十代の頃に三島文学を好きになったのは、綿密な心理描写と美しい文体がその理由だったと思います。ぶっちゃけていえば、読み終わったあとに、「ああ、本を読んだなぁ」という達成感や満足感が得られるわけです。そんなことから、当初は三島作品は小説ばかり読んでいて、後年になって戯曲や評論も読むようになって徐々に三島の思想や美学への理解が深まっていきました。

しかし、最後まで謎だったのが、あのボディビルでした。なんでマッチョにならないかんのか?というのがわからなかった。幼少時にひ弱だったとか、戦争に召集されても肺疾患診断で帰されたとかのコンプレックスからという記載はあちこちで見かけますが、そんなコンプレックスからの理由でマッチョになるまでやるのか?もしや戦後インテリ層への当てつけでやってるのか?とも思ってたほどなんですが、この『太陽と鉄』にはその答えが書いてありました。

こちらが内容紹介。

太陽と鉄』(1968年10月)は、三島哲学ともいえる言葉と肉体の連環を述べたものですが、これをまとめようとするとはなはだ悩やましいのです。一般の人は最初に肉体ありきで後から言葉がついてくるという幼少時代を育つのですが、三島の場合は最初に言葉ありきで後から肉体が表れその肉体はすでに言葉に浸食されていた、というのが前提にあります。三島は言葉の純粋性を維持するために、現実から言葉を遠ざけますが、この場合に現実が肉体とシノニムになり、二律背反(言葉vs肉体and現実)の誤解が生じます。この誤解を認識し、「肉体の言葉」を学んでいくのですが、そのキーとなるのが太陽(終戦の陽射し、洋上の陽射し)と鉄(肉体鍛錬)であり、本作のタイトル『太陽と鉄』になっています。

肉体からは純粋感覚が得られ、三島はこの純粋感覚を思想の核とします。そして「芸術と生活」「文体と行動」の二元論の統一化を計りますが、ここらへんから理解が難しくなってきます。想像力の深淵が死に帰結するあたりからわたしの理解が追いつかなくなってきて、自衛隊入隊の話を惰性で読み進めてしまう状況でした。時間をおいて(他の文献も読んで)また読み直そうと考えています。

エピロオグの『F104』は、戦闘機の登場経験を綴った言葉です。飛翔についての描写は三島ならではの堂々たる文体で興味深く読めました。知的冒険においては経験できないこと(=肉体のあけぼの)や、三島が縁(Edge)や刹那に興味を寄せ、深淵には興味がないことは理解できますが、「蛇の環」の概念が掴めませんでした。なにか大切なことへの理解が抜けているのだろうか...などと思うように、難解な作品でした。

私の遍歴時代』(1964年4月)は読みやすいエッセイです。三島の17歳から27歳までの10年間、これを小説家になるための遍歴時代とし、さまざまなエピソードがちりばめられています。太宰嫌いについても、『小説家の休暇』よりも詳しく書かれています。これが出版されたのは38歳のとき、客観的に自分の生き方を見つめ直して書かれた回想録でしょう。『ちくま日本文学 三島由紀夫』の中には、この抜粋が含まれます。

三島由紀夫最後の言葉』(1970年12月)は、古林尚によるインタビューで、自決の一週間に行われました。文学論、社会天皇論、政治論など多岐に渡る内容ですが、このときにすでに自決の覚悟は決まっていたはずで、ところどころにその決意が滲み出ているようで、三島の覚悟とその生々しさを感じます。

「古林さん、いまにわかります。ぼくは、いまの時点であなたにはっきり言っておきます。いまにわかります、そうではないということが」(楯の会がていよく政治利用されているのではという問いに対し)

「僕は、ただ為すこともなく生きて、そしてトシをとっていくことは、もう苦痛そのもので、体が引き裂かれるように思えるんです。だから、ここらで決意を固めることが、芸術家としての生きがいなんだと思うようになったんです」

などの箇所です。

著者プロフィール。

注意書き。

書誌事項。

関係ないけど、この中公文庫のマークをみると、諸星大二郎の作品を思い出すのってわしだけ?

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p.s. 春雷が鳴ってる、ふきのとうを思いだす。2500引いて残りなし。