音楽で空に穴を開けてみる
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高島 野十郎展

交錯する光と闇、そして魂。



久しぶりに福岡県立美術館へ行ったのは高島野十郎の作品を見に行くためであった。
土砂降りの雨の中、寒さに震えながら美術館へ行くこと自体がすでに彼の世界への序章のようで
なんだかとてもワクワクしてしまった。

さて、友人から教えてもらって初めて知った画家さん。
パンフレットには「交錯する光と闇、そして魂。」という触れ込みがあり、彼の晩年の真骨頂と言える
蝋燭画や闇夜に浮かぶ月などの作品が並んでいるのかと思いきや、
何の前情報もなしに赴いたのでびっくらしたのもあるのだが、
静物画や風景画、花、船などがその大半を占めており、蝋燭画や太陽、月などの作品は
おそらく全体の10%くらいであった。
あまり時間がない中で、かなりのんびーり見てしまったせいで、肝心の蝋燭画を駆け足でしか
見れなかったのがとっても残念だったのだが、立ち並ぶ蝋燭の炎、太陽、月の灯りの
連続展示はまるでストロボライトのように動画のようなイメージで心に焼き付いた。

作品を観ながら感じたことは常にメモを取っていたのですが、わたしなりに感じたこの方の作品のテーマ
というか主題は「気配」である。
ゴッホの展示会に行ったときも感じたのだが、初期の作品は一様に手を伸ばせば届く位置にあるところに
あるものや対象物を描いておられる。鏡に映った自画像や部屋の棚に置かれた果物。だが全体の色のトーンは
すべて薄暗い。薄暗いというかほぼ闇である。時刻で言うと日が落ちて間もない薄暮。
太陽が沈んで薄暗くなってゆく部屋の中、あらゆる物や自分が闇に包まれていく中で、消えてゆく部屋の
色彩の最後のひとかけらをキャンバスに引き止めているかのような印象を受けた。
窓際に置かれた果物が多いのも、きっと消え行く光もしくは太陽に代わり夜を照らす微かな月明かりを
なんとか拾い集めれるからではないだろうか?
闇にまぎれてゆく果物や花が、光を失うことで色彩を奪われながらも、逆に色では言い表せない生き物としての
存在感が息吹のように闇にそぞろきだしてくるような不気味な気配を彼は感じたのだろうか。
うねうねとウネリながら天井を目指しているかのような芥子の花の絵がとても印象的だった。

わたしは別にアーティストでもなんでもないが、夜と朝、光と闇が入れ替わる瞬間の何とも言えない
美しさというか雄大さに魅せられて、昔は朝方まで夜を徹して窓越しの景色を眺めながら起きては
朝焼けの色をスケッチしていた頃があった。
その時の気持ちがふっとよぎった。

さて、闇を基調とした作風の彼に突然、青空やカラフルな色彩で埋め尽くされた作品が登場しだす。
パリを根城にヨーロッパを3年間ほど放浪していた時期だ。
やはり異国の地は「画家で身を立てる意気込み」で凝り固まった精神をやわらかに開放してくれたのだろうか。
至近距離の世界から、一気に晴れやかな風景へ。
また、風景画のそこかしこに人々の絵がチラホラと確認できるのもとても微笑ましく、きっと絵を描く喜びや
楽しさで筆がどんどん進んだのかな?と推測した。
この時期は「梨の花」で特に顕著だったがゴッホの影響がよく出ているのが素人目にもよくわかった。
ただそれは画風が似ているというだけで、ゴッホはスケッチだろうが油絵だろうが、とにかくどの絵にも
鬼のような執念を感じたものだが、野十郎氏の絵からはドロドロした感情が漏れてくることはなく、
なんというかとてもインテリというか、繊細で洞察力に溢れていて、きっと普通の人がだいぶ見落としている
世の中の美しい景色の切れ端を丁寧に拾って縫い上げてくれている、という気がした。
可憐に咲き誇る菜の花の大群の下にひっそりと咲く蓮花や空に舞う花びら、紋白蝶、薄く浮かぶ雲、
水面に映るお寺が静かに揺れている様子、花瓶から枯れ落ちた葉っぱ、微かな霧に包まれる五重塔、
果物の小さな傷、皿の欠片…。
じっと辛抱強く見つめ続け、その存在に真っ向から対峙しないと見えてこない景色にたくさん出会って
きた野十郎氏は本当に心優しき観察者だったのだろう。
無機物と有機物を分け隔てなく見つめ続けた眼差しが獲得した奇跡の世界という感じであった。
どの絵にもあからさまな主人公はおらず、花も花瓶も葉も茎も部屋の空気も光も闇もみな絶妙な均衡で
そこに存在し、独特の気配を醸し出している。
そう、気配なのだ。
物や空気や光が醸し出す気配。
全ての絵に共通して感じ取れたもの。

仏教にも通じていたという彼だが、やはり物事の真理を追究するにあたって禅の心を重んじていたように
思う。
座禅をし澄み切った精神で捉えるこの世の万物の存在意義。
この世に無駄な存在など1つもなく、また存在の意味は己の心次第でいくらでも変化してゆく。
テーブルに転がるリンゴは食べ物としてではなく、彼に真理を追求させるための試練を与える存在として
鈍く光る鬼。
勢い良く渓谷を流れ落ちる水は動く物としての存在感だけでなく、岩に支えられ突き動かされている
か弱き存在のようにも感じる。
寺に雨が降りしきっている景色ではなくて、雨の隙間から浮かび上がる残像のような寺の姿。

まるで織物のように、様々な存在と存在を縦に横に斜めにと結びつけて浮かび上がる気配を描いてきた
野十郎にとって、「蝋燭」「月」「太陽」とは一体どんな存在だったのだろう?
同じ構図で何枚も何枚も描かれた炎。炎を見つめながら彼を何を思っていたのだろう。
そもそも見つめていたのは炎ではなく、炎があることによって歪む闇だったかもしれない。
炎と引き換えに溶けてゆく蝋だったかもしれない。一瞬も同じ形を見せない影だったかもしれない。
そのすべてが作り出す気配を感じながら、きっと彼は「己自身」を見つめていたのではないだろうか。
何十年もかけて世界の様々な存在を見つめてきた彼にとって、その観察者としての自分とは一体どういう
存在なのだろう?
その問いに答えてくれそうだったのが炎や太陽や月だったのでは?
いつもただそこにある太陽や月。
神のように黙ってじっと存在し、ただそこに在る=全ての物と一体になれると感じたのでは
ないだろうか…。
全ての物。全てを飲み込む闇でさえも。

彼にとって、闇とは一種の恐怖であったのかもしれない。
だからこそ闇の中にいながらもあたたかな安心を得るために、静物の存在感を感じ取り、
微かな光でも充分だと言い聞かせたかったのが初期の作品群だとしたら?
だとすれば、漆黒の闇に浮かぶ月は怯える自分に不思議な安心感をもたらす極めて身近な存在だったのではないか。
蝋燭の炎もきっとそう。
闇に飲み込まれるのを怯えながら待っているかのようにゆらゆらと揺れる炎は、まるで闇に潰されそうな
自分の心境を共に分つ親友同士のように心を通わせ合う仲だったのではないか。
お前の炎が尽きれば俺も消える。
自分の存在はこの小さな炎が照らしてくれることでようやく確認できるのだから。
世間と自分を繋ぐかすかな糸口。

では太陽は?
太陽を描く絵からは、なぜかものすごくよそよそしい、嫉妬のような感情さえ感じた。
眩しく輝き、圧倒的な存在感で現れては消えてゆく太陽はいくら手を伸ばしても到底届かない悔しさのような
ものが滲んでいる気がしたのだ。
太陽を描いた作品の中で、太陽部分だけに絵の具を盛りつけている箇所があり、そこだけが異常に立体感を
帯びていたところがあったのだが、そこからは「お前なんか勝手に1人でそうやって堂々と輝いていやがれ」
というような言葉が聞こえてきそうだった。

自分の部屋から始まり異国、生まれ故郷、隠遁の地、そして空。
ゴッホやゴーギャンのような、宿命としての苦悩を振り切るための生命装置としての絵描きではなく、
あらゆるものをじっと見つめ続けて受け止めたものを描き続けた男が最後に捉えたこの世の真理は、
この世に生まれた己の存在の尊さであったことを心から願う。
絵を見る者に、悲壮感や絶望、苦悩をほとんど感じさせない凛とした悟りの境地を魅せ続けた高島野十郎。
エリートコースを捨ててまで画家を志そうと思ったのは、社会に邪魔されることなく人生をありのままに
ゆっくりと受け入れたかったから、かもしれない。

脳男、横道世之介

■脳男
 バイオレンスアクションということでしたが、たしかにバイオレンス。
 15歳以下見ちゃダメ規制が入ってたような…
 生田斗真演じる頭脳明晰ながらも人間の心が完全欠如しているという謎の青年役、
 で相反する役として連続爆弾犯を演じるのが二階堂ふみ。
 猟奇的な快楽殺人なわけだが犯行の動機も自らの余命僅かで自暴自棄+先天性の
 無人格…で、結局ショッキングな殺人現場や殺人シーンが多発している割には、
 この映画で描写している悪の闇は結局は救えないものであるという結末。
 なんというか、こういう…救えない闇を語るのに、これだけ犠牲者の悲しみを
 具体的にセンセーショナルに映し出す必要があるのかね…?
 

■横道世之介
 高良健吾が演じる冴えない男子大学生役が憎めなくてかわいくてしかたない、という
 ことに尽きた。
 いわゆる青春映画なわけですが、鴨川ホルモーとか69みたいに、男子目線で語られる
 青春はやはり男が観る方が面白いんだろうなということで、それ以上は特に感想なし。

上意討ちー拝領妻始末ー

小林正樹監督作品
三船敏郎・仲代達矢主演

人生にはとにかく選択することが多い。

どちらの買い物が安くてお得か。
上司へのゴマスリで残業でもするか、それとも自らの自由時間のためにさっさと帰るか。
雨降ってるけどゴミ捨て行こうか、いやもうやめとくか。
雨が降りそうだけど傘じゃまなんだよな…持ってく?やめとく?
愛する人が殺されるか、自分が死ぬか。

様々な選択の濃度を突き詰めればそこにあるのは生か死か、になってくる。
そこには「どっちでもいい」や「どっちでもない」という選択はない。
どちらかを選ばざるを得ないのである。
そういう場面に出くわした時に、選択の指針となるものは何か?
見栄?体裁?意地?根性?
たしかにそれらもあるかもしれない。でもそのどれもが決定打にまではならない。
ではこの映画で三船敏郎演じる一藩主、そしてその長男と嫁が己らの生死の選択の指針としたもの、
それは何だったのか?

信念である。
言葉通り、信じ、念じる。

========
三船敏郎演じる三百石藩主・笹原伊三郎の長男・与五郎(加藤 剛)にある日突然、結婚話が転がり込んでくる。
その相手として曰く付きの女・市を演じるのは司 葉子。
しかも市は君主の妻であったが突如お暇を出され無理矢理に部下である笹原の家へ嫁がされるのである。
仮にも君主の妻、しかもすでに世継ぎである菊千代まで産んでいる方がなぜいきなり家から追放されたのか。
伊三郎の妻の話によると、若い側女に嫉妬してその側女に暴力をふるい、
かつ君主の胸ぐらを掴んで平手打ちをお見舞いしたとのこと。
そんな手の付けられない暴れ馬を城から片付けがてら押し付けられた、ということが実のところなわけだが、
そんな事情ながらも心優しき与五郎は市の身請けを承諾する。
そうして笹原家へやって来た市であったが、なんとも見目麗しく慎ましやかな性格。
一体どうしてこのような人が噂の如き所業ができようかという具合。
噂と実の違いに首をかしげる笹原家一同であったが、重たい口を開けた市が語るところの真実は
噂とは程遠い悲しい現実であった。
そもそも、許婚がいる身であった市を、汚い手口で許婚から引きはがし、
その美貌のために無理矢理に君主の妻として強制的に召し上げ、
あまつさえは世継ぎを産んだ途端に更に若い側女を多数はべらせる。
その理不尽に憤慨したが故の、市の人間としての抵抗であっただけなのだ。
それを暴挙だなどと託つけて面倒事はさっさと切り捨てる。まぁなんという外道も外道。
しかも自分勝手に笹原の家に押し付けておきながら、世継ぎ第一候補の男児が死去し、市が産んだ菊千代が
世継ぎとなることが決まるや否や、態度一変、大奥として帰ってこいとのこと。
すでに市には与五郎との間に産まれた富というおなごがいるというのに、そんなこともお構いなし。
ここであっさりとハイそうですかと市を送り返す笹原家ではない。
しかし必死の抵抗を続けるも、お上は滅茶苦茶な言い訳を盾に市の強制奪還を迫る。
果てには笹原家のみならず笹原にまつわる親戚一同にも害を及ぼすぞとの薄汚い脅しに及ぶ始末。
市を君主の元へ行かせろと迫る親戚達の中にいながらも首を縦に振らぬは市、与五郎そして伊三郎以上の三名。
しかし伊三郎の次男、そして妻の謀により市は君主の元へと返されてしまう。
それでも笹原家長男・与五郎の妻として市を奪還すべく、伊三郎と与五郎は君主達に楯突く。
埒が開かない局面において、なんとか始末を付けるべく、もはや市が「わたくしは笹原家とは何の関係も
ございません」とさえ言えば此の度の件は一切お咎め無し、切腹させることもない、という条件で
なんとかその場をやり過ごそうとする役人達であったが、
その局面で市が放った一言は…。
========

この司 葉子演じる市は女が人として真っ当な生き方をするということがとにかく難しい世の中に置いて
神のように尊い信念でもって生き抜いている。
市は言った。
「50も過ぎた老人(君主)に触られるのかと思うだけで首筋に毛虫が這うような思い」
「若い側女は、まるで君主の横にいることが最高の誇りであるかのような恥知らずな振る舞いだった」
「わたくしは人形ではございません」
女性としての苦悩と誇りをこれほど繊細に細かく丁寧に描いてくれる映画もほとんどない。
女なんてチャンバラの飾り、もしくは史実の隙間に世継ぎ関連でちょろっと名前が出るくらい。
男達主導の力任せな時代に巻き込まれ、どんなにやるせなく悔しい気持ちで過ごしていたかなんてことに
スポットを当てる人もほぼいない。
それをここまで細部にわたり見事に描ききり、しかもクライマックスで覚悟を決めて自らの生死に
境を入れる潔さ、猛々しさ。
美しさだけで語られがちな女性だが、その多面性を見事に表現した素晴らしい作品だと思う。
もちろん、市の強さもさることながら、仁義と信念を貫いた笹原家藩主とその息子もまた素晴らしい。

最後の決戦に及んだ各雄志三名のそれぞれの極限の選択はあまりにも血が流れすぎたが、
もはや勝負というものは、勝つか負けるかの結果論ではなく
そこに挑むか挑まないか。
その、命を天秤に賭けた勝負の瞬間に決定打となるものは結局のところ生き様なのだなと感じた。
伊三郎は言っていた。
「俺は笹原家に婿入りし、ひたすら妻や親戚に波風立てぬよう努めて静かに生きてきた。
 そうして大きな諍いもなくここまでやってきたわけだが、今ほど生きていると感じたことはない」
あくまで市を笹原家の嫁として守り抜くと誓い、そのためには己の命をも惜しくないと決断した時、
伊三郎は「ああ、俺は生きている」と感じたのだ。
自らの意思を自らの行動力で支えてゆくことへの決心が伊三郎の心に生きる喜びを感じさせた。
「お前達の尊い夫婦愛にわたしは生かされてきたのだ」とも言っていた伊三郎の胸中には、
二人が思いやりながら育んだ汚れのない真の愛が持つ温かさを知れた喜びにも溢れていたことだろう。

どれだけ世間に義理立てしようとも、自分の気持ちに嘘はつけないという至極単純極まる
人間として生きる意味に突き動かされた時に、彼は生と死の境を取っ払った。
死への恐怖は克服するものではなく、また克服して解決するものでもない。
死は生の反対ではなく生の延長であるということを受け入れた時、
死からは恐怖が遠のき、その先には迷うことなき生の一本道が現れたのだろう。
それはまるで伊三郎が構える刀のように真っ直ぐで美しく、強い。

信じるだけではやがて信じることに疲れてしまうかもしれないが、
信じることを念じることで、迷いは吹っ切れていくものなのではないか。
そんな信念に突き動かされた伊三郎、与五郎、そして市。
かの三名の姿からそんなことを感じずにはおられない。

メタルマクベス

ゲキシネ大好きで色んな作品を観ているが、DVDまでは買えないので(金銭的理由)
見過ごしていたメタルマクベス。
が、今年の5月からCS放送でいくつか過去作品が放送されており、このメタルマクベスも
その1つにラインナップ!ラッキー!
で、今月放送されていたものを録画し昨夜ようやく観たんだが…

ふつうブログには観て良かったものを楽しい気持ちで書き綴るものだけども、
今回ばかりは何とも言えない辛い気持ちで怒りの感情を記録しておかないとという気持ち。
メタルマクベスも劇団新感線による劇だけども脚本は中島さんではなくてクドカン。
演出はいのうえひでのりさんだったけど、なんだか脚本家が大物だから遠慮しているのか、
どうも台詞回しもギャグも、序盤の時点で全てが中途半端…。
タイトル通りにマクベスが基調となっていて、そのマクベスのストーリーを
80年代と200年後の未来との2つのシチュエーションで繋いで、というかいつの時代にも
マクベス的現象があるということだろうが、その照らし合わせる時代が脚本家自身が愛着を
持つ80年代、そして200年後の未来。うーん…。
登場人物の名前もレスポールやらグレコやら音楽ファンはニヤリとできるものだったし、
カレー毒物混入事件やバンドのファンの子のファッション(トレーナーのロゴがMIKI MOUSE
とかの皮肉)とかテキ屋とか移り変わるバンギャ達のファッションとか、
まぁそういうわかる人ぞわかる「ニヤリ」な部分で楽しめる部分は非常に多かったものの、
それを長尺の1つの劇に盛り込むには傍目には統一性がなさすぎて(書いた本人は
楽しかっただろうけど)細かいギャグはもういいよ。。。という気分になってしまう。
でも、そういうニヤリな部分も忠実に劇の中に詰め込まなきゃいけなかったのかなぁという
部分(それが脚本家への遠慮)も相手が相手だけに分かるのだが、だからこそ残念…。

あとは何が残念って、やっぱり役者…。
主人公のマクベスがとてつもなく不憫なくらいステージで浮いていて、やることなすこと
全てが空回り。ってかそもそも、このマクベスやっている人、誰??って映画観ながら
調べたところ内野聖陽さんという役者さんらしいが、悪いが劇中ではどう観ても不憫…。
登場シーンの時点から歌も踊りも何もかもがキマってなさすぎ。
ただ当の本人は気合いが入っているためか張り切って叫びまくるも、
その叫び声の中途半端さや歌声のヘボさが浮き彫りになるばっかりで
のっけから「え・・・この主役で3時間も大丈夫・・・?序盤だからこのテンションが
舞台に馴染んでなくてこんな変な感じなだけなの・・・?」と暗雲立ちこめる感じ。
んでもってマクベスをそそのかす奥方役が松たか子なわけだが、個人的に好きな役者ではないので
観る前からテンション上がってなかったのだが、実際に観てみても、やっぱり…。
松たか子も気合いが入りまくっていて、かなり吹っ切れた演技をしていたのだが、
それが内野氏同様に空回っていて
「え・・・?そんな無理せんでも・・・」とヒヤヒヤした気持ちで観てしまう。

なんか、やっぱり天性のお嬢様気質が抜けきれないのか、こういうスレた役をやると
無理してしまっている感が全面に出てしまっていて、これまた観ていて不憫…。
きっとこの内野さんや松さんは人間的にとっても真面目で良い人なんだろうな、と
逆に思ってしまった。でも真面目なだけの人って往往にしてつまらないじゃないですか…。
真面目な性格も突き抜けてサカナくんみたいになると一変して愛すべき人物になるのだが、
映画や演劇などのある種「普通ではないどこか」へ連れて行ってくれる媒体に、普通の人や
良い人では掴みきれない感情や感覚を有耶無耶に表現されてしまうと(別に叫び倒す必要ないよな
ってところで無闇矢鱈に叫んでその場を繕っている的な)「あぁ、これだから…」となってしまう。

旦那に「天下を取れ」とけしかける奥方の、その奥深さや罪に対する罰の受け取り方などの
非常に繊細で凄惨な感情が入り乱れるはずのラストシーンでも、結局、奥方役の松たか子は
コミカルに気が狂っている様を延々と演じ、あまつさえは「ごめんね、小さい人間が大きいこと
しすぎたね。。。」とホロホロと旦那に泣きつく始末。馬鹿野郎!!そんな簡単に泣いて
悲しむな!!そんなヤワな女に成り下がるな!!
本当に、泣けもしないし笑いえもしない。というか、そもそもマクベスという話を
単に「ミイラ取りがミイラになる」という物語のロジックだけを拝借しているだけだから、
そんな陳腐なラストになるのだ。
大体マクベスを題材にするなら、そこにまつわる悲哀や苦悩こそが物語の核になるべきなので
ある。
そういうことを考えた時、やはりマクベスが基剤となった黒澤明監督の蜘蛛巣城を
思い出さずにいられない。
あんなにすごい映画、なんといっても山田五十鈴さんの素晴らしい鳥肌演技を体感して
しまっていたがために、そもそも「マクベス」を取り扱うものへの敷居が高くなりすぎて
期待も高くなりすぎてしまって、余計に不満がマグマのように噴出しているだけなのかも
しれない。
でも、でも、である。
メタルマクベスを中島さんが描いていたらどうだっただろうか?
役者が違っていたらどうだっただろうか?
決して駄作にはならなかったはずである。
少なくとも、エクスプローラ(マクベスの親友)の息子・レスポール役の森山未來は
素晴らしかった。
正直、森山未來がマクベスを演じていれば、もっと情感溢れる舞台になっていたのでは?
「もしも」話は特に好き好んでするわけではないが、森山未來が演じたレスポールからは
出番が少ないながらもたくさんの感情が伝わってきた。

平凡息子の能天気さ、無邪気な自己愛、手放しの無能っぷり、突然父親を殺されたことへ
感情が対応できない馬鹿っぽさとそれゆえの悲しさ、でもじわじわ湧いてくる無念、
父親殺しの罪を被せられた動揺と怒り、沸き上がる正義、復讐への決意、
復讐する身でありながらも元から持ってる優しさが露見するシーン、などなど。
また、役者魂炸裂の素晴らしい歌唱シーン、特技であるタップダンスも盛り込んだダンス、
声の張りなども超一流。
ハッキリ言って、主人公のマクベスが数えきれないくらい歌っていた歌どれひとつ取っても、
バカ息子(きよし)役の森山未來が歌ったあの1曲には勝てない。
インパクトが違う。なぜ歌うのか、なにを歌っているのか、その歌に対する主観性が
全然違うんだと思う。歌の上手下手ではない、役者がその歌の真意を咀嚼して飲み込んで
表現しようとする意思の違いなのかね?

決して主人公役の内野さんもふざけてたわけではないと思うが(そりゃそうだ)、
どうしても歌に対する誠意というか真に表現するところまでは手が届いていなかったのでは
ないか。だから観ている側には何も響いてこない。
対して売れてない歌手でもMステにさえ出演すれば大物扱いされるように、
ゲキシネで主役を演じていれば自分が大きく観られると過信していたのでは?と疑ってしまう。
Mステで歌っていることよりも、一体何を歌っているのか、そしてその歌は誰が歌っているのか?
それこそが大切なことである。

松たか子にしても、正直マクベスの奥方役をするには迫力不足だし、無理矢理に破天荒な役を
演じようとやたらオーバーアクション、とにかく大声で頑張ってはいたが、やればやるほど
「がんばって(無理して)破天荒を演じているな…」という感じばかりが目立って目立って、
そっちが気になってしまう。
そんなにたくさんの演技を今まで観てきたわけじゃないけれども、ロンバケのリョウコちゃんや
HEROのおっちょこちょい眼鏡女子などがやはりハマり役なんだろうなという感じ。
中島哲也監督の「告白」での教師役の方がよかったと思うけど、それも正直、今ひとつ殻を
破りきれていない感じがもどかしく、その不穏な感じがラストの「ドッカーン!!!ってね」
という恐ろしく戦慄する台詞を松たか子が叫んだ瞬間に「あぁ、やっぱりこういう重たい
台詞は似合わないな…」とこちらもドッカーンと残念な気持ちになってしまった。
あの映画については、松たか子よりも何よりも、木村佳乃でしょう。
あの教師役もそっくりそのまま木村さんが演じていれば、わたしはDVDを買ってたと思う。

怒りに任せてダラダラと書いてきたが、結局は
・主人公役の影の薄さと演技の薄さ
・奥方の燃え滾るような情感の欠如
・上記メイン2名の薄ら寒さにひたすらスポットが当たり続ける苦痛
・そもそもの台詞の魅力のなさ
・下品の度合いが低レベルすぎて笑えない
といったところがメインのがっかりポイントでしょうか、、、、。

それにひきかえ、この舞台を最大限の力で盛り上げ、そして支えていたのは
何と言ってもエクスプローラ役の橋本じゅんさん。
彼の存在と演技の魅力がこれでもかと目立ったことが、皮肉にも主人公の薄っぺらさを
映し出す映写機になっていたような気もする。ほんとに、皮肉。
とは言え、とにかく橋本さんはいつにもまして素晴らしく、また出番が少なくて残念だったものの
高田聖子さんのピンポイントな盛り上げ方やアドリブは素晴らしかった。
結局、どれだけ有名な脚本家が書いて有名な役者が出演していたとしても、
その劇団の魅力を支える劇団員の力には到底及ばない。

中島かずき不在の衝撃と新感線劇団員の素晴らしさ、森山未來そして千葉哲也の役者魂に
震えることが出来た点では、1回は観ておくべきという感じかな?

つい最近封切られた蒼の乱はとっても素晴らしかったので、また近々この作品がテレビでも
観れることを楽しみにしてメタルマクベスのガッカリ感はもう忘れることにしよう…笑

苦悩の温度 ーーーヒミズ

園子温監督/染谷将太氏主演
と、いうことで初めて園監督の作品を観た(というか観ながら書いている)けど
うーーん…。
以前、この漫画の原作を読んだときもイマイチ何も響かなかったけど
映画も、うーん…。
なんというか…単純に自分の趣味ではないんだなぁという感じ…なのかな…。
そもそも二階堂ふみの演技が自分の嫌いなATG映画の女優丸出しで途中からというか
序盤の時点でうんざり…。
無駄に破天荒な性格で「ダメな僕」に何かと檄を飛ばしてくれるので、
映画全体で観れば見事な飾りになるとは思うけど、
結局「愛」や「恋」や「性」などの従来の女性偶像の枠からはみ出ないつまらない存在。

青春の殺人者でも同じ理由で序盤は観るのが苦しかったが、そこを食い止めてくれたのは
市原悦子のあの演技(旦那が息子に殺されて動揺して支離滅裂に話すシーン)だったのではと思う。
あのシーンのおかげで「あぁ、この映画はサブカルでもなく、サブカルっぽいものでもなく、
サブカルに影響された人が作りたいものでもなく、本当の天才が作ったものなんだな」とわかった。
青春に対して、まったく自分では予想もつかないような傷つき方をしながら生きている
主人公(水谷豊)にだんだん興味が湧いてきて見入ってしまう。
全く自分とは関係もないし接点もない主人公のはずなのに、である。
なぜ?

「ヒミズ」の主人公も父親を殺した。
「青春の殺人者」の主人公も父親を殺した。

それなのにスクリーンから目を離せなかったのは青春の殺人者だった。
なぜ青春の殺人者が心に残るのか?
そもそもなぜこの2つの映画を引き合いに出そうと思ったのか?
色々と考えを巡らしてみたのだが、
主人公が父親を殺しているという状況は同じながらも、その状況に対する主人公の
苦悩の温度が違うからではないかと感じた。

人は誰しもがそれぞれの形で人生に苦悩しているはずである。
苦悩する理由がテストで低い点数を取ったからなのか、就職活動に失敗したからなのか、
自分が殺人者だからなのか。
苦悩する理由は違えどもその濃さは個人次第なのだろうか?
わたしは違うと思う。

水谷豊は若者特有の軽やかさであっけらかんと殺人の重さから解き放たれようと
ふるまっているものの、その重責から逃れられない宿命のようなものに導かれている。
自ら殺した父親への愛情や自分の犯した罪の重さを知り自らを罰しようと不器用に
立ち回る。
青春という無邪気な残酷さに弄ばれてしまう若者の運命が、観ていて苛立たしいところから
スタートするのだが、だんだんと切なく、苦しくなってくる。
罪を自覚してゆく過程と罰で購おうと必死になる姿は、まるで子供が遊びながらつい弾みで
虫を殺してヘラヘラ笑っていたものの、
その残酷さをじわじわと実感して末恐ろしくなり、罪の意識に耐えきれなくなっていく様と
同様だった。
殺人というキーワードではあるものの、根本的には正義の自覚が植え付けられる様を見せつけ
られ、人間の弱さと強さというものを感じた。

ところでヒミズの方だが、今ひとつ主人公の苦悩というものの正体が掴めない。
父親の暴力、母親の失踪と主人公がスレた性格であることの条件は提示されているが
それもあえて「条件」という言葉で片付けてしまえるくらいのインパクトしかない。
序盤からモーツァルトのレクイエムが鳴り響く中で映画がスタートし、これみよがしに
二階堂ふみがヴィヨンの詩を朗読しているが、なんだかどれもがしらじらしくて、
映画の雰囲気を醸し出すためのピースに過ぎないという印象になってしまっている。
個人的には詩は1人でひっそりと読むもので、むざむざ人前で朗読したり、ましてや
詩集をカバーも付けずに「どうや!」みたいな感じで取り扱うことに甚だ違和感なのだが。
それに、ふてぶてしい態度の主人公も劣悪な家庭環境のためか突拍子ない行動の女の子も
なんだか「いかにも」感が全面に出てしまっているというか…。

やたらと人を殴るシーンを長々と見せているのも、その「痛み」を殴る音や流血や罵声で
思い知らせたいためなのかな?と思うのだが、その程度の痛みは子供でも知っていることなので
あえてダラダラと見せられることに苦痛も覚える。
それに、無気力で何事にも淡白な主人公が感じている絶望も希望も罪も恋も、
すべてが同じ温度で描かれているような気がして、その感じがとてつもない違和感なのである。
結局主人公にとって何が救いなのかがわからない。わかりにくい。

映画の中に出てくる通り魔も、結局その心の闇にまでは肉薄できておらず、
「通り魔=理解不能のため避けるべき」というありがちな枠組みから脱出できない。
そもそも、殺人や通り魔などのニュースでありがちな「なんか怖い!」という薄っぺらな
認識で留まっているものをもっと表舞台に引き出してその内部に迫りたいというものだった
としても結局は通り魔の存在もお飾り程度で理解不能なもの止まりである。
なんだかどれもが中途半端な気がして、それがどうしても解せないために
「うーん。。。」という印象になってしまったのかな。
とか書いていたらヒミズの映画が終わった。
結局、主人公は女の子の好意が引き金になったのか自首すべく警察に向かって走り出す。
その傍らで「がんばれがんばれ」と叫ぶ女の子。うーん…。なんなんだろうこの感じ…。
おれにはわからない…。

結局、青春の殺人者という映画は素晴らしかったという感想になってしまった(笑)

[FUJI15] Day1雑感

★Day1
 チャラン・ポ・ランタン
 →前夜祭の時点で素晴らしかったので迷うことなく朝早くきちんと起きてヘヴンまで歩いて行ってきました。
  1日目だから足が軽い軽い。サックサク歩いてあっという間に到着。ブレインの小春ちゃんが作る曲は
  内向的なロック人をまるっと飲み込むサブカルテイストできちんとアルバムを聴きたいなぁと純粋に思った。
  ライブでは愛の讃歌カバーもしていて、まぁなんというかひばりさんのモノマネ?というか、オーバーアクションで
  客席に突っ込んできたりしてたのだが、愛の讃歌は余計なパフォーマンスなしで真剣にガーッと歌って
  観客を魅了してほしかったなという唯一のマイナス点も。
 加藤登紀子さん
 →2曲くらいしか聴けなかったけど、いつも通りの安定の登紀子さんという感じ。
  いつもニコニコしていて観衆に呼びかけるように歌う登紀子さんは本当に優しい歌い手さんだなぁと思うのだが、
  個人的には情感たっぷりに、時には客をおいてけぼりにしてしまうくらい自分の世界に浸りきって歌ってしまう
  ようなシンガーが好きなので、特に全部観たいと思うことはあまりない、今のところは。
 OWL CITY
 →たぶん数年前も観てたと思うけど、この時間帯に他に観たい人が特にいなかったためとりあえず、ぐらいの
  軽い気持ちで参加。ピコピコキラキラで当たり障りないことを歌ってるな~という印象でライブがずっと進んで
  いったため、ラスト2曲は切り上げて早めにレッドへ向かってDrengeを観に行ったのだがこれが大正解であった。
 DRENGE
 →この日の一番のサプライズ!!!!いっやーーーーーかっこよかった。
  兄弟を要する3ピースのガレージ轟音ロックなのだが、音源を聴いてみてかっこよかったから密かにライブも
  楽しみにしていた(高望みしてライブ観て悲しい気持ちに鳴ることもあるじゃないですか)のだが、
  そんな不埒な気持ちで彼らを観に行った自分の根性を叩きのめしてやりたいくらい、もう1発目から完璧に
  空気を持って行ってくれた。兄弟がいるガレージバンドに間違いないという妙な自説にいよいよこれで箔が
  ついたなとニヤニヤが止まりませんが、とにかく、これまでも様々なバンドで使い回されたガレージという
  枠組みの中で、よくもBRMCやBlack Keys、Black Angelsなどを1ミリもかすめさせずにオリジナルの空気で
  全編を支配したなーと感激。ゴリゴリのベースを効かせずにボーカルが良い具合に主張してこない浮遊する声、
  曲間で絡み合うリズムとメロディの織りなす轟音交響曲が本当に奇跡的に純粋な音楽愛で匂配し合っていて、
  ちっとも泥臭くないのに魂をガシガシ揺さぶってくるのですよね~。
  いわゆるスタジアムバンドではないのだが(というかこういうある種繊細な音楽はスタジアムには向いていない)
  その身の丈を自らで知り尽くしてライブハウスという空間でサバイバルしている少年感もたまらんかったです。
  何年かして長尺のジャムがもっともっと生まれてくるようになったら15:00くらいのホワイトで観てみたいかも。
  その時は号泣ものだろうな。楽しみ!
 KITTY,DAISY&LEWIS
 →一番のお楽しみだったんだが、意外や意外、ライブはちょっと思い描いていたものと違って、正直途中でちょっと
  退屈になってしまった…。Going Up The Countryを一番最後に持ってくるというのもちょっと自分で思い描いていた
  セトリと違ってなんかライブで彼らがやりたいことと自分がライブで観たかったことが噛み合ってなくて、なんか
  ちょっと残念だった。もちろんライブがダメダメだったというわけではないのだが、もっとジャカジャカと楽器を
  演奏してくるのかと思いきや、ゆったりとじんわりと演奏して聴かせる人たちだったのね、という感じでしょうか。
 MOTORHEAD
 →今年のフジに向けて音源をかなりおさらいしていたのだけど、やっぱり「おさらい」とか甘っちょろいこと言っている
  自分のような輩には彼らの本当の凄さの1/100も理解できなかったのではないだろうか?
  猪突猛進でガシガシ突き進む彼らに振り落とされないように一生懸命付いて行こうと必死だった70分といったところで
  しょうか。爆音のロデオですよ。ロデオの神髄は決して「振り落とされないこと」ではないはずだ。そこには馬に跨がる
  までの熱いストーリーがあって、ロデオをこなす訓練や楽しみがあるはずなのだけど、まだまだ甘い自分はひとまず
  せめて振り落とされないようにがんばる!!!と意気込んでた青二才という感じでしたかね…でも青二才は青二才なりに
  兄貴達にこんな世界もあることを教えてもらえて幸せでした。1曲目がいきなりMotorheadだったよね??たしか。
 Foo Fighters
 →骨折デイヴのエンターテイメントに完全にすべてを持ってかれた、圧巻のライヴ、パフォーマンス。
  世界を股にかけるバンドとはこうもスケールが大きいものか。
  普段は近所の公園にもロクに出かけない文学野郎がディズニーランドに強制送還されてみたところ物凄くエンジョイした
  という感じかな(どういう感じ?)。いやー、さすがとしか言いようのないライブでした。
  スケールが違うスケールが。デイヴの叫び声とともに幕が切って落とされて爆音祭りですよ。あれで興奮しない人いるの?
  骨折もネタにするデイヴの懐の広さというか生粋のエンターテイナーというか、もはや「好き」とか「嫌い」では
  推し量れない圧倒の領域。1曲目から完全に喉を潰しにかかる勢いで咆哮しながら歌いまくって何万人という観客の魂を
  一気にまとめあげちゃうんだものね、すごいよね~あんなものを目の前で見せつけられたらそりゃイエモンのメンバーの
  凹みっぷりも半端ないものだっただろう。
  個人的に大好きな曲であるCold Day In The Sunをやってくれて嬉しかったな。これ見よがしに大々的なBest of Youも、
  決して「あ、はいはい、次はベストブユーね」と思わせないのは、やっぱりデイヴの音楽に対する深い愛情があることが
  ビシバシ伝わってくるからなんだな。Best of Youを演奏する前に、すでに観客も次はこの曲で締めるゾ!!と丸わかりな
  わけだが、フーファイはそんな陳腐な「最後にどの曲やるかなエヘヘ」という謎掛けで楽しむようなバンドではなく
  いかに皆の心をひとつにしてこの曲を迎えるかというところが肝になっているわけである。
  「次でラストだ。みんなが何を聴きたいのか俺は充分わかっている。そうだ、その曲だ。今からやるその曲だが、
  俺が歌いたいその曲は、俺がみんなのために歌う曲ではない。俺がみんなと一緒に歌いたい曲だ!!!」
  そう叫びながらなだれ込むあのイントロ。泣くでしょ。泣かないの?泣くでしょ!
  頭3曲ですでに全細胞を使い尽くそうかという勢いで歌っていたがいやはや。脱帽クルリンパしまくりの圧巻2時間。
  普段なかなか観れないこういうバンドをフジのお客さんと一緒に観れるというこの醍醐味ですね。
  これがサマソニだったら一気に地蔵の群れに取り囲まれた中で1人寂しく感動にむせぶだけの真夏のホラー絵巻に
  なってしまうのだけどフジは違うからね~。

そんなわけでまだまだ体力を温存させたまま1日目を終えたのでした。

[FUJI15] 何を観たのかまとめ

2015年のフジも無事に前夜祭から参加し、これまた何ものにも換えられない素晴らしき思い出を
ギュギュギュッと心に詰め込んでまいりました。
年々、集客が…出演者が…などなど言われていますが、収益の面はとりあえず置いておいても
やっぱりあのフジロックという空気は格別で特別。
今年観たアーティストをザザッとおさらい。

★前夜祭
 チャラン・ポ・ランタン
 THE HORRORS OF CIRCUS

★Day1
 チャラン・ポ・ランタン
 加藤登紀子さんミ→チラ見
 OWL CITY
 DRENGE
 KITTY,DAISY&LEWIS
 MOTORHEAD
 Foo Fighters

★Day2
Rafven
キセル→ラスト数曲
 上原ひろみ→最初の2曲
 HOLYCHILD
 AQUALUNG
NATE RUESS
栗コーダー→ところ天国の川岸でまったりしながら森林越しにラスト数曲
 SUPER FURRY ANIMALS
PHILIP SAYCE
HAPPY MONDAYS
BELLE AND SEBASTIAN

★Day3
JIM O’ROURKEとGaman Gilberto
BLOODEST SAXOPHONE feat. JEWEL BROWN
TODD RUNDGREN
JOHNNY MARR
LEGENDS OF BLUES A Tribute to Howlin’ Wolf fearturing HENRY GREY&EDDIE SHAW
RIDE
WILKO JOHNSON
ノエル→後半40分(Whatever以降)


ふむふむ。なるほどー。
今回Day2がマジできつくて足が本当に壊れたのは何故かと思い起こせばまぁよく動いてますもんね。
あの山道をウロウロウロウロ歩き回ること実に5万歩強。
チャラン・ポ・ランタンが前夜祭に素晴らしい演奏を披露してくれて、ほんとにフジの善し悪しを握る
大事な前夜祭のアクトを見事に務めてくれたな~と感激した。
そんなチャラン・ポ・ランタンが演奏する様子をステージ袖からチラ見していた時点で出番前から
存在感を放っていたTHE HORRORS OF CIRCUSはまさに電撃ネットワークの海外版という感じで見事に
謎の秘技を繰り出していた。なんか小さいオッチャンが鼻の穴伝いに紐やらなんやらを通していたのだが
いくらコンタクトをつけているとはいえ近眼にはいまいちその凄さが伝わらず無念。すまない小さいオイサン。。
前夜祭定番の苗場食堂でとろろご飯+温泉卵+大根のキンピラ&けんちん汁を頼んで幸せのご飯タイム。
そしていつもはリストバンド交換所から遠目に見ている花火を苗食の横からきちんと観れた。
花火の打ち上げ方にしてもライブ感が漲っていて素晴らしい。これこそが世界のフジ。
もう花火の時点で涙が出てしまったよ。。。
雨もチラチラ降っていたが土砂降りにはならず、体力を調子こいて使ってしまわぬようそそくさと宿へ帰る。

Unhappy Birthday

誕生日は幸福に包まれたあったかいものである

ということが当たり前

という考え方が甘いのかもしれない。

思い出さないでほしいのです。

わたしを思い出さないでほしいのです。
思い出すために、一度忘れられてしまうことがとても悲しいのです。

とは、かの寺山修司の言葉ですがまさにそのとおりなわけでして。

思い出すことの定番と言えば青春時代です。
死生観や愛や恋が脳内を占拠しまくっていて
日本の歴史的登場人物や小難しい英単語の丸暗記のために使う時間が削られる、あの青春。
そんなわけで青春とはよく使われている言葉ですが、はたして「青春の次」は何なのか?
そもそも青春は一度きり、終わればそれはただの「青春の終わり」であって次などはないのか?
いえ、あるのです、青春の次が。
青春(若年)
朱夏(壮年)
白秋(熟年)
玄冬(老年)

青春はもう終わったのだと嘆くなかれ嗚呼きみよ。
君の青春は朱夏へと移り変わっているのだ。

30代も中盤にさしかかると、「between壮年and熟年 with青春」という状態だと思うのです。
あっという間に壮年を過ぎ熟年が見え隠れする焦りとすでに過ぎ去った青春を未だ懐かしむことに
罪悪感さえ感じてしまう難しい時期。
かと言って十代や二十代前半、青春真っ盛りの時にあっけらかんと悩みなく過ごしていたかというと
それも違う。
せいいっぱい人を好きになり、よく泣いて笑って悲しみ喜び、と感情をフル回転させていたな。

何が言いたいのか見事にサッパリだが、すでに出会いから10年は経とうかという懐かしい人から
突然連絡が着た。
ここ数年はまったく音信不通で本気でどこで何をしているのかサッパリ、
海外にいても全然おかしくないような人なのだが、国内からは一歩も出る事なく
細々と暮らしながらも懸命に生き、生きるための生き甲斐も見つけながら、
十代に一度挫折した夢を再度追いかけることにしたらしい。
たった2、3通の、しかも一言二言のメールのやり取りだったけど、
わたしはきみの青春が一瞬も色褪せることなく青々とした瑞々しさを保っていたことに
奇跡すら感じているよ。

きみはきっと、大切なことや大事なものを一秒も忘れることなどなかったのだと思う。
だから何一つ、あらたまって記憶を掘り起こして思い出さなきゃならないこともない。
わたしは、一瞬でもきみをどこか思い出にしてしまっていたのかもしれない。
無理矢理に思い出にしてしまおうとしていただけなのかもしれないが。

ああ、朱夏さえまだ遠い。

この世の果て

「この世の果て」野島伸司脚本・1994年作

野島伸司作品は当初は家なき子や人間失格を観ていて大好きだったのだが、
この世の果ては観てなかった。
たまたまCSで放送されるのを知って、野島伸司脚本&三上博史主演というところに惹かれて
ダーッと録画して観たのだが、ま~凄い。
こんな凄い作品が普通に地上波で観れるんならそりゃぁ他の用事すっぽかしても毎週土曜21時に
テレビの前にかじりついてるわな。
この世の果ての後が人間失格だったのかな?こんな凄い作品を1年に2本も書いちゃう野島伸司の
才能が本当に末恐ろしいので2000年代以降のドラマもちょっとちゃんと観ていこう。

ドラマなんで、愛だの恋だのの甘い部分だけを面白おかしく描いてるだけでバカかケッ!と
ランドセル背負いながらも思っていた自分もなかなかにお寒いが、
そんなペラペラな世界が嘘みたいに、現実of現実を舞台に、リアルな人間模様が重ねられていて
その重なりが信じられないドラマを生み出す、という意味でもドラマ。
その奇跡のような瞬間を捉えるために12話も話を重ねているのですよね。
これはもう伏線だとかそういうエンタテイメントなんかではなくて、
野島伸司が人間の可能性を信じるために物語を語り部に祈祷しているかのようである。

全然甘くない。感動するとかそういうレベルでもない。

人間ドラマ・信念・音楽が三位一体となって人生に語りかけてくる素晴らしいお話。

聖者の行進も今一度見直そうっと…。
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