毎月出品することで段級が上がっていく。
同業の先生と話す時によく話題になるのが、「競書結果の捉え方」について、だ。
競書は基本的にその段級位の中での相対評価で順位がつけられていく。
(昇段試験は絶対評価の団体が多いと思われる。)
昇段、昇級すれば子供も大人も嬉しい。
上がらなければがっかりするのも当然。
上がらなくて悔しいと思う人は伸びる。
ただ、毎月これを続けていくうちに、
「習う理由」
そのものが変わってしまう人がいる。
「上手な字、綺麗な字が書きたい」
という理由で習い始める人が殆どなのに、競書を出し続けていくうちに、
「昇段昇級のため」
と書く理由が変わってしまう。
これは大きな問題で、指導する側は生徒さんがそうなった時にどう諭し導けば良いのか悩む。
一度その考え方になってしまうとなかなか覆らないのが人というものだ。
段級とは、私は経験年数だと思っている。飾りだとも思う。
本来の実力と段級がそぐわない場合も多々ある。
同じ段級位の中で実力差を感じることはこの世界にいれば誰しも経験があると思う。
大事なのは段位の高さではなく技術や知識を習得できているかどうかだ。
昇級昇段のため、師範を取るため
これが習う理由になってしまうと、希望の段位や師範の取得が「ゴール」となってしまう。
数値的な目標で終着地の設定をしてしまうと、それを達成した時点で「終わって」しまう。
達成した時に新たに目標を設定できれば良いとも思う。時には自分でゴールを決めなくてはいけないこともあるだろう。
芸事にはゴールというものは存在しないので、一人一人で決めるしかないのかもしれない。
昇段昇級がモチベーションになるのは間違いない。
認めてもらえた、評価された、という気持ちは自信へと変わる。
承認欲求が皆無の人間はそうそういないだろう。
競書誌を使わずに先生が手本を書いて教えることも出来るのだが、それだけだとどうしても張り合いがなくなってしまうのだ。
もちろん、グループ展を開く、市町村の文化祭に出品する等、計画や目標を立てれば、それがモチベーションになるだろう。
なかなか昇級せず、途中で競書の出品をやめてしまうパターンもある。
これは良くない。
出したり出さなかったり…よりは一部門でも良いのでコンスタントに出す方が良い。
段級は出し続けていれば必ずいつかは上がる。そのスピードは人によって異なるので、他人と比べる必要はない。
「お清書をする・仕上げる」という行為が重要だと感じている。
折角仕上げたのなら出品しよう。
お清書の時間が取れなかったのであれば、練習作品の中で一番よく書けたものを出せばいい。
清書より練習段階のものの方がよく書けていることもある。お清書するぞ!と気張ると上手く書けないこともあるからだ。
第三者に客観的に見てもらうことはとても大事。
時に辛い結果の時もあるが、そんな時もある、と軽く考えた方が良い。
結果に対して深刻になればなるほど辛くなるのは自分自身だから。
競書とは確かに他人と作品の出来を競い合っているわけだが、個人的には己との闘いだと思っている。
人と比べて字が上手い
まずその感覚が私はよく分からない。
誰かと比べて上手く綺麗に書きたいわけではない。
自分の字を今より美しくしたい、ただそれだけだ。
自分の思うように筆やペンが動かない、理想とする線が引けない、それが嫌だから練習する。
技能を自分のモノにしたいという単純な欲求で書いている。
結果は先月の自分の結果より良ければいい、そう思って書いているが、これがなかなか難しい。結果は簡単にはついてこない。
ただ、私は教えている立場なので、あまりに酷い成績を出してはいけないとも思う。
私が師範の中でどの部門も常に最下位だとしたら、生徒さんが恥ずかしい思いをするだろう。
私が教え伝える内容に信憑性もないだろう。
数多いる指導者の中で私を選んでくれた生徒さん達の信頼を得るために書いているのかもしれない。
競書に限らずコンクールや公募展でも順位はついてしまうわけだが、人と比べて勝った負けたの世界ではない、と私は思う。
結果なんてどうでもいい、他人のことはどうでもいい、とは思わない。
他者の美しい作品をたくさん見なければ審美眼は鍛えられないからだ。
自分の書いているものだけを見ていては気付けないことがたくさんある。
競書誌は同じ課題をたくさんの人が書くから勉強になるのだ。
同じ課題だが、醸し出す雰囲気、線による表現は皆異なる。
自分の結果に一喜一憂するのではなく、他者の作品を良く見るべきだろう。
競書誌を隅から隅までよく読み、よく観察すれば、知り得ることはたくさんある。
どのような分野でも芸事における技量向上には「継続」する力が必要不可欠。
どれだけ好きで熱意があっても継続は大変難しい。
それもまた自分との闘いだと思う。
継続の中でもたまに手を止めて深呼吸する時間は必要ですけどね。