3年生になって、毎年恒例のクラス替えがありました。
わたしは仲の良い友だちが1人もいないクラスになりました。

全部で6クラスだったのに、2年のときにわたしと同じクラスだった女の子は1人しかいませんでした。
ほとんど知らない子、しかも2年生のときに同じクラスだった女の子は特別仲が良かったわけではなかったし、クラスメートには亜香里ちゃん(小学4、5年生の時に一緒にいた子)もいましたが、この頃にはほとんど会話をしなくなっていました。

わたしは、同じように仲の良い友だちがいないユミちゃんと一緒にいるようになりました。
ユミちゃんとは、共通の友人がいたので、過去にたまに一緒に行動することはありましたが、2人で話したことはありませんでした。
お互いそれほど自分から話題を出すほうではないので、ユミちゃんはどう思っていたかわかりませんが少なくともわたしは苦痛に感じました。

ユミちゃんが嫌いなわけでは決してないのです。
ただ、「ユミちゃんが退屈しているだろうなぁ」「仲いい子がいないから一緒にいるだけで、わたしのことが好きわけじゃないんだろうなぁ」と考えるたび、ユミちゃんに申し訳なくなってしまうのです。
言い換えれば、心理学の貿易機能で言うところの投影であり、自分こそがユミちゃんに対しそんな感情を抱いていたのかもしれませんが。

わたしの体調は、2年生の終わりには目に見えて悪くなっていたので、この頃になると朝から夕方まで学校に留まるということ自体で精一杯になってきました。
今でも覚えているのが、国語の授業で教科書を黙読しているときに、急に泣きそうになったことです。自分でも理由がわからず驚きましたが、その反面、もうすぐわたしはだめになるのだろうというボンヤリとした自覚があったようにも思います。


それでも、「休む」なんて選択肢が浮かぶ環境であるはずもなく、なんとか通い続ける日々が続きました。
家のことも、学校のことも、部活のことも、何を考えても希望がなく、極力なにも考えないようにしました。それでも夜は考えてしまうので、毎晩のように泣いていました。


それでも3年生のゴールデンウィーク明け、「あぁもう無理だ」と思いました。
母に「体調が悪い」とだけ伝え、ベッドから起き上がりませんでした。
今まで熱が出た時以外は、どんなに不調であろうと「無理だったら帰ってきなさい」と家から出され、休むことは許されませんでした。
母は不機嫌な様子でしたが、「明日からは行きなよ」と低い声で吐き捨てて仕事へ行きました。

わたしを苦しめるには充分な一言でした。
とりあえず今日はゆっくりと休むことができたとして、明日も休むことは許されないのだと。

もう無理だ、今日は休む、と決めたときには明日のことを考える余裕などなかったので、母の一言で「今日ですら気持ちを休めることは許されないのだ」と無理やり現実の前に引き戻された気分でした。

1日中自分を責めました。熱がないのに休んでしまった自分を責めました。もう母に幻滅されたと思いました。健太と同じように、子育てに失敗した子だと思われるのだと。

でも、学校を休んだ自分をどれだけ責めても、明日は学校に行こう、がんばろう、という気持ちにはどうしてもなれませんでした。

ずっと動悸と戦いながら、ほとんど眠ることができずに朝を迎えました。思考がうまく働かなく、母に何を言われても休んでしまおうと思いました。もう、これからずっと休めばいいと思いました。

不登校になったら将来の希望がなくなってしまう。今までずっとずっとずっとずっと我慢してやってきたことが全部無駄になってしまう。勉強もわからなくなってしまう。周りから「サボりだ」と冷たい目で見られてしまう。
だからずっと耐えてきたけど、もう全部諦めようと思いました。将来それでどうにもならなかったら生きることも諦めればいいと思いました。それがすぐになるのか、はたまた数年度になるのかはわかりませんが、どうしてこんなにつらい思いをしてまで頑張って生きなければならないのかわかりませんでした。

母は朝になると、わたしに体調を聞くこともなく、わざといつもの日常を装ってわたしに朝食を出し、まるで「休みたい」と言わせないようにするかのように、わたしのいる空間から消えていきました。無言の圧力によって、わたしが仕方なく学校へ行くことを祈るような気持ちで待っていたのだとは思いますが、わたしからしてみたら嫌がらせとしか思えませんでした。

支度をすることもできず、母が現れるのが怖くてその場から動くこともできず、リビングでポロポロと泣いていました。
わたしが支度を始めるか、家のドアを開けて出ていくかを、どこかで耳を澄まして注意を払っていたでしょうから、状況を理解しているに決まっているのに
階段を降りてきてわたしを見つけると、今気づきましたと言わんばかりに驚いて「え?まだいるの?」と嫌な顔をしました。
わたしはチラッと母の顔を見て、またうつむきました。
「何!?今日も休むの!?」
母は声を荒らげて、「もうやだ」と大きなため息をついて会社へ行きました。

完全に幻滅された、という悲しみの反面、ホッとしました。きっとわたしはこのまま学校へ行かなくなるだろうということが母に伝わったからです。正直、もっと最初からこうしていればよかったと思ったのも事実です。
それでも、このたった少しのやりとりが、母に見放されるのが、ずっと怖かったのだと思います。

それから母が、近い休日に病院へ連れて行ってくれました。
タウンページか何かで探したところ、近くの診療所で「心の相談」も受け付けていると書いてあったからです。
わたしはその病院で、看護師さんに「今日はどのような症状ですか?」と聞かれました。
わたしは一番悩んでいた、原因不明の吐き気のことを言いました。
しかし、「それはいつからですか?」と聞かれ、「2年ほど前からです」と答えると、看護師さんが動揺したのがわかりました。

きっと普通の風邪で来院したのだと当然のように思われていたのでしょう。待つように言われ、結局問診票は書かずに、母と一緒に診察室へ案内されました。
お医者さんに母の口からわたしのことが伝えられました。それはあまりにも表面上のことに限られており、あくまでも母自身はわたしの体調とは無関係だと言い訳をしているように聞こえました。
「心の相談を受け付けます」と記載していたにも関わらず、そのような対応マニュアルがあるようには思えませんでした。過去に例がなかったようでお医者さんも看護師さんも戸惑っているようでした。
ただ、お医者さんは母の話を聞いているうちに、次第に怪訝な表情になっていきました。
そして母の話が終わると一言
「なんで今まできゃりちゃんを放置していたんですか?」と、聞きました。

母は思いもよらぬ質問だったのか「えっと、他のことも忙しくてちょっと」と明らかに動揺を見せ、何度も言葉につまりました。わたしが何を言っても言い負かされてきたので、母のそのような姿を初めて見ました。

わたしがいくら、「つらい」「静かにして」「やめて」「間違っている」と言ったところで、母は聞く耳を持ってくれなかったことでしょう。
第3者から「あなた今まで何をしてたの?」と責められる母を見て、わたしはなんとも言えない気持ちになって泣きそうになりました。

結局、「そういう話は精神科の病院へ行ってください」と言われてしまい、健太が通っていた病院へ連れて行かれました。

わたしが待合室の椅子に座ると、母はわたしの隣へ座ることはせず、全く別のところに置いてある椅子に座って本を読み出しました。
あまり見ない光景だったからか、先生もわたしを呼ぶときに少し気になっていた様子でしたが、診察室へはわたしだけが呼ばれました。
何を話したのかは覚えていませんが、薬が大量に出ました。抗うつ剤、抗不安薬、睡眠導入剤…いろいろなものを出されましたが、インフルエンザのときにしか薬を飲んだことがなかったし、「睡眠薬」なんて何か危ない薬のイメージがあったので、わたしはこんなに重症だったのかと初めて知りました。

わたしと先生との話が終わると、わたしと入れ替わりに母が呼ばれました。
母と先生が何を話したのかは知りません。わたしは病名を聞かされなかった(今思い返してみれば明らかにうつ病ですが)ので、母にのみその時告知されたのかもしれません。

その日から薬との戦いが始まりました。
インフルエンザの薬のように、とりあえず用法用量を守って飲み続ければいいのだと思っていました。効くのか半信半疑でしたが、効かなかったとしてもそれはそれでいいやくらいに考えていました。
薬には「副作用」というものがあるのは知っていましたが、今までそのような害を受けたことがなかったので、考えもしなかったのです。

一番の悩みが「学校へ行こうとすると気持ち悪くなること」だったのに、薬を飲むとそのせいで吐き気がするのです。心臓がドキドキして、落ち着きがなくなり吐きそうになります。抗うつ剤、抗不安薬と言いながら、それを飲むと症状が悪化するのはどういうことなのだと、精神科医が信頼できなくなりました。

一度本当に我慢ができず、母に「吐きそう」とつぶやきました。
リビングで母と、弟2人とテレビを見ていた時のことです。

母はわたしを振り返って、冷たく「トイレ行けば?」と言いました。

わたしは黙ってトイレに行き、吐きました。少し泣いてしまいましたが、そのあとすぐにグッとこらえてリビングへ戻りました。
母はわたしをチラッと見て、またテレビに向き直りました。
家族はテレビを見て笑っていました。

健太はわたしが不登校になってから、なぜか夜にあまり暴れなくなりました。
わたしまで不登校にさせてしまったのは自分のせいでもあるのだと思ったのか、はたまたわたしを下げてあからさまに健太に優しく接しだした母に乗っかったのかはわかりません。

言い争いが減り、一見穏やかさを取り戻しつつあったので、雄太やご近所さんへの迷惑が減ることは嬉しかったですが、
なぜか必要以上にわたし以外の家族にニコニコしだした母、そして今まで衝突しあっていたくせに母に甘えだす健太を見て、わたしの存在はなんの意味があるのだろうと考えるようになりました。

薬は、飲んだほうが不安定になるので飲みたくありませんでした。
だから飲みませんでした。
でも飲まないと、母に嫌な顔をされました。お前は邪魔な存在なんだから、せめて薬を飲んで何事もなくしていてくれと言われているような気持ちになりました。
でも、薬を飲み続けているうちに、幻聴が聞こえるようになりました。
爆発音だったり人の笑い声だったり、聞こえるはずのない音・幻覚だという認識はありましたが、それでもとてつもない恐怖でした。

幻聴は、特に夜に聞こえました。眠れない。耳を塞いでも小さくさえならない。逃げても変わらない。こんな思いをしてまで飲んでいる睡眠薬はちっとも効かない。吐き気もおさまらない。

一度、本当に吐き気が強く、自分なりに「これは救急車を呼んだほうがいいくらいだ」と思うほど不調の日がありました。吐こうにも、何も口にしていないために何も出てこないのです。
たまたまその日は母が家にいたので、必死に母にメールしました。

しかし、母がきたのはそれから数十分経ってからでした。
疲れ果てた顔で、もううんざりだという表情を浮かべた母が入ってきて「なんなんだよ」と口にしたときは、あぁメールに気付かなかったわけではなかったのだと悟りました。

そして、もうわたしは母に見捨てられているのだから、何も頼ってはいけないのだと思いました。

薬は勝手にやめ、母ももう呆れたように何も言いませんでした。
ただ、次に病院へ言った時に、わたしと一緒に診察室へ入ってきて、突然先生に「少年院みたいな、そういう施設に入れたいと思っているんです」と言いました。
わたしは初耳でした。

先生も驚いた様子で、
「え?きゃりちゃんとは話し合ったんですか?」と聞き返しました。
母はわざとわたしの前で宣言することによって、自分の考えを間接的にわたしに伝えようとしたのです。わたしと正面から向き合う気はなかったのです。だからこそ、施設に送ろう、もう育てたくない、と思ったのだと思います。

「少年院じゃなくてもそういう、家族と離れて暮らすほうがこの子にとっていいと思うんです」
お前が捨てたいだけだろう、と心の中で思いましたが、わたしはうつむいて黙っていました。
「薬だって飲まないんです」と母は続けました。
先生が「どうして飲まないの?」と聞いてきたので、何度も言うのをためらいましたが、これ以上ためらうと逆にまた母を苛立たせてしまうと思ったので、正直に「幻聴が聞こえるようになってしまいました」と伝えました。涙が出ました。

母は、「そういうことは言わなきゃダメでしょう」と、先生がいる手前少し優しく、でもいらだちで引きつった顔で笑いました。
「そういうこと」というのが、わたしにはなにかわかりませんでした。吐きそうだということや、救急車を呼んでほしいということは言ってはいけないのに、幻聴は言わなくてはいけないのでしょうか。疑問に思いましたが、言い返しませんでした。言い返すと余計に関係が悪化するのは経験上よくわかっていたからです。


不登校になって2週間ほどすると、亮介くんからメールが届きました。
比較的仲がよかった2年生のときでさえ、もともと2ヶ月に1度くらいわたしから送っていた程度だったので、亮介くんのほうから送ってくれたのはそれが初めてでした。

「ハガレンの最新刊出たけど、買った?」という文とともに、漫画の写メが添付されていました。
ちょうど、鋼の錬金術師という漫画の最新刊が初回限定の付録付きが出た頃だったので、早めに買わないと初回限定版は売り切れてしまうことをわたしも知っていました。
「買ってないよ。いいなぁ」とわたしが返すと、「買っといてやろうか?」と言われました。
クラスも違うのに、きっとわたしが学校へ来ていないことを知って連絡をくれたのだろうと思います。
ストレートに不登校については何も触れてこないところが彼らしいなと思いました。
でもわたしは受け取るために学校へ行くこともできない状態だったので、「え、いいよ悪いよ。でもありがとね」と返しました。返信はありませんでした。

それが亮介くんと関わった最後でした。
大した理由も、大した会話も、大したエピソードもない子どもの恋でしたが、それでもあんなにドキドキして、つらかった日々に幸せを与えてくれた人は後にも先にも彼だけです。
今でこそ恋愛感情はありませんし、連絡がとれないこともないですが連絡しようとは思いません。しかし、彼にはとても感謝しています。