「心や魂の声を無視し続けて来ませんでしたか?」いうことです。
いずれにしても、もしあなたがサインに注目したら
注意深くするように心がけ、自分の行動を変えてみたり
立ち止まってみたりする必要があるでしょう。
魂の不快を無視しても必ずしも恐ろしいことが起こるわけではないけれど、
時にひどく後悔する羽目に陥ることもあるからです。
そして誰かの発言、これもサインに含まれます。
もしあなたが自分の意見に固執していたら聞き流してしまうかもしれませんが、
誰かがあなたに何気なく発した言葉は真摯に対応した方がいいでしょう。
あなたが自分は正しいということに自信があっても、
誰かがついでにといった感じで「そうではないですよ」ということを何気なく示してくれたとします。
そういった場合は周りをよく見た方がよいでしょう。
ちなみに迷信というのがありますが、
迷信自体に法則性はありません。
迷信に対するあなたの捉え方があなたの選択や人生に関与してくるのです。
もし全然信じなければあなたの選択に何も影響は与えませんし、
信じるのであれば危惧したことは起こる可能性は高いでしょう。
なぜならそこに裏付けを見出すからです。
私が通っている教会の方式で祈ったところ、家族との会話から、私がこの家で必要とされている知り、正しかったことを確信しました。
そして、気持ち悪さが消えました。
今回は教会の資料ではなく、ネットの記事から紹介しようと思います。
ネットの記事から紹介することで、気分がいいかどうかで判断するメリットは宗教は関係なく人類共通であることを証明したいからです。
https://natsuorei.wixsite.com/bliss-is-this/blank-21
人生の岐路の正しい選択方法
あなたの人生において迫りくるカーブの先に広がる『きらめく絶景の海』と、
『強風の断崖絶壁の淵』とをどう見分けたらよいのでしょうか?
それは何かの選択をしなければならない時、
つまり人生において『この先カーブあり』の標識を目にした時に、
一旦スピードを緩めてみることです。
さあ、あなたの心の奥底はなんと言っていますか?
頭や理性じゃないですよ、あなたの気持ち、魂がなんと言っているかです。
カーブオーライGOとするかUターンをするか。
いずれにしてもどちらかを選択した時の感情が、
「気分が良い」か「気分が悪い」のかがとても重要です。
あなたの心や魂は遠慮がちに「Uターン」と反対している。
そして頭では「本当は行きたくない」と思っていることもわかっている。
なのに、聞こえないふりをして目的地に行かなければならない、
時間通りに到着しなければいけない、寄り道はできないなどと
「常識」を振りかざしながら、「GO」を理性で武装する。
もしあなたが今の現状や人生に不満を抱いていたり、
もうどうしようもないくらい八方塞がりだったり、
もはや自分の意志や行動だけでは状況を変えることはできない、などという状況なら、
今まで数々のカーブを走る時に、自分の心の声を無視して
「だって〇〇だから仕方ない」「こうするよりほかない」と選択してきたからに他ならないのです。
確かに「仕方がなかった」「こうする以外方法が見つからなかった」「知らなかった」
いうこともあったでしょう。でも本当の本当にそうでしょうか。
一番最初の方の2つ、3つのカーブの時、そう、まだ選択肢がいくつかあった時、
勇気を出して心の声に従ったとしても、それほど悪影響にならなかったはずなのに、
心や魂の訴えを無視してしまいませんでしたか?
最初はただの風邪だったのに、無理をして仕事を頑張る、
そのうち風邪は治ったはずなのに咳だけがずっと残り、
それでも仕事を休まない、そのうち倒れて肺炎になってしまう。
肺炎だけならまだしも、別の細菌に感染し、もはや自分の力だけで治すことはできない。
ただの過信からくる場合もあるし、
自分に対する無価値観からくる場合もありますが、
ビタミンでも摂って一晩早めにゆっくり寝るだけでは
回復できないところまでいってしまったのです。
このようなことにならないためには
何かの選択をする時、決断をする時に魂の快・不快を判定することです。
それは「気分」という形で現れます。
決断をした時に、あなたが渋々決断したり、重い気分であれば
それは「悪い」ということが明らかです。
もし選択をしてしまった後でも、変更可能ならすぐさま変更する方がよいでしょう。
ではあなたの魂が本当に「いいえ」と言っているかわからない時は?
それはあなたが自分自身を言葉で納得させたり、
説き伏せたりして「はい」と言わせなくてはならないのであれば、
魂は「いいえ」と言っています。
あなたの魂が「はい」と言っている時は、あなたは自分自身を説得する必要がありません。
『この先カーブあり』の標識はわかるのか?
そもそも選択云々の前に、
カーブがあるかもしれないというサインは?
確かに道路だったらのカーブの標識も実際のカーブも目に見えるけれど
人生のカーブは事前にわかるのでしょうか?
それは何かの現象に注意を払った時、
そこに普段とは違うただならないものを感じたら、
それはサインかもしれないということです。
「これだ!」というほどの変化は、気付かないことが多いかもしれませんが、
とにかくちょっと前と何かが違うという感覚です。
実際にすでにカーブに差し掛かっていたら、
今までとは違う明確な変化を直観的に感じ取るでしょう。
流れの中に何か新しいものが現れて、ちらりと目にすると、うすうす勘付くものです。
しかしカーブの標識を目にする前のサインは、はっきりとした説明はつかない場合が多く、
なんとなく違う感じというようなものであることが多いです。
例えば横断歩道のない道路を
年老いた人がゆっくり横断していたのを目にしたとします。これはどういう意味だろうか?
「危ないことはするな」というサイン?
「車のスピードは出し過ぎるな」という意味?
はたまた「年配者にも違うと思ったら意見した方がいいってこと?」
もしその現象自体があなたに警戒心を呼び起こすものではなければ、
一つ一つの現象に細かく注意を払う必要はないでしょう。
なぜなら今いる人生ラインで起こった現象は警戒心を引き起こしたりしないからです。
でももし何かしら違うものや警戒心が起こるようなことがあったら
それはサインとみなしていいと思います。
それは不安、不快感、ネガティブな感覚などです。
しかしその感覚もいろいろな意味にとれる場合は、
大きな意味付けをするのはあまり意味がないかもしれません。
通常、今までとは違うことが起こりそうな時は段階的にサインがきます。
最初の警報を無視することはよくあることです。
二回目の警報が出て、三回目も発せられる。
もしこの後も警報が止まらなければ、最終的に起こるべきことが起こるということです。
これが先述した「心や魂の声を無視し続けて来ませんでしたか?」いうことです。
いずれにしても、もしあなたがサインに注目したら
注意深くするように心がけ、自分の行動を変えてみたり
立ち止まってみたりする必要があるでしょう。
魂の不快を無視しても必ずしも恐ろしいことが起こるわけではないけれど、
時にひどく後悔する羽目に陥ることもあるからです。
そして誰かの発言、これもサインに含まれます。
もしあなたが自分の意見に固執していたら聞き流してしまうかもしれませんが、
誰かがあなたに何気なく発した言葉は真摯に対応した方がいいでしょう。
あなたが自分は正しいということに自信があっても、
誰かがついでにといった感じで「そうではないですよ」ということを何気なく示してくれたとします。
そういった場合は周りをよく見た方がよいでしょう。
ちなみに迷信というのがありますが、
迷信自体に法則性はありません。
迷信に対するあなたの捉え方があなたの選択や人生に関与してくるのです。
もし全然信じなければあなたの選択に何も影響は与えませんし、
信じるのであれば危惧したことは起こる可能性は高いでしょう。
なぜならそこに裏付けを見出すからです。
今朝、新約聖書のヘブル人への手紙12章を読んでいたら、試練は筋トレのようなものなのかなと思いました。
試練も筋トレもやっている最中は苦しいけど、いざという時に力を発揮して、鍛えて良かったと思えるものかなと思います。
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
(ヘブル人への手紙12章11節)
試練も筋トレもやっている最中は苦しいけど、いざという時に力を発揮して、鍛えて良かったと思えるものかなと思います。
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
(ヘブル人への手紙12章11節)