瓶入りの手紙

瓶入りの手紙

旅人は、その日に思い耽った言葉を手紙に綴り、瓶に詰め込んだ。
旅人は、宛名のない手紙として、手紙の入ったその瓶を電子の海に流すことにした。
これらは旅人が電子の海に漂流させた瓶の中に入っていた手紙に記されていたもの。

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「良き問い」は「更なる問いを誘う」

行動から次なる行動を生み出す原動力はなんだろうか。原動力が生み出され続ける、制御ができる原初的な最小のメカニズムを発明できれば、生きることに飽きはないなと。

 

――制御ができる原初的な最小の原動力とはなんだ?

 

「楽しい」と「面白い」は原動力の燃料になる。「楽しい」は、快・不快の欲求であったり喜怒哀楽の感情であったりと主観的で心理的な要因なので、ある種自己暗示のようなもので誘導することはできるが、自身を餌で釣るようなことなので、ご機嫌伺になってしまう。一方で、「面白い」ならば、面白い何かと形容しているように対象への客観性を持ち合わせているので、「面白い」となる観点として、ストックすることができる。

 

なるほどな???

「面白い」が更なる「面白い」を踏めるようにすれば、相乗効果で「面白い」は大きくなる。しかも、「面白い」を踏んでくことを楽しめれば、つよつよでは???

 

――"「面白い」が更なる「面白い」を踏める"とはどういう状態だ?

 

「面白い」は、形容しているように対象への客観性を持ち合わせている。ということは、同種のものを比べる必要がある。「美しい」という形容詞を、「大きい羊」と置き換えてみる。大きな羊はお腹を沢山満たしてくれて、大きな羊を見ると美味しそう、美しいと。もっと旨そうな羊はどこかにおらんかねと。これだけで世界中の羊を探してみたくなる人がいるかもしれない。どこに生息しているんだ。何を食べたらこんなに立派に大きく育つのだ。そんなことを考えるかもしれない。「面白い」も同様な手続きを踏めばいいのだ。

 

対象にするものが比較できること。知らないことを知ることは、比較するための資材になるのだ。また、比較したことで得られた差分を見出すこと。どんな小さなことでも差分であればそれがなぜなのか因果関係を取り出そうとすることで観点を作り出せるのだ。

 

――宇宙にはどうして元素が存在していたのか。

 

たったこれだけの疑問を抱くことで、今生きている世界には誰にも解明されていない未知の余白があるのだと省みることができる。知らないことを知り尽くしたとたとえ感じても、世界に未知の余白がある限り、知り尽くせてはいないのである。人は生まれてから死ぬまでの一生にどれだけのことを知って去っていくことができるのだろうか。人類が空に憧れるのはもしかしたらこの未知の余白の存在故なのかもしれない。

 

――眼を養うには?

 

これは先ほどの「美しい」に関連した言葉で、「審美眼」という言葉がある。美しさを審判する観点と置き換えたら身近に感じる。この審判するための法則や規則みたいなものは、感性に近しいものなのかもしれない。判例を増やすことで、分別結果が抽出され、時として法則や規則を修正する必要が起きるかもしれない。回数を増やせば精度を上げることができ、経験知となる。観点を豊かにすることができるのだ。

 

――差分に気づき疑問を抱く

 

誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、どうやって…。英語の5W1H、外国語の疑問詞は差分から疑問へと導くのに優れている。様々な観点からプロファイルを構築していくと、自ずと差分が表れる。「面白い」に対して疑問視で切り口を作り、その回答を元に「●●が面白い」と疑問視を立て改めて切り口を作ると、凡例増やしプロファイルが精密になるのだ。時に、全く毛色が違うと思っていたものが切り口を変えると該当していたりと、知らないことを知る資材と、切り口となる観点を増やすことで知り得たことからも発掘することができる。

 

――何かに対して問いを設け、その問いの先に面白い何かがあること。

 

時に切り口は定型的な疑問視であったり、自ら抱いた疑問から切り口をつくることになるかもしれない。問に対する回答が必ずしも正確である必要はないのだ。「小さい羊」が「美しい」とも成り得るからだ。比較している以上、相対性は常に存在する。そこに原初的には良し悪しは介入しない。相対関係であることとその関係そのものとの相対関係と視野を広げることができると、何が良し悪しと見なしているのかが見えてくる。

 

問いを連鎖させていくと、自分の中の「面白い」が明確になってくる。自分が「面白くない」と判別したものが、誰かにとっては「面白い」ことだってあり得る。その誰かにとっての「面白い」の切り口を共有することができたら、「面白い」は更なる「面白い」へと導いてくれるのだろう。

 

人類は今日も未知を歩む。

 

 

 

「プロファイル」と「コンポーネント」

伝言ゲームをしよう。それは、「淡い橙色」「果実」「小さくて丸い」「一つの実に一つの種」「実は味はほんのり甘くほんのり香る」「葉の形は細くて長い」「バラ科に属している」「ある楽器の形に似ている」など。何の果物のことだろうか。
 
それの輪郭を示すだろうプロファイルを元に、それぞれのワードを組み立てていく、コンポーネントができあがっていくと、それが何なのか見えてくる。これは、内から見えるプロファイルを、外から見えるコンポーネントに当てはめていく、言わば分解と再構築をしているようにも捉えられる。
 
このプロファイルとコンポーネントの関係と、分解と再構築のプロセスは、何というものが抽象的な概念であっても成立するのかもしれない。プロファイルとコンポーネントの関係と、分解と再構築のプロセスがロスなく共通理解・共通解釈の上で成立していれば達成できるのだろう。
 
プロファイルとコンポーネントの関係の最小化や、分解と再構築のプロセスの定式化、これらをツール化して備えておくのは、伝言ゲームを有利に進めるヒントなのかもしれない。ちなみに、冒頭の伝言ゲームの答えは枇杷だ。

「リアリティ」と「リアル」

世界的なニュースとしてなった事故や社会情勢の当時の現場映像を元に作られたドキュメンタリー番組を見ていてふと抱いた感想がある。
 
「B級映画みたいやん。」
 
一昔前にフィクションとして描かれていた架空の物語の結末がもはや現実で面白味もなく起こっているのだと。現実のリアリティがフィクションのリアリティに追いついたのか、フィクションのリアリティが現実のリアリティに近づきすぎたのか、フィクションがフィクションでなくなってしまったのならば…。
 
フィクションという境界線を改めて明確にするには、これはフィクションであることを誰にでもわかるようにしたり、現実とかけ離れ過ぎた世界観をより精密に描くことが要求されそうだ。時には、フィクションに没入しすぎるユーザーに対して、現実に戻すようなトリガーが必要になるかもしれない。ゲームでいうところのオプション画面のように。
 
 
―――これは現実ではない。
 
 
と悟らせるために。
 
現実はフィクションではないし、フィクションは現実ではない。しかし、どちらにもリアリティはある。リアリティは、現実とフィクションとをあいまいにさえしてしまう。含みを持たせてリアリティという言葉を使っていたが、あえて翻訳するならば、現実味、現実感という言葉が近しいのかもしれない。現実にしろフィクションにしろ現実味、現実感を経て実体験として成立してしまえばそれは当人の過ごした現実なのかもしれない。
 
フィクションの描くリアリティが高度になればなるほど、現実のリアリティは一昔前のフィクションと感じてしまったようによりチープに感じてしまうかもしれない。今そこに生きているにも関わらずだ。もしかしたら、その現実への落胆がフィクションを超えようとする現実のリアリティへの道標になっているのかもしれない。

「庭」とはなんぞや

古くから所有する土地の敷地内に存在する「庭」という空間。
様式は違えど「庭」にはその空間に求めているものは似ているようにも感じる。
 
草花が植わっている庭があるとする。庭を舗装をしていなければ、そこらには雑草が生えてくる。自然なことだ。しかしだ、庭を管理する上ではその雑草を抜くのである。自然を模倣しているようで自然に意匠を求めているのである。森や木々が野性的に生える天然の自然と、人間によって意匠を持った人工の自然とが、人の想い抱く自然というものには存在することになる。
 
木々、草花、雑草。意匠に沿って構築されるその空間から、人はこれらを必要に応じて間引くのである。もしも、風や鳥によって運ばれてきた雑草の種から咲かせた花が庭にあるどの木々や草花よりもとても魅力的であった場合はどうだろうか。庭の主は、その魅力的な花を花壇の一等地に植えなおすかもしれない。
 
実はその花と同種の種は以前からも運ばれてきていたものの、人目に付きやすいところに種が落ちてしまっていたがために花を咲かせる前に刈り取られていたものだとしたら。間引くとは、なんとも人間的な営みのように感じる。そして、庭とはその営みの上で成立しているのである。

「貧しさ」とはなんぞや

 
「あなたは貧しさを知らない。」
 
過去に一度、ご高齢の経営者からそう言われたことがある。それからというもの、ふとした時に何度も何度もこの言葉が脳裏を過る。自分なりの答えが見いだせているのかは今でも自信はない。故に、答えを出す必要すらないのではと反抗心を抱いたことすらもある。
 
先に、自身が元より抱いていた「貧しさ」について簡潔に述べる。
「貧しさ」とは、物理的な金銭の貧しさではない。「貧しさ」とは、精神的な心の貧しさである。
「貧しさ」とはなんぞや。
 
「貧しさ」を自身に問う前提として、「お金」についても簡潔に述べる。
「お金」とは、金銭的な価値ではなく、生態、生きることを問うことに価値がある。
社会においては、「お金」が労働や政治や兵器と密接になったが故に、ある種の兵力のような力を備えてしまっているとさえ感じている。
 
「貧しさ」とは、「貧しい」の体言化。故に、貧しさを考えることは即ち貧しいが形容している名詞が潜在していることになる。して、その潜在している何かを当てはめていくことにした。
 
 
――――「貧しさ」とはなんだ?…
金銭。金銭の「貧しさ」とは。労働に対する対価としての金銭を過ぎているということなのだろうか。時代差による物価が安くなり高価なものを手にしすぎているということなのだろうか。それとも、欲しいものを買えずに我慢する不満のことなのだろうか。
 
――――「貧しさ」とはなんだ?…
機会。機会の「貧しさ」とは。機会を作らなくても機会が溢れていて歩み寄ってきている、だから、機会を生み出す発想力が足りないということなのだろうか。
 
――――「貧しさ」とはなんだ?…
環境。環境の「貧しさ」とは。何をするにしろ選択肢が用意されている、だから、選択肢を見出す視野が狭いということなのだろうか。
 
 
「貧しさ」を幾度となく問うてみても答えが見いだせないのは、潜在している名詞の数だけあるのだと思う。だからきっとこれからもこの問は脳裏を過るだろう。
 
「貧しさ」とはなんぞや。
 
 
 

「品格」とはなんぞや

それは、人が生まれ持ったものではない。
それは、誰かに与えられるものでもない。
それは、自らの内から芽生え咲かせているものなのであろう。
 
しかし、品格とは一体どういったものなのだろうか。
気高さや上品さ、ただ他者比較から見えるだけのものなのだろうか。
何か逸脱した感性や、超越したと感ずるものに対する、ある種敬意に近しいもののようにも感じる。
 
カジュアルな表現で、「推し」や「神」といった表現対象にも、
ある種そういった自身と一線を介し凌駕しており敬意に近しいニュアンスが見受けられる。
 
自分が敬意に近しい感覚に自然と感じさせられたものを挙げてみると、
ふと足を止めてしまうもの、それは絶景であったり一枚の絵画であったり。
ほかには、いじりようがないと感じさせるほどの完成美な建築物や理論など。
緻密で繊細にまで配慮が行き届いたオーケストレーションが素晴らしい音楽や工芸品。
 
これらモノから感ずる敬意に近しいと感じさせられたものを
自分なりに人の振る舞いに当てはめてみると、
人物の立ち振る舞い。歩き方。
思考の一貫性。最小で最大な言葉選び・言葉運び。
(※引き算足し算だけではなく、最善最良という意味)
思慮深さ。物事を深く見渡す眼。物事を細部まで見渡す眼。物事に対する姿勢。
などとなる。
 
また、美を追求する芸術性や、宗教ではなく自身の内にある信念のその先に見据えた頂きに対する信仰のようなものも関係するのではないだろうか。ここで述べている「品格」は、あくまで私の中にある「品格」の芽だけのことなのかもしれない。
 
「品格」とはなんぞや。
 
 

「探求」か「探究」か

検索して調べられることは既に誰かが知り得たことだけ。
検索するにも自分の知っている単語群から単語を組み合わせて検索ワードを入力する。
調べ事であれば、調べたいことが事前にあるので調べたい内容の単語をいくつか検索ワードに入力すれば、回答は得られるかもしれない。
 
しかし、他者から見て当たり前なことで検索すればすぐ調べられることをある人は「知らなかった。」とする。日常で物事を調べる方法が検索することしかなかった場合はどうだろうか。この人物が云う「知らなかった。」というのは、「(私の知っている領域には検索をしてもその回答に該当するものを)知らなかった。」ということではないだろうか。
 
自分の全く知らない領域、検索ワードすらも自前では思い浮かばないようなことは検索することができないのである。その自分の全く知らない領域が既に誰かは知り得ていてそれが当たり前とさえ思われていることであったとしても。
 
知らなかったことを知るには、自身の外部から自分の全く知らない領域に要求される必要がある。しかし、その外部というのが他者であった場合、他者から見て当たり前なことで検索すればすぐ調べられることであった場合はどうだろうか。こんな常識知らずの人と関わらないでおこうと思うのではないだろうか。
 
自身の外部から自分の全く知らない領域に要求されるには、他者からの希望は希薄となれば、隕石でも降ってくるのを待てばよいのだろうか。確率の問題になってしまうと、要求されることを確証することはできないのである。
 
では、自分の全く知らない領域に要求されることは難しくても、自分の全く知らない領域に要求することはどうだろうか。自分の全く知らない領域は、今は知らないけれども知ると面白いかもしれない。たったこの二つの文章で暗幕の世界を切り開くことができそうになってしまったのである。
 
たったこれだけで状況は変えることができそうだが、状態を変えるための方法を見つけなければならないのである。そのヒントとして、「探求」と「探究」の二つの言葉を記す。
 

「面白い」と「楽しい」

言葉ってのはおもしろい。"言葉ってのは楽しい"とは言わない。
「面白い」と「楽しい」は似ているようだけれど、使い方が異なる。じゃあ、どう違うのかと。
 
 
「このゲームは面白い!」という文章を、"楽しい"という表現で表すのならば、
「このゲームで遊んでいると楽しい。」「このゲームめっちゃ楽しい!」となる。
 
再翻訳してみると、
 
「このゲームで遊んでいると楽しい。」という文章を、"面白い"という表現で表すのならば、
「このゲームの遊び方は面白い。」「このゲームは面白い!」となる。
 
 
「面白い」は、何かの観点に対する思考。
「楽しい」は、~している自分の感情。
なのではないだろうか。
 
これらを他者に伝え、分かち合おうとすると、
「面白い」は、客観的で、共有するもの。
「楽しい」は、主観的で、共感するもの。
と、言い換えることができるのではないだろうか。
 
では、受け手となる他者が「共有」「共感」するとはどういうことなのか。
伝えられた内容と同等の考え方を用意した上で再現実行する。そして、共有できるか。
伝えられた内容と同等の心理的な状況や状態を用意した上で再現実行する。そして、共感できるか。
共有は考え方をロジックとして再現できるが、共感は心理的なものなので再現が困難である。
 
つまり、共有と共感ならば、共有の方が再現率は高く、分かち合える成功率が高くなる。
共感は、類似の心理的な状況や状態が受け手が経験にないと理解すら困難になる。
 
 
この「面白い」と「楽しい」の性質の違いを意識するようになってからは、たとえばゲームで遊んだときに「おもしろ!!」「めっちゃ楽しい!!!」と無意識に口に出てしまう瞬間に、どういうことが面白いのか、何をしているのが楽しいのかと「面白いところ」や「楽しいところ」が認識できるようになり、じゃあそれを誰かに伝えるにはどうアプローチしたらいいのかヒントにできるのである。
 
また、普段の「面白い」と「楽しい」の配分はどうか、これがわかってくると面白いゲームや楽しいゲームに巡り合う打率があげる助けになって豊になるのである。