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映画と写真と小説と、目の前にある物語

映画を中心に色々な感想を書いていきたいと思っています。
解説や論評はできませんが、個人的な思いを綴っておりますので、何かのご参考になれば幸いです。

感想を書く上で、どうしても一部ネタバレを含む場合もありますので、何卒ご了承ください

私の愛してやまない金田一耕助シリーズ(市川崑×石坂浩二)でお馴染み(?)の岸恵子さんがマドンナを演じる第12作。

東宝金田一の話は、別途また書かせてください。

 

このあたりの作品から撮影機器やフィルムの性能が向上した気がします。気のせいでしょうか。

色合いや精細さが一段よくなったような。
また、映し出される街並みも大きく変わりはじめています。江戸川の土手や遊歩道は徐々に舗装され、護岸されてきています。
橋は塗装しなおされ(新しい橋なのかしら?)、いたるところに真新しい交通標識がある。
いわゆる高度成長期が終わり、開発が東京の下町に及んできた、ということでしょうか。


映画の冒頭はとらや一家の九州旅行から始まります。寅はタイミング良く(?)留守番です。静かなとらやの夜、なかなか旅先のみんなから電話が来ないとイライラ。不満たらたらの寅は電話越しに旅先のおいちゃんと大喧嘩。

寅はどうしてこうも寂しがりやなのか。
自分を渡世人というけれど、いつでも帰れる場所がある、待っていてくれる人がいるという
安心感が、彼をおおらかに、わがままに、甘えん坊にしているのでしょう。
庶民派の演出はいつもどおり。
デパートで満男の靴を買ってきたさくら。おばちゃんがそれを満男に履かせます。その晩の食卓、不意に抱っこされた満男の足にはあの靴が。家の中で一日中履いていたのですね。

当方も同様の幼い記憶があります。

プラモデル一つ買えなかった幼い頃の私、不憫に思ったであろう母に買ってもらったコカ・コーラのヨーヨー。毎日手の中で遊んだ記憶。


そして夕餉の折、本を読みながら寅の演説に賛同の意を示す博に、「いいいこと言うねぇ、この本で勉強したの?」おずおずと聞く寅。周りはうまい冗談だとばかりに爆笑するが、本人は真面目顔。真剣に質問したのです。

私はそんなやり取りの中に自分のちっぽけなプライドと無力さに対する恥ずかしさを感じました。

私は大した人間ではありませんが、それでも頑張っていて、でもあんまり上手くいかなくて…そんないじいじした日々です。だからハツラツと頑張っている人、自分が頑張りたいことに全力で頑張れる人。そういった人に嫉妬にも似た気持ちを抱きます。

 

寅はお調子者なので、気分のいいときはノリノリで迷いがありません。でもある瞬間、己の無力さと幾ばくかの後悔を思うのではないでしょうか。

それがまた、寅をすべての観客に寄り添わせる一面なのかな。


そうそう、何作かぶりに、ど真ん中直球の振られ方です。今作。

 

著名な美術品コレクターとして名を売ってきた贋作作家である祖父。
その作品が美術館に展示された。己の技術と手腕に浮かれていたら、科学的鑑定を受けることになってしまった。
科学の力にはかなわない。
これまでに嘘をついてオークションに出してきた作品のこともばれてしまう。


オードリー・ヘプバーンのコメディー映画。
このとき30代後半でしょうか。ローマの休日の時の可憐さに大人の気品も加わっていて、なんとも美しい。
その美しさを当方の手で余すところなくお伝えする! という無駄な努力はしません。

この頃の映画はとても丁寧に作られている気がします。
もちろん現在の映画が丁寧ではない、などという意味ではありません。
デジタルはなく、撮影や編集の技術も今と比べれば見劣りする中で、台詞、演出、芝居、というベーシックなエッセンスで1シーン1シーンを丁寧に仕上げているように思います。

気の利いた台詞には今でも笑いを誘われます。

どのシーンも非常にシンプルな映像ですが、細部まで見事にまとまっています。
観ている側としては、シンプルなぶん余計な意識に妨げられずスクリーンの中の物語にどんどん引き込まれます。
役者の細かい芝居にも目がいきます。
洒落た楽しい台詞を楽しむ余裕もできます。
映画に限りませんが、見事な作品は、やはり一定のシンプルさを持っていると思います。

オードリー・ヘップバーンとピーター・オトゥールの二人が美術品を盗み出しつつ、恋に落ちつつ、という物語なのですが、シンプルな映像の一方でストーリーは中々に練られています。
オードリー、その祖父(贋作作家)、ピーター演じる泥棒(?)、アメリカ人富豪、などなど、魅力的な登場人物。
それぞれの狙いと、その顛末は?
このあたり、単純には進みません。それぞれの思惑が実に複雑に、しかし楽しく、しかも自然に絡み合っていきます。
派手な映像に頼れない時代でも、知恵と発想、そしておそらくは熱い情熱で、実に楽しい物語を見せつけてくれます。見ごたえあります。
そこに南米の金持ちや、ちょっと間抜けな警備員たちが絡んできて、本当に楽しい。

映画の開始後、あっという間に主要な人物像を描き切るなど、映画という限られた時間を無駄なく、余すところなく楽しませてくれます。
上質な素材と丁寧な仕込み、基本的な調味料で、最高に楽しい料理が生まれた感じです。

この映画はタイトルの通り、ドロボーするのが話の軸となります。
作戦実行の過程については現代の目で観ると(いや、おそらく当時の目にも)、んなあほな、という部分は多々あります。
というか、ほぼすべてそうです。完璧なご都合主義です。
でも、ですね、ぜったいに当時のドロボーの方が楽しいです(映画の中に限った話です。言うまでも無く)。
今のドロボー映画は、形は色々あれど、コンピューターのハッキング、ほぼこれにかかっています。
M:Iシリーズのように最高に楽しい作品も沢山ありますが、知恵と工夫とアナログな作戦で切り抜けていく古き良き物語は、今見ても楽しいです。
まるで子供のころに遊んだパズルのように、自分で解いていく楽しみのような。
そういう映画、いろいろ思い出しますね。


 

リリー登場

寅といい、リリーといい、平凡な我が身からみれば、浮世離れした異世界の住人。

しかし、胸に抱える悩みと苦しみ、後悔の念に、大した違いはありません。

 

長い間、苦労と孤独に生きてきたリリーだから、寅に惹かれ寄りそいたい気持ちになるのはとてもよく分かる。

自分の孤独をまるごと受け止め、とぼけた風で引き取ってくれる。

つらい、と口にすれば、そうさなぁ、と遠くを見つめる寅の心には、いたわりと共感が偽りなく存在します。
函館の小さな港で、二人並んで出向する漁船を見つめるシーン。

台詞はありません。

海へ向かう船と漁師、それを見送る家族。

手を振る妻と子。それは、しばしの別れを惜しむ合図でもあり、また必ず帰ってくる約束の証でもあるのでしょう。リリーの人生には無いもの。

通じあう二人の心が伝わってくる名シーン。
 

寅は知っています。寅自身にはいつだって帰れる場所があること。自分を心配し、思ってくれる人たちがいること。そして、リリーにはそれすらないこと。

寅はリリーを大事に包もうとします。

もちろん寅のこと、大暴れの末、みんなうんざりする顛末は毎度のこと。それでも寅はリリーの幸せを願い、奔走します。

そして何より、とらやの面々がリリーの孤独と寅の想いを知り、温かい心でリリーを迎え入れます。

寅が起こす騒動の中でてんやわんやしながら、苦しむ人を迎え入れるのです。いつだって。

 

リリーはマドンナの代名詞ですが、それだけではなく、リリーを大切に包みこむすべての人が美しいのです。それがこの作品を代表作としているのでしょう。