こんにちは、マヤ暦アドバイザーの矢島裕基です。
マヤ暦を勉強しながら、自分の世界を変えようと日々勉強している。
そんな暇人です。
今日はちょっと、マヤ暦から離れて、疑問に思ったことを書いていきたいと思います。
投票率って、上げればそれでいいのだろうか
選挙が近くなくても、最近は「投票に行こう」という声をよく見かけるようになりました。
特に宮城県知事選をきっかけに、その波が一段と大きくなったようにも感じます。
けれど、ふと疑問が湧きました。
投票率を上げることは、本当に“正しい目標”なのでしょうか?
投票率は「数字」だけでは意味を持たない
投票率は、政治への参加を示すひとつの指標です。
それ自体は大切な価値を持ちますが、「上がりさえすれば良い」という考え方には、どこか無理があります。
投票率を上げるために、とにかく人を動かす。
結果だけを求めるその姿勢は、国民を政局の駒として扱っているように見えてしまうこともあるからです。
選ぶ側の気持ちや思考のプロセスを置き去りにして、
ただ“動員”を目指した先にあるのは、本当に豊かな民主主義なのでしょうか?
ポピュリズムが肥大化する空気
SNSでは、政治の話題が盛り上がるほど意見が先鋭化しやすく、
冷静な検討でさえ「スパイ行為」「売国」など、極端な言葉にすり替えられてしまう場面もあります。
投票の呼びかけが過剰になると、人々が「正しい答え」を押し付けられているように感じ、
その反動で過激なメッセージが増えることもあります。
本来の政治参加は、自分の意思を大切にする静かな行為なのに、
いつの間にか声の大きさやレトリックが主役になってしまう。
そんな空気の中で投票率だけを追いかけても、心は置き去りになります。
「投票率が上がれば勝っていた」は、本当に真実か
選挙後によく聞く言葉があります。
「投票率が上がれば結果は違った」
けれど、それは少しだけ自分を甘やかす言葉にも見えます。
人は、自分が魅力を感じる場所に足を運びます。
投票に行かなかった人を責める前に、
そして別の政党に投票した人を見下す前に、
まずは「なぜ届かなかったのか」を聞く姿勢、問う姿勢が必要だと思うのです。
政治は参加者の数で決まる競技ではありません。
人の意志と選択の積み重ねです。
そこに責め立てる言葉は、本来必要ありません。
最後に
投票は、国の未来を決める大切な手段のひとつです。
けれど、数字だけを追い求めれば、本質はかえって遠ざかります。
人を急かさず、責めず、見下さず、異なる意見を持つ人を尊重して、
愛を持って洞察して、対話してみてはどうでしょうか?
シンクロニシティ研究会3つの理念の中にこんなものがあります。
「愛と尊敬を中心とした認め合う社会の実現を目指します」
これを忘れずに活動していきたいですね。
いままで、政治家を取り上げていたのは、投票率を上げるためではなく、
自分が偶然興味を持っていた分野というだけです。
今日は投票率について疑問に思ったことを書いてみました。
今日も読んでくださってうれしいです。
では、また明日(@^^)/~~~