「城崎にて」俺の家から車で10分で、多くの文豪が好んだ「城崎温泉」がある読書を好む人なら志賀直哉の「城崎にて」といった作品は知ってると思うがその作品のが生まれた温泉街だ。四季折々の素晴らしさがあって飽きる事はない特に春の桜の季節は格別だ。夏は毎週花火が上がり、温泉に浸かりながら観るもよし。秋はロープウェイで紅葉を楽しむもよし。冬はなんといっても名物の松葉ガ二を堪能できる。俺も親子4人で月に2~3度は必ずいってました。もう一度訪れてみたい場所のひとつだ。
詐欺や闇金がやり易い「犯罪の温床・LINE」闇金にしろオレオレ詐欺にしろ、口座凍結や「出し子」と呼ばれる役割のリスクがでかかったが。LINEで送金出来るとなると「悪事のやりたい放題」が可能だ。勿論のこと「マネーロンダリング」もこれでやり易くなる。マネロンも口座売買も法律で禁止されていたが、その法をLINEは無力にしたわけだ。口座売買は違法であるがスマホの売買は違法ではないからな。いくら警察が取り締まろうとこれで完全に「闇金」や「詐欺組織」は逃げ切れる。売春や覚醒剤取引アイテムのLINE。少年犯罪の陰にLINEあり。「犯罪利用預金口座に関する法律」を無力化したLINE・・「闇金」や「オレオレ詐欺」そして「口座が持てない反社会勢力(暴力団)」にはLINEは悪事の救世主だな。
再アップリクに応えました政治家であれ権力者であれ無知に気付かず自信と信念もった馬鹿ほど始末の悪いものはない。賢者は馬鹿を装えるが、馬鹿は賢者にはなれない・・・。法曹界に欠けているものは「常識、道徳と倫理観」そして人間としての「愛」である。裁判員裁判制度は法曹界に欠けた「常識」を補う意味で、一般人の意見を取り入れ補う制度である、この時点で法曹界は「六法全書以前に人道を学ぶべき」。今はまだ人道に欠けた「外道」の域を抜け切れていない。多くの冤罪や不当判決がそれを示している。司法試験は言うほど難しくは無い、法に関してのみ学習すれば良いだけの事、それも殆どが暗記学習、物理学の様に方程式を用いて応用する様な創造力や思考力は必要ない。凡人程度のIQと強欲があればよい。それ故、法に関して問題は無いのだが、歴史、文化、道徳、倫理といった人格形成上にも必要不可欠な要素に関して勉強不足なのは明白だ。六法全書は読んでるだろうが、和辻哲郎の著書すら読んでいない裁判官や弁護士が多すぎる。法にたずさわる者なら和辻哲郎の書いた本くらいは学生時代に読んどけよと思う。昨年から弁護士や判事を論破してきたが、彼等は・・法律以外は「無知」である。政治的な思想などどうでもいい、人として社会で生きるなら、まず人としてどうあるべきか。人の悪口を陰で吹聴する者、人を殺す者、盗みをはたらく者、それら悪人と大差ない「善良な市民」と呼ばれている「自分の事以外には無関心な人達」。筋を通す任侠に生きる極道の方が人間的にはまともだろ、極道は生き方だが、善良な市民と呼ばれる者の中には人の道外れたクサレ外道が多すぎる・・倫理について書いてみるから・・人の道を踏み外した外道ども、地獄行くまでに少しでもいいから踏み外した道から、全うな人の道にもどる事を努力してみなよ・・。父子・家族が倫理の根抵、根幹であることも読めばわかる・・・今は学校の参観日もオープンスクールなどと呼んでいるが数年前まで「父兄参観日」とか「保護者」と云わず「児童の父兄の方々」などと呼んでた意味も分かるから。知識も教養も無い馬鹿が「人権や男女平等」などと唱えると西暦より長い歴史の皇記2700年の歴史と文化まで数年で壊される「核兵器」なみの破壊力だわ・・国や民族滅ぼすのは兵器ではなく、その民族の言語・習慣・文化・食生活を変えれば壊滅する。我が国は既に壊滅寸前。先の大戦で核を二発もくらったが立ち上がれた、兵器では魂は死なない、しかし魂壊されたら二度と立ち上がれない。馬鹿に権力持たせた分かり易い例が今の日本。倫理学とは何であるかのいう問に答えて、それは倫理或いは道徳に関する学であると云うならば、そこには一切が答えられてあると共にまた何事も答えらていない。倫理学は「倫理とは何であるか」という問である。だからそれがかかる問であるとして答えられるのは正しい。しかしそれによってこの問の中身には全然触れられるところはないのである。従ってこの問の中身は倫理学自身によって明らかにせられ他は無い。倫理学についていかなる定義を興えようとも、それは、問を問として示すに過ぎない。答えは結局倫理学自身によって興えられる他はないのである。倫理学は倫理的判断の学であるとか、人間行為の倫理的評価の学であるとか定義せられる。しかし倫理的判断とは何であるか、倫理的評価とは何であるか。それは既知量として倫理学に興えられるのではなく、また倫理学に於いて根本的にわかるべき問題なのである。だから倫理学とは何であるかを倫理学の初めに決定的に規定する事は出来ない。出発点に於いて我々はただ「倫理とは何であるか」という問いの前に立っている。ところでこの問いはは何を意味するであろうか。この問が言葉によって表現せられ、我々に共通の問として論議せられ得るということが、出発点に於いては唯一の確実なことである。我々は倫理という言葉によって表現せられたことの意味を問うている。そしてその言葉は我々が作り出したものでもなければまた倫理学という学問の必要によって生じたものでもない。それは一般の言語と同じく歴史的・社会的なる生の表現として既に我々の問に先立ち客観的に存しているのである。そこで我々はこの言葉を手掛かりとして出発する事が出来る。倫理という言葉は大陸の支那人が作って我々に博えたものであり、聖徳太子はそれを「和」とした。そうしてその言葉としての活力は我々の間に依然として生き残っているのである。この言葉の意味は何であろうか。その意味の上に我々はいかなる概念をつくり得るであろうか。「倫」という支那語は元来「なかま」を意味する。豊記に、人を模倣することは必ずその倫(なかま)に於いてすという句がある。これは模倣が社会であるというタルドの考えを逆に言った様なものであるが、それだけに倫の共同態としての意味を明白に語っている。かく倫がなかまを意味する故に、人倫という熟語もしばしば人のなかま或は人類の意に用いられる。例えば、畜生でさえそうである、況んや人倫をや(十訓秒)という如きである。ところでこの「なかま」ということは単に人を模倣的に見ただけではない。そこには人々の間の関係とこの関係によって規定させられた人々とが意味せられている。日本語の「なかま」に「仲間」という漢字が当てはめられるよっても明らかな如く、なかまは一面に於いて人々の中であり間でありつつ、しかも他面に於いてかかる仲や間に於ける人々なのである。この事は倫に於いても同様であって、そこから倫の最も重大な用法が発展して来る。即ち父子臣夫婦が「人の大倫」(孟子)と云われ或いは兄弟が「天倫」とよばれるが如きである。父子や君臣はそれぞれ特殊な、重大な意義を持つ「なかま」であるが、それは父子関係君臣関係でありつつまたこの関係に於ける父子君臣なのである。かかる用法に於いて人倫が人間の共同態を意味している事は明白だと言わねばならぬ。従って人倫五常とは人間共同態に於ける五つの「常」、即ち五つの不変なることである。ところで人間共同態に於いて「不変なること」とは何を意味するであろうか。人間生活の不断の博愛を貫いて常住不変なるものは、古くより風習として把捉させられていた。風習は過ぎゆく生活に於ける「きまり」「かた」であり、従って博愛する生活がそれに於いて博愛し行くところの秩序、即ち人々がそこを通りゆく「道」である。人倫に於ける五常とはまさにこのような秩序或いは道に他ならぬ。然るに人間共同態は本来かくの如き秩序に基くが故に可能なのである。父子の間に父子としての秩序が無ければ父子の間柄そのものが成立せず、従って父を父、子を子として規定することもできぬ。だから父子の「大倫」は父子を父子たらしめる秩序即ち「常」に基いてまさに「大倫」たり得るのである。かくみれば人倫五常は、人間共同態に於ける五つの秩序であると共に、また人間共同態を共同態たらしめる五つの秩序でもあるのである。従って人倫五常をいうかわりに人倫そのものが五輪と呼ばれるのも不思議ではない。五輪は五種の共同態を意味しつつ同時に五種の常即ち秩序をも意味している。「人倫」という言葉が人間共同態の意味を持ちつつしかも「人間の道」或いは「道義」の意味に用いられるのは倫が倫語、言中論に於いて事情を理解出来うる。然らばその人倫五常の内容は何であろうか。孟子によれば、「人倫」を教えるとは、父子有親、君子有義、夫婦有別、長幼有序、明友有信、を教える事である。父子の共同態には「親」がある。「親」がこの共同態における秩序である。然し「親」なくば父子の共同態そのものは可能ではない。従って「親」は父子の共同態を可能ならしめる根抵である。父子の間に「常に親あるべし」と云わずして、父子親有りと云うところに、意味が看取させられる。同様に「義」「別」「序」「信」も、それぞれの共同態の可能根抵である。明友は「信」に於いて明友として成立するのであって、明友の成立の後に信が要求せられるのではない。勿論明友は信の根抵に於いて成立するが故にまさに信の鉄如態に於いても成立し得る。だから明友の共同態の根抵たる信がまた常為としての意味をも帯得るのである。しかしその常為が共同態の存在根抵に基くことは明白だと云わねばならぬ。かく見れば人倫五常の思想は、人間共同態を父子、君臣、夫婦、昆弟、明友と云う如き五種の種型に於いて把捉する立場に立ち、これらの共同態をその存在根抵から眺めたものである。人間共同態を先に述べた如く君臣関係、家庭関係及び明友関係の三つの領域於いてのみ把捉し、しかも家族関係を父子・夫婦・昆弟の三つに細別する如きは、歴史的風土的なる特殊制約に基づくのであって、むしろそこから古代支那(大陸)に於ける社会構造が洞見せられるべきものであろう。のみならず支那自身に於いても五倫のみが唯一の思想なのではない。例えば祭りの十倫(即ち祭りの十義)を於いて君臣、父子、夫婦、長幼の四者の他に、事鬼神之道、貴賎之等、親琉之殺、将賞之施、政事之均、上下之際等を見はすと云う場合もある。鬼神に事ふるの道を云うのは部落共同態の見地に於いてでありその他は既に階級的に分化せる社会の構造を反映している。貴賎之等や政事之均をあらわすことが君臣之義や父子之倫をあらわすと同じく祭り(政り)の「倫」であると云う思想は、明白に祭り(政治)人倫の表現であることを、従って表現せられた人倫が祭り(政治)の「倫」に他ならぬことを示しているのである。そうしてその人倫の内に君臣之義と並んで貴賎之等、政事之均というが如きが数えられるとすれば、ここには人倫五常と等しく異なった人倫の思想が存すると云わねばならぬ。がこの立場に於いても、異なるのはただ共同態の把握の仕方だけであって、人倫を人間共同態の存在根抵から把捉するという根本の態度は変わらないのである。勿論我々は支那(大陸)古代の道徳思想に於いてこの根本の態度が自覚的に把持させられていたというものではない、聖徳太子の憲法をみて分かるよう支那(大陸)から伝わった「倫」は「和」であり日本民族の根底に有するものであった。諸子の内には個人的主観的意識から道徳を説かうとするものも少なくはない。しかし取扱われる道徳が人倫の地盤から出たものであることは推測するに難しくないであろう。ところで「仁」は「親」であって父子の間柄の根抵であり、「義」は君臣の間、「信」は明友の間の根抵である。「捧」は夫婦の間に、「智」は長幼の間に宛てて考える事ができる。(新渡戸稲造の武士道にある「義」「勇」「仁」は「礼」「誠」そして「忠義」なる大和の文化で昇華した形のもとここではとらえている。)これらはそれぞれの間柄を本質的に規定するものであって、それなくしては間柄そのものが不可能になる。しかしまた其々の間柄はそれのみによって成り立っているのでもない。「仁」は親愛である。そうして親愛は父子の間のみならずあらゆる他の間柄に、従って一般に人と人の間にもあり得る。同様に義奉智信もそうである。かく一般的に考察せられる時それらは特殊の間柄に座を占めることをやめて、人の「心」の問題とせられ得るに至るのである。更に進んではこれらの諸徳のいずれが根本的であるかを問題とし、特に「仁」を以って根本とする思想が顕著に現れてくる。しかしかかる思想に於いても仁が一般に共同態の一般根抵であるという立場は失われてはいない。孝弟を以って「仁の本」とする如きは、仁の根抵的な場所が依然として家族共同態に置かれていることを示すものであり、従って共同態一般を家族共同態から推論するものと解することができる。が我々の問題たる「倫」或いは「人倫」の意味を追求するためには、思想的思考察に深入り要はない。人間共同態の存在根抵たる秩序或いは道が「倫」或いは「人倫」という言葉によって意味せられている、という旨が明らかになりさえすれば良いのである。それでは「倫理」という言葉は何を意味するのであろうか。ここに「理」という言葉が付加される事によってどれだけの変化が起こされているであろうか。「理」は「ことわり」であり「すじ道」である。だからそれが人間生活に関係させられれば「理」の一語のみを以って既に「道義」の意味を持ち得る。人間の理は人間の道である、その道を外した者を「外道」という。人間社会に於いて外道は人とみなされない。人間の理は人の道、然るに「倫」は人間共同態を意味しつつ他面に於いてかかる共同態の秩序即ち人間の道を意味した。だから「倫理」と熟する場合にもここに何ら意味の拡大はみられない。ただ「倫」が既に持つところの道の意味を「理」によって強調するのみである。だから「倫理」は十分な意味に於ける「人倫」と全然同義であると云う事が出来る。即ち「倫理」も人間共同態の存在根抵たる道義を意味する。かかる意味に於いて音楽が倫理に通ずるとか、史を読んで大倫理を観るとかいう様なことが云われるのである。云いかえれば「倫理」とは芸術や歴史に表現せられ得る人の道であって、理論的に形成せられた原理でないのである。・・・今日はここまで。宮本、おまえ判事辞めて金物屋でもしろよ。よければ相談のるけど。