映画と写真と小説と、目の前にある物語

映画と写真と小説と、目の前にある物語

映画を中心に色々な感想を書いていきたいと思っています。
解説や論評はできませんが、個人的な思いを綴っておりますので、何かのご参考になれば幸いです。

感想を書く上で、どうしても一部ネタバレを含む場合もありますので、何卒ご了承ください

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#今年の自分を褒めたいポイント


 


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数年前から新しい世界にトライしてみたいと思い続け、今年初めに一念発起しして試験勉強を開始! 先月、試験を受けてきました。
結果はまだ出ていませんが、約10ヶ月の間、精一杯勉強しました。落ちても悔いなし、とは言えませんが、やれることは全部やったというこの燃焼感。

どんなに歳をとっても新しい目標を持ち、それに向かってやり切った自分を、少し褒めたいと思います。


在りし日のジミーを愛で、今日を生きる自分を愛でる。



(一部ネタバレ含みます)
どんな青春・人生を歩んだ人であれ、自分を理解してくれる映画。
大人になった時、年老いたときに再び観たい映画。

農園主である父親と二人の息子、長男の婚約者、家族を捨て水商売で成功した母親。
優秀で「善良」な父と兄。そんな兄の横で、父親の期待も愛情も感じられずにひねくれる弟。
言うまでもなく、この弟がジェームス・ディーン。

父親と共に農園業に精を出す兄を横目に、弟キャルは謎の無断外泊。
実は、死んだと教えられてきた母親に会いに行っていました。
母親が生きていることを兄は知りません。兄は父の言葉通りにその死を信じ、美しく優しい母としてとして理想化しています。
しかしキャルが会った母親は、自由奔放で縛られることを嫌うアバンギャルドな女性でした。
農園を退屈な場所だと鼻で笑い、夫である父を聖書主義の束縛男と言い切って離婚した母は水商売で成功していました。捨てた家庭になんの未練もないまま、夫を、長男を「善良」と小ばかにする母親は、一方で自分と同じぐれた人間である次男に一定の共感をおぼえます。

常にすねているキャルは、笑ってしまうほど子供じみた悪さばかりします。
すがるような上目づかいで父親を、世界をみつめながら、満たされない心を振り回します。
どう対処してよいか分からない自身の心ですが、胸に空いた穴を埋めるものはシンプルで、
すぐそこにあるものです。
ですから、あることをきっかけに父親に認められれば、人が変わったように農園の仕事に精を出し、
父親が新事業で損失を被れば、父を助けるため内緒で大豆ビジネスを始めます。
折しも第一次世界大戦の勃発に伴って高騰した大豆のおかげで、キャルは金を手にしますが、
このことは裏目となり、逆に父親から非難されてしまいます。
善良な兄との比較、届かぬ父への想い。そうしたやりきれない心に寄り添ったくれたのは、兄の婚約者アブラでした。
キャルを支えたのは実は彼女だけではありません。農園の人たち、大豆農園の家族、町の保安官など、本人は気付くことのないまま様々な人に支えられ、最後は父親と通じ合い、この先長く続いていくであろう親子の絆を確認することとなります。

兄のアーロンについて。
映画では彼の人物像が十分に描かれているとは言えません。
まっすぐで、脆くて、ちょい悪で、輝くキャルとの対比。
善良、優等生という看板を背負い、ともすると退屈な人間とさえ映るアーロン。
しかし世の兄弟に多くあるように、兄として生まれたアーロンもまた多くのものを背負っている気がしてなりません。
兄とは言えキャルと同じ若者。それが長男であるがゆえに懸命に父を手伝い、事業を支え、従業員のことを考え、善良に、堅く、日々を生きています。

そのことでアブラの心に小さな不満が生まれたりもします。
参戦を決めたアメリカは若者を戦場へ向かわせます。そうした若者を鼓舞するパレードを楽し気に見つめるキャルに対し、兄は戦争への憎しみを吐き出します。さらにアデルと心を通わせ始めたキャル。周囲がアーロンを追い詰め、苛立たせます。ついにアーロンはキャルにこう叫びます。
 「俺はお前のことをずっと我慢してきた、そして許してきた」


映画の冒頭から兄はいつも弟をかばい、父を助け、婚約者を愛してきました。
喧嘩の末、やけを起こしたキャルは兄を母親のもとに連れていきます。
理想の母親像を粉砕されたアーロンは、自分の中で何かが壊れます。そしてそのまま自ら志願し、あんなに憎んだ戦場へと向かいます。
そのことを知った父は倒れ、それを看病するキャルは父と和解し、アデルと喜びを分かちます。
アーロンはたくさん勉強してきたでしょう。たくさん我慢し、己の責任と期待に応えるためにたくさんの努力をしてきたでしょう。しかし、理想であり憧れであった母の姿を知り、婚約者の心を奪われ、アーロンの心は壊れます。
キャルと父が手を握り合うその時、アーロンは死地に立ちます。

映画は稀代のスターを前面に出します。それはそれでいい。では映画の兄は捨て駒だったのか。多かれ少なかれ、アーロンと同じつらさを抱いてきた人も多いはずなのに。
けれどそんな映画が世界中で愛されるはずもない。私(長男)もアーロンに同情と共感を覚えつつも、この映画に魅力を感じます。その理由は、すべての人間がキャルだから、ではないかと思うのです。
願うものを手にできず、他者や社会に承認されている実感もない。自分の求めるものを知っていながら、どうすればよいのが分からない。人のためにと思いながら、いつも誰かの言葉に傷ついている。
すべての人の心がそうなのではないかと。

傷ついているのは自分だけじゃない。
傷つけているのは他人だけじゃない。

この家族を観て、そんな風に思うのです。

列車の屋根の上で、セーターを体に巻き付け寒さに耐えるあの有名なシーン。
すべての人の心象風景。
 

(一部ネタバレを含みます)

 

前半は寅さんのずっこけ縁談話。
旦那が失踪し、小さな娘を育てつつ懸命に働く女性に旅先で出会い、ほれ込んだ寅次郎。
さて柴又に戻ってきた寅さん、重大な話があるからといつもの面々に召集をかけます。
なによりもまず、おいちゃんおばちゃん、さくらや博に話をしたいんだと。


とうとう寅が所帯をもつんだと浮かれまくったその面々、さっそく宴会準備に取り掛かり、ついでに近所への報告も怠らず、夜の重大発表にむけて奔走します。
と、もうこの時点でおへそのあたりがくすぐったいのです。そりゃあ、この空騒ぎの結末は明らかですから。寅が人騒がせなのはいつものことですが、おいちゃんおばちゃんも中々のお騒がせ者です。
 

寅の発表内容は「旅先で素敵な女性に出会った。その人に気持ち伝えようかと思うんだけど、どうしたらいい?」というもの。この歩く粉飾決算男に文句を言うおいちゃんたち。そこに向かって寅はこう言います。
「だから言ったろう、何よりもまず、柴又のみんなに相談したかったって」
婚約の報告をしに来たのではなく、結婚を申し込んだほうがいいか相談に来た、とこいうわけです。
知るかって話です。いきがっているわりにいつも人を頼って甘えている、出来の悪い子供です。

でも、私も人のことは言えない。いや、もっとひどいか。世間に文句を言いつつも、やっぱり世間の目が気になる。自分は自分とうそぶいてみても、時折人に甘えたくもなる。
そういう脆さをバカ正直にさらけ出す寅と、それを許し、毎度毎度真正面から受け止める人たち。やはりこの映画にはいつも愛が満ちている。


映画の最後、戻ってきた主人と親子三人で暮らす女性の元を訪ねます。
ふつう、惚れた女が幸せに暮らすところに訪ねて行ったりはしないです。でも寅は行っちゃう。
あの人は、心の底から、一点の曇りもない心でその女性と家族の幸せを喜んでいるのです。
人の幸せが自分のごとく、いやそれ以上に嬉しくて、いてもたってもいられず訪ねてしまうのです。

 

ポスターのフレーズそのままですね。

寅と関わった人たちは、寅に惚れられた女性たちは、最後にはみな幸せになります。

寅の願った通り。いつだって寅は自分の願いを自ら叶えている。そう考えるとまた違った見方が生まれるかもしれない・・・

本筋の中でも、歌子(吉永小百合)親子を心配するあまり大きなお世話を繰り返し、時に衝突し、時に涙し、そして惚れた女性の幸せを純度100%の心で喜ぶ。現実社会に照らしてみれば迷惑行為と言っても過言ではないのですが、そもそもこの世の中で生きるためには、そんな純粋な気持ちを抱くことすら難しいのでしょう。
とらやのみんなも、結局はどこかそんな部分をもっています。
迷惑千万な純粋男と、決して懲りない優しき人々。

この映画は憧れなんです。憧れの先にあるのは成功者でもスーパーヒーローでもなく、とらやに満ち満ちている日々の暮らしと心のありかた。
 

そうそう、この作品から(だと思うのですが)さくらのアパートの部屋に電話が引かれましたね。
江戸川沿いも舗装路が増えたし。リアルな風景の流れも刻まれています。

懐かしい時代が新しい時代に代わっていくさまを見届けるのも、とても楽しい。