「良き問い」は「更なる問いを誘う」
行動から次なる行動を生み出す原動力はなんだろうか。原動力が生み出され続ける、制御ができる原初的な最小のメカニズムを発明できれば、生きることに飽きはないなと。
――制御ができる原初的な最小の原動力とはなんだ?
「楽しい」と「面白い」は原動力の燃料になる。「楽しい」は、快・不快の欲求であったり喜怒哀楽の感情であったりと主観的で心理的な要因なので、ある種自己暗示のようなもので誘導することはできるが、自身を餌で釣るようなことなので、ご機嫌伺になってしまう。一方で、「面白い」ならば、面白い何かと形容しているように対象への客観性を持ち合わせているので、「面白い」となる観点として、ストックすることができる。
なるほどな???
「面白い」が更なる「面白い」を踏めるようにすれば、相乗効果で「面白い」は大きくなる。しかも、「面白い」を踏んでくことを楽しめれば、つよつよでは???
――"「面白い」が更なる「面白い」を踏める"とはどういう状態だ?
「面白い」は、形容しているように対象への客観性を持ち合わせている。ということは、同種のものを比べる必要がある。「美しい」という形容詞を、「大きい羊」と置き換えてみる。大きな羊はお腹を沢山満たしてくれて、大きな羊を見ると美味しそう、美しいと。もっと旨そうな羊はどこかにおらんかねと。これだけで世界中の羊を探してみたくなる人がいるかもしれない。どこに生息しているんだ。何を食べたらこんなに立派に大きく育つのだ。そんなことを考えるかもしれない。「面白い」も同様な手続きを踏めばいいのだ。
対象にするものが比較できること。知らないことを知ることは、比較するための資材になるのだ。また、比較したことで得られた差分を見出すこと。どんな小さなことでも差分であればそれがなぜなのか因果関係を取り出そうとすることで観点を作り出せるのだ。
――宇宙にはどうして元素が存在していたのか。
たったこれだけの疑問を抱くことで、今生きている世界には誰にも解明されていない未知の余白があるのだと省みることができる。知らないことを知り尽くしたとたとえ感じても、世界に未知の余白がある限り、知り尽くせてはいないのである。人は生まれてから死ぬまでの一生にどれだけのことを知って去っていくことができるのだろうか。人類が空に憧れるのはもしかしたらこの未知の余白の存在故なのかもしれない。
――眼を養うには?
これは先ほどの「美しい」に関連した言葉で、「審美眼」という言葉がある。美しさを審判する観点と置き換えたら身近に感じる。この審判するための法則や規則みたいなものは、感性に近しいものなのかもしれない。判例を増やすことで、分別結果が抽出され、時として法則や規則を修正する必要が起きるかもしれない。回数を増やせば精度を上げることができ、経験知となる。観点を豊かにすることができるのだ。
――差分に気づき疑問を抱く
誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、どうやって…。英語の5W1H、外国語の疑問詞は差分から疑問へと導くのに優れている。様々な観点からプロファイルを構築していくと、自ずと差分が表れる。「面白い」に対して疑問視で切り口を作り、その回答を元に「●●が面白い」と疑問視を立て改めて切り口を作ると、凡例増やしプロファイルが精密になるのだ。時に、全く毛色が違うと思っていたものが切り口を変えると該当していたりと、知らないことを知る資材と、切り口となる観点を増やすことで知り得たことからも発掘することができる。
――何かに対して問いを設け、その問いの先に面白い何かがあること。
時に切り口は定型的な疑問視であったり、自ら抱いた疑問から切り口をつくることになるかもしれない。問に対する回答が必ずしも正確である必要はないのだ。「小さい羊」が「美しい」とも成り得るからだ。比較している以上、相対性は常に存在する。そこに原初的には良し悪しは介入しない。相対関係であることとその関係そのものとの相対関係と視野を広げることができると、何が良し悪しと見なしているのかが見えてくる。
問いを連鎖させていくと、自分の中の「面白い」が明確になってくる。自分が「面白くない」と判別したものが、誰かにとっては「面白い」ことだってあり得る。その誰かにとっての「面白い」の切り口を共有することができたら、「面白い」は更なる「面白い」へと導いてくれるのだろう。
人類は今日も未知を歩む。
