言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

こんばんは。


寒いねえ。東京は今日とても冷え込んでいる。寒いと心までカンタンなことで攻撃的になってしまう。これは不思議な傾向だ。オイラだけかな。


寒い日は全体機嫌が悪い。



さて、オイラの機嫌なんかどうでもいいんだ。


「自分は他の人のSOSに気付くのに、他の人は私を無視する。だから私には価値がない」


そう悩んでいる友人がいます。


今日はその思い込みには少しだけ考え違いがあるよ、というお話をしたい。



「私は誰かが泣いていたら必ず声をかけます。でも私のときは誰も声を掛けてくれない。私は無価値なんでしょうか?」


そういう疑問に心を囚われてしまっている友人がいます。


あなたが泣いていても誰からも声をかけてもらえない。あなたは誰が泣いていても声をかける人なのに。


あなたには価値がないのだろうか?そんな事はない。実例を紹介しよう。





私の友人がブログで悩みを書いていました。一緒に考えてみて欲しい。


「病院の検査で、父に腫瘍がみつかりました。今週末、ご家族の方に・・・とお医者様から呼び出しをされています。治療方針の相談ならいいのだけれど、もしも違う話だったらと思うと何も手につきません」



このエントリーについたコメントを紹介しよう。コメントをした人は30代の女性です。


「私の知人も先日、親御さんに癌が見つかって余命宣告を受けたそうです。私はなんて言ったらいいか分らなかった。ごめんね」



このコメントを読んで「この阿呆は、何を書きやがるんだ」・・・と、思わないであろう人を、もしもあなたが友人にもっていたとしたら。その人からの心配など、いっそされない方がいい。


心配をうけるだけ、あなたは深く傷つくだろうから。



このコメントを書いた人は「ざまあみろ」と快哉を叫んでいる訳では決してないよ。ただ「私はなんて言ったらいいか分らない」と言っているだけだ。


以前にも書いた事がある。心の痛みを長さや深さに例えるのは乱暴だけれども、深さ50Mの心の痛みしか知らない人に、深さ100Mの痛みの底でうずくまる人へ手を差し伸べることは決してできない。


うずくまる人の抱える悲しみや痛みに、想像力がついていかないんだ。




そして逆は容易い。深さ100Mの痛みを知る人が浅瀬で泣いている子供をみつけるのは容易だし、助けることも難しくはない。


分っていただけるだろうか。あなただから、他の人のSOSに気づくんだ。そして、他の人はあなたの痛みを想像できない。


あなたに価値がある、ないという話ではないんだ。


それではどうしたらいいだろう?


お若い人には、「互いに切磋琢磨する友人以外に、心の痛みについても経験豊富な年長者の友人を多く持ちなさい」と提案したい。


今いる友人の誰にも理解されない痛みは、偏屈だから感じる痛みなんだろうか?あなたが異常だから感じる痛みなんだろうか?そんなことはない。


その痛みを知る人は必ずいる。その人を頼りなさい。その人はきっと、出口もしっているし、出口へ至る道筋も知っている。


叶うなら、できるだけたくさんの年長者の友人を得なさい。出口はひとつではないし、その道筋もたくさんある。


あなたがSOSを発した時に、まるで無人の倉庫の中で一人で叫ぶように木霊しか返ってこない。そう感じたら外に出て大きな声でSOSを発しなさい。


必ず気付いて「どうした?」と声をかけてくる大人がいる。その人を頼りなさい。あなたは無価値なんかじゃない。



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言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

こんにちは。管理人ノクです。


お題がどうにもオイラ好みだったから選んでしまった。そうそう、前回のエントリーを読んだ方からね。
「どのへんが焼き芋の屋台に関係してるんですか!?」とご質問をいただいた。


あははは。すんもを育ててみたいという気持ちがあるだけです。



恋愛に悩んでいる友人がいます。申し訳ないが、オイラ20代のお嬢さんの恋愛相談はなんとも答えようがない。
考えてみて欲しい。相手の坊やも20代だろう?20代同士の本音のぶつかりあいに、40を越えたおっさんがセコンドについて助言なんかするのはフェアーじゃない。


いっぱいぶつかって、一勝一敗を繰り返す中で初めて手に入る絆もある。それこそが宝だと思うよ。



ただ恋愛について少しだけ、オイラが好きな詩を引用するところから話を始めたい。


海辺の恋、という詩です。有名だよ。
現代語にした時に違和感のある仮名づかいとかは、オイラが少し直してしまった。


こぼれ松葉をかきあつめ

乙女のごとき君なりき

こぼれ松葉に火をはなち

わらべのごときわれなりき。



わらべと乙女寄り添いぬ

ただ、たまゆらの火をかこみ

うれしくふたり手をとりぬ




甲斐なきことをただ夢み、

入り日のなかに立つ煙

ありやなしやとただほのか

海辺の恋のはかなさは

こぼれ松葉の火なりけむ。



佐藤春夫と言う人が書いた詩です。

一つだけ注釈すると、相手は人妻です。



想ってみたところで甲斐もない。何を生み出す事も出来ない。

その恋が、砂浜にこぼれ落ちた「枯れた松葉」なんだね。



乙女に戻った女性が 枯れた松葉を手で掻き集め、

わらべに戻った男が、火をつけて炎にする。


また、二人きりの時間、女性は「乙女」となって男性は「わらべ」となる。

暗喩されている精神的な位置関係にも共感を覚えるよ。



そして手を取り合ってその炎を嬉しく見つめて、そして炎は海辺に立ち上る煙となって消えてゆく。

真夏の昼に似合う恋じゃない。寒くなってからの夕暮れの一瞬の風景でしょう。



蛇足ながらオイラとは違う人生を歩む男が辿り着いた境地だねえ。

共感は覚えるけれども実際に理想にできるか?と自問すると、オイラは・・・儚いのはイヤだなあ。




ははは。さて、本題に入ろう。今日お話したいのは「事実を指差すこと=真実を導く訳ではない」というお話。


「痩せている体型が好きだと言われているから」「私は醜いと言われているから」「役立たずと言われているから」


そんな言葉で自分を責めてばかりいる。のみならず自分の心を生活に支障が出てしまうまで追い込んでしまっている友人がいます。



「そんなコト言う男、ロクなもんじゃない」なんて言ったって何の意味もないのが恋の力のすげえ所だね。ははは。

そして若い頃っていうのは100人が100人。「ロクなもんじゃない」んだ。オイラも酷かった。



だから違う事をお話したい。



未熟な判断力で指摘された事実と、尊重されるべき真実を同列に扱いすぎると「真実」を見誤るよ。



未熟な人ほど、このんで「だって事実だろ」と指差せるものばかりを批判したがる。


ブログで「だってこう書いたのは自分じゃないか。事実だろ」という論法もよく見受けるね。

今現在の状況を見て、外見や経済力や生活力でまだ改善の余地があるという事をさして「ダメな点」と指弾されることもあるだろう。




その指摘は未熟だよ。こと、心で判断するべき事柄については現在見える事実が、そのまま真実を導く訳ではないという話をしよう。



太宰治の「走れメロス」という作品がある。乱暴にまとめれば人間不信の王に友情と自分の命を天秤に掛けられた主人公が友情を守るという話だ。


この作品が作られたきっかけは、溜まった飲み代の清算を激怒と共に迫られた太宰が逆ギレしてあてつけに書いた。というエピソードをご存知だろうか。知らなくてもいいんだよ。こんな下世話な話。



そして先に紹介した「海辺の恋」。当時の記録を精査すると、よくある不倫を美化した詩ではない、当時の文壇の「なんでもあり」な世界に翻弄された二人の話だという事がすぐにわかる。




さて。作品が生まれた背景という事実が分って、作品はその価値を失墜させたろうか。



作品の価値は「読み手が作者の描く世界に共感し、自分の人生の糧とし得るかどうか」だと思う。端的な話、誰がどんなつもりで書いたって、読者が自分の人生の糧になったと思えたらそれでいいんだ。



それを「こういう背景があるから、この作品は駄作だ」と断じるのは的はずしもいいところ。とても下世話な批判だと思う。書かれた背景が作品の評価を左右するなら、作品自体は「何を書いても同じ」になるからだ。






例えが飛躍したけれども。過去をあげつらい、現在の苦境を指差しただけの根拠であなたの真価をガタガタ言う人の言葉なんか、気にしてはいけないよ。投げつけられた言葉はすべて表面的で下世話な空論だ。



自分の経験を踏まえて未来を示唆する内容の批評以外、あなたが心の痛みを堪えながら拝聴を強いられる必要は全くない。もちろん、その批判を真実と受け止める必要もない。



未熟者の、利いた風な批判を真に受けて自分を責めるようなことはしなくていいんだよ。少し離れた場所にいるおっさんから見れば、その批判もまた泣けてくる程未成熟で的を外しているんだから。


冬だねえ。恋愛バトル真っ最中の皆さん。がんばっておくれ。
焼きイモ、屋台で買ったことある? ブログネタ:焼きイモ、屋台で買ったことある? 参加中

言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku


昨日は随分といきがった内容のエントリーをあげてしまった。まだまだ、本調子ではないなあ。


さて、早急な結論を求めている友人がいます。



何かの悩みを抱えた時に、すぐに結論を求めるのは若い方ならば仕方がない。



ご家族に理解されないという焦燥感から、とっさにコブシをふりあげてしまった友人がいます。


自分の姿を鏡で見て不安にかられ、拒食の道を選んでいる友人がいます。


将来はカウンセラーになりたい。その夢を前にご家族との軋轢で悩む友人がいます。



あなたが本来もつ冷静さと「困っている人がいたら親身に助言したい」という健やかさで想像してほしい。




「私は将来お金持ちになりたいんだ」そう目標を立てた人がいたとしましょう。


「そのための最短コースはもう決めてある。ちょっくら競馬に行って来るわ」


そう言って全財産を抱えていそいそと競馬場に出かけようとしている人がいたら、あなたは何と言うだろう。



シニカルな会話を楽しもうという提案ではないよ。自分だったらと考えて欲しい。


ああ、俺も競馬場にさえ行けたらすぐに行って金持ちになるのに。と本気で考えるだろうか、その選択肢を考えて欲しい。





暴論ではあるけれど、結論を急ぐ=成功した姿を求めるというのはそういう事だよ。


万馬券を首尾よく当てたとしよう。そうだなあ。500万当てたとしよう。その金額は生涯お金持ちという目標を維持できる金額だろうか。



世帯主でなければ分らないよね。ははは。2年もったらかなりの倹約家だと思うよ。ただし、倹約を旨とした時点でお金持ちライフとは路線が違ってくるね。



目の前に、乗り越えたくても乗り越えきれない難問がある。解決策の糸口さえ見つからない。


そのストレスはとても大きく、年齢の若い方ならばその先の人生全てが真っ黒に塗りつぶされてしまっていると錯覚するだろう。



その原因は2つあるよ。ひとつは、今あなたが見ている「成功した人」について、あなたは「成功後の現在」しか視野に入っていない事。もう一つは自分の根本原因を見誤っていることだ。


経営の世界での実体験談、職人の世界の例えば「串うち3年裂き8年」なんて話から入ってもピンとこないでしょう。


イニシャルD,というマンガをご存知だろうか。人気の高い作品で新刊が出ればどの本屋さんでも必ず平積みして売り出しているよ。オイラも好きで読んでいるよ。



描いている人は、しげの秀一という人で漫画家の世界では「押しも押されもせぬ」存在の一人だろう。その人が32年前は、竹宮恵子さんの「地球へ」という作品でロケットしか描かせてもらえないメカ担当を4年も勤めていたというエピソードはご存知だろうか。



「地球へ」自体、軌道に乗るまでは「少女漫画家がなぜ少年誌に?」と敬遠されながらの連載開始だった。乱暴に言えば、「売れるかどうかも分らないマンガの、誰もが読み飛ばしてしまうロケットのシーン」だけに数年を積み重ねていたんだね。



「そんな過去があるから、今の成功がある」という話ではないよ。「応用の利くベテランは誰だってその程度の過去は当たり前に持っている」という事実の紹介です。



もうひとつ、蛇足ながら類似の例をあげたい。鰻職人さんの世界である言葉で「串打ち3年、裂き8年。焼きは一生」という言葉があります。一人前の職人さんになるには、鰻に串を打てるようになるだけで3年はかかる、という例えです。



「3年串打っていたら、職人になれるんですか?」という発想は間違っているよ。職人としての実力を持った時に振り返って「無我夢中の3年がなければ、串ひとつ満足に打てる様にもならないよ」という戒めです。



どんな夢、あるいはどんな問題解決にも経験者が残した手順というものがある。



心が疲弊している。とても苦しい。でもその事を先ずご家族が理解してくれない。理解してもらうための方法論はあるんだよ。ただ、あなたの視界にまだ入ってきていないだけだ。



自分の体重を知るのが恐ろしい。食べるのが心底怖い。きちんとした根拠のあるプロポーションつくりの手順は確立されているよ。恐怖に駆られて食をたっても、プロポーションを伴った減量は決して出来ない。それはただの飢餓の誘発しかもたらさない。



カウンセラーになりたいという夢があるのなら、カウンセラーとして「何を語るのか」。その事を先ず学ぶべきだ。資格があれば誰かを救えるなんて思っているカウンセラーのところには、先ず自分が通いたくないだろうという想像力をはぐくみなさい。



若い方にお伝えしたい。手に余る問題が自分の生活にも支障をきたすほど苦しい重荷になったのなら、年長者や経験者を頼りなさい。成功した人の、成功後のある日の一日だけを真似ようとしても決して上手く行かない。


何故なら、「その一日にいたるまでのバックボーンを見抜く力」を若い方はまだ持っていないから。



ご家族と向き合いたいと思ったら、専門家の助言を求めなさい。
自分の姿が醜いという恐怖心に駆られたら、経験者の助言を求めなさい。
自分の進路をご家族に理解させたければ、その道のプロの助言を求めなさい。


一人で「こうするしかない」と思い込むのは、冒頭に紹介した「金持ちになりたいから競馬場に行く」のに等しい行為だよ。





もう一つの原因、「自分の根本原因を見誤っているから、現状がとても苦しいと感じる」という点については心に深い疲弊を持っている方に限っての話となります。




自分自身の夢を持ちながら、あなたは同時に「他の人が自分に対して下した評価をそのまま受容してしまう」という気質がある。その評価が近親者のものであれば「それは真理だ」とさえ思い込んでしまう傾向がある。



その評価を無視していいとは言いません。でも注意深く自分でチェックしなおしてみて欲しい。


誰かがあなたに下した評価は、あなたの将来をあなたと一緒に考えた末の評価だろうか?
その人の現在を評価する、その人の過去を評価する。これは実はとても容易い。事実が目の前に転がっているわけだからね。


その事実をさして、その通りの事を言えば「その評価は正しい」という事になる。でもあなたが耳を傾けるべきは「あなたの未来を見据えた評価」だよ。


未来への評価は、発信する人の知識と経験と発言への責任が高いレベルで要求される。栄養学の知識が全くない人にダイエットのアドバイスを仰いでも適切な助言は受けられないのと一緒だよ。



あなたの両足を絡め取ってしまっている、「あなたに対する評価」は誰が何を見て言い出した評価だろうか。
あなたが気にしなくてはならないほど重い評価だろうか。どうか考えてみて欲しい。



そしてもう一つ。あなた自身への評価というのはね、あなたが納得できる評価をしてくれる人に出会うまで渡り歩いたっていいんだ。ただし、その世界に詳しい人の間でね。門外漢のよいしょに乗っても仕方がない。でもプロには「その人だけが目を止めるポイント」というのがある。


あなたを正しく評価してくれる人に出会って、あなた自身が信用できると思える評価を得るまでは、周りから得ている評価なんて「ご親切にどうも」でいいんだ。気にしてはいけない。





また、長くなったねえ。実は結論は一言なんだよね。


今を悩む若い友人にお伝えしたい。悩みがあったらその道に詳しい経験者にこそ助言を求めるべきだ。
決して、門外漢からの評価を気にしたり、自分ひとりで走り出したりしてはいけない。


毎度毎度、冗長で申し訳ないね。
教えて!電話やネットにまつわる「ちょっといい話」 ブログネタ:教えて!電話やネットにまつわる「ちょっといい話」 参加中

言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

随分久し振りの更新になってしまいました。2ヶ月でしょうか。


お心遣い溢れるコメントをいただきありがとうございました。


口を汚しての報告となりましたが多聞に漏れず、借金が出てきたり不義理が出てきたりといろいろな面倒事が続いた2ヶ月でした。


どんな経験もしてみるものです。若い頃から少しづつ亡父に鍛えられたトラブル処理能力で(ははは、この期に及んで恨み言をどうしても書き添えたくなるのは未熟な証です)、手間はかかりましたが心理的に大きな負担を負う事もなく事後処理を終える事が出来ました。



さて、近況報告はこの位にして。


ブログを休ませていただいた間に気になる話題がいくつかありました。今更オイラが話題に載せることで当時を蒸し返す意図はありません。故に個別の実例としてではなく、オイラの個人的な感想として聞いていただきたい。



江戸時代、銭湯は「湯屋」と呼ばれ密室の蒸し風呂だったそうです。上下水道が完備されている現在とは随分と趣が違った姿だった訳だね。


蒸し風呂なので扉の開け閉めがあるたびに室温が少し下がる。職人の街であり、粋であるという事を重んじた当時の人たちは、薄暗い蒸し風呂に入る時に「室温を下げてしまって申し訳ない」と先に入っている人たちに一言詫びるために


「ええ、冷え蔵(ひえぞう)でございます」と挨拶して蒸し風呂に入るのがマナーだったんだそうです。


ここで「ああ、ご挨拶を受けた」と思い違いをして「ご挨拶ご丁寧に痛み入る。拙者○○と申す」と返事をしてしまうガチガチのお侍さんをネタにした小咄なんかも残っています。




さて、当時の湯屋は2階がサロンの役目を果たしている事が多かったそうです。その中でも気の利いたところは互いにそのサロン限定の名前を名乗りあい、政治経済、ゴシップなどを身分の関係をなしに語り合う場所があったそうです。


手代さんもお侍さんも行商さんもお医者様も関係なく好き勝手に自論を並べ、そして町で偶然にその人とすれ違ってもお互いに知らない顔をするのがマナーだった。そういう文化があったと、これは確か杉浦日向子さんの書かれた本で読んだ記憶があります。



現代で言えばサロンは身分を越えた交流が可能なネット空間、その中で名乗りあう名はHNに相当するのでしょう。




現代においても商用でサイト運営をされている方を除いて、ほとんどの方はネットというのは「娯楽」でしょう。
人によっては「遊びではない、本気の自己表現」と主張される方もいるかもしれない。


でも発信した情報に対して代価を得ている訳ではない。その意味では仕事ではありません。素人の娯楽です。





前置きが長くなったねえ。何度も見聞きした話だけれども、相変わらず「カリスマブロガー」VS「荒し」、「被害者ブロガー」VS「もっと被害者ブロガー」の構図を好んでそれぞれに自論を展開されているブロガーさんがいる。



遊びでやっているんだから、誰がカリスマでも誰が荒しでも、どうでもいい。

ただ、少し気が向いたので私見を申し上げたい。





「この人の本性みたり」という様なエントリーをわざわざ書いて、宣伝までしてまわるのは無粋だねえ。


個人が娯楽で書いているんだ。「こうありたい自分」を前面に打ち出して書いたとしても、それを虚偽と決め付けるのはいかにも幼い。例えばオイラが「ノク美です」と名乗って女性のイラストでも写真でも載せて、そうだなあ。上手く書く自信もないが夢見るようなブログを書いたとして。


指弾した人はそれを虚偽だと決め付けて何を得ようというのだろう?前述した江戸の湯屋の2階であった「風流斎」が、町で見かけたら職人だった。「○○流皆伝の剣士」を名乗っていた人が町であったら料理人だった。


それを指差して勝ち誇る姿に、オイラは粋を感じることはないなあ。



いいんだよ。粋である事がネットを楽しむ必須条件ではない。オイラはたまたま下町の育ちだから「粋である」という言葉につよいステータスを感じているだけの話だ。


ただ、個人の楽しみを横から指弾する、ましてや指弾しあう醜態にわざわざ楽しい娯楽の時間を割きたくはないなと感じています。気持ちの優しい人ほど、知人の争いごとに巻き込まれる傾向がある。


「この人は大人だから、事態を収束しようと勤めてくれましたが」なんて前置きを見かける事があるけれど、その大人という言葉を免罪符に騒動に巻き込んでしまっている自身の未熟を先ず恥じるべきだ。



巻き込んでおいて「助けられた」と言うのは、随分と不遜な発想に思えるよ。その人の本当の助言に、耳を貸しただろうか?「揉め事に関わることはお止めなさい。自分の道をいきなさい。」その助言を聞き流しておいて、自分が疲れてきたところで「助けられまして」というのは本当に助言を申出た方に対してとんでもない失礼にあたる。



他人を指弾する前に、その未熟と不明を恥じる気持ちを持つべきだ。




また批判あるいは誹謗中傷についてもね。少なくとも誰が誰にと、特定されたやりとりの中で憤るなら「喧嘩ですか。おやりなさい。ご存分に」とも言えるが引用も何もない稚拙な文章に「これは私の事を指している」と憤るのも、随分と幼い。放っておきなさい。



ネットの楽しみの一つは、その匿名性から得られる希釈された距離感です。そして書き手を想像する楽しみです。
嗅ぎまわって暴くことではない。




あるいはその匿名性を悪用して・・・という抗議の気持ちを持たれる方もいるかもしれません。
ははは。その匿名性を自在に楽しむだけの文章力があれば、悪用なんかよりもっと楽しい表現方法はいくらでもある。



互いに文章を書くこと、情報を発信することに関しては素人です。言葉の捉え方ひとつで誤解も生まれる。自分は誤解しているのではないかという発想をもたずにいきなり火が付いた様な怒りを見せる人とは、距離をおけばいいでしょう。一緒に怒ってなんとしますか。



ブログの再開早々、長い話を書いてしまいました。






NTT西日本 コミュニケーション大賞
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私は自分の家 派!


言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

実父が亡くなりました。


今日は死と生についてお話したい。


昨日の朝、少し離れた土地にすむ弟、妹からそれぞれに父が亡くなったと連絡を受けました。


様々な曲折があり、憎む感情すら枯れ果てて没交渉を重ねた親子関係でした。



孤独死の挙句5日経ってから発見されたという最後でした。もっとも、5日という日数は司法解剖の結果分かったことです。



父は人の親としての資質がまるでない男でした。また夫としての資質にも大きく欠けていて、あげく社会人としての倫理観にも大きく欠けるところがあった男でした。


人生の様々なトラブルを子供を盾に突き出しておいて一人最初に逃げ出す男でした。



だから生前交わした最後の会話はオイラからの言葉。「あんたが死んでも教えてくれるな。骨を足で踏みにじって便所に流してしまうだろうから」



さて、訃報を受け取って。実は心になんの波風も立ちませんでした。ただ、孤独死している姿を妹が発見したという事が気がかりになり、取るものも取り合えずに駆けつけました。



この陽気です。最悪の状況は覚悟しなければならない。


久し振りに生まれ育った街に到着し、実家へと行く前に一人でゆっくりと食事をして、場所を変えてコーヒーを一杯ゆっくりと飲みました。最悪の状況下でさらに食事が出来るかどうか自信がなかったので。


コーヒーを飲みながら。ゆっくりと自分の心の動きを測ろうとしましたが、やはり何の波風も立たなかった。



冷淡なものです。



クーラーの真下で倒れたのが幸いして、妹は今朝亡くなったのか夕べ亡くなったのか程度にしか感じていなかった。発見が早かったことも不幸中の救いでした。




やがて都内別々に暮らしている母、弟、妹、そしてオイラとが一同に顔をあわせたのは、オイラが司法解剖やら葬儀の段取りやらの手続きを終えた後、夜になってからでした。




荼毘に付すのは明日となります。昨夜家に戻り、一人ゆっくりと目を閉じて思いをめぐらせました。



一度、憎しみさえ枯れるほどに呆れ果てると。悲しみも悔いも湧いてこないのだと初めて知りました。



その人の存在が死によって失われたとしても、自分の人生にとっては何の損失にもならない。そんな人間関係においては、実父の死さえ心には響かないのでしょう。(これはオイラ自身の資質もあるでしょう。皆さんもそうだとは決して思っていません)



さて。人の死について。そして生について思い至った事があります。



手酷い暴力に蹂躙されつくした幼少期でした。手続き一切を終えて実家に戻ってきたオイラに母親がかけた言葉が「あんな父親ですまなかった」という詫びの言葉でした。


心に何の波風も起きません。ざまを見ろとも、せいせいしたとも思いません。



ただ、幼少期に見て育った夫婦関係は今、オイラとハニーの間柄の中で確実に違う形の実を結んでいます。


想いは言葉に出そう。それが不快の念であっても冷静である事を自分に誇ってとことん話し合おう。
喜怒哀楽は分かち合おう。「私はあなたが誇らしい」と伝えよう。


全て、自分の父親が蔑ろにしてきた事です。



あの父の下で育って、今幸せな夫婦とは何かを明確に形作る道筋を知る事が出来た。そして将来、あの父の下で育ったものとして、目標とするべき親としての自分の姿も明確に描く事が出来る。



それを「反面教師」と括るつもりはありません。そんな生やさしいものではなかった。
またそれを、父の功徳とも思っていません。自分にのみ甘く、優しく、世間を恨み、憎みながら人生を終えた男でした。


ただ、その恨みや憎しみ、蔑むべき心根や行動の全ては、本人が墓の中に持っていけばいい。
そして今も生きているオイラは、オイラ一人の心の痛みとして過去を抱えきればいい。

次世代に残すべきは、オイラの心の痛みではなく、オイラがどう生きたかを伝えることです。


痛みのない人生はありません。


次の世代を生きる人は、自分に縁のあった人がいかにして生きたかをただ知り、その生き様をよく考えて自分の人生を豊かにする礎にすればいい。



死、というのは個人の退場です。


もう、いない。そのことに喪失感を覚えるのは故人本人ではなく、生き残った者たちです。


大切な方であったなら悼めばいい。思い切り悲しんであげればいい。その後に、その人の生き様に思いを馳せて。あなたはあなたが思った通りに生きればいい。


故人を褒め称えても、憤っても、もうあなたの想いは故人には届きません。いえ、魂があるとしたらむしろ。
ゆっくりと休ませてあげればいい。




オイラも和紙に六文銭の紙貨を用意しました。祈るは安らかな眠りだけです。



もっとも、オイラと父の間柄はかなり特殊です。かくあるべき、という話ではないことだけ申し添えさせてください。




どこにいるのがスキ?
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  • 学校、職場
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  • 他人の家
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言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

随分と久し振りの更新となってしまいました。皆さんのブログは拝見しているのですが自分で書こうとするとやはり相応の時間がかかるものです。


仕事に追われる日々が続くと帳尻を合わせるために先ず自分ひとりの時間を削り始めます。


可笑しなもので、削る時間はほんの僅かなはずなのに心の余裕の方はごっそりと削り取られてしまいます。上手に休むのも仕事のうち。分ってはいるのですが、やはり一番難しいのがセルフコントロールでしょう。



以前から愛読していたコミックスの新刊が出ていたので、買い求めて気分転換に通しで読みました。「深夜食堂」という、東京・新宿を舞台にした架空の居酒屋の人情話です。オイラと同世代の方にはお奨めの一冊です。
「あたしのどこが好き?」って聞いたことある? ブログネタ:「あたしのどこが好き?」って聞いたことある? 参加中

言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

こんばんわ。半月ぶりの更新になりましょうか。管理人のノクです。


いくつかのタイミングが重なり、どうしても今日書きたい事がありブログを更新してみました。あまりに久し振りの更新なので、読んで頂きたい方の目に止まるかどうか不安はありますが、ははは。


これを自業自得というのでしょう。どうか届いてくれと祈るようにブログを書いております。


ご自身を責める言葉が鋭さを増しすぎてしまい、もはや悲鳴しか出なくなっている様にとれる。そんな友人がいます。地理的な互いの距離と、そして時間の余裕とに都合がつけば。駆けつけて話をうかがい、あなた自身を弁護して差し上げたい。そう願うのですが、制約の多い毎日をすごす現実の我が身の無力さが悔やまれます。


努力も、知恵も、勇気も、なにもない。そう言ってご自身を責めている方がいます。

自分が笑っているという事だけで、涙が出そうになる。そうご自身を責めている方がいます。

憂鬱になると、性格が悪くなる。そう言ってご自身を責められている方がいます。



過去に幾度かブログで書かせていただきました。あなたの心の疲弊の原因は、あなたの能力や資質にあるわけではありません。ご自身に対する合格点があまりに高いことが原因です。批判ではありません。理想を持たない人生になんの喜びがあるだろう?オイラ自身は常々そう思っています。


ただし、理想との向き合い方が厳しすぎるとご自身の心が傷つくばかりです。


以前お話した内容と重複した例え話になります。


理想と違う。望んだ行動がどうしてもとれない。誰にでもあることですが、ご自身の理想が正当なものであるほど、健やかな発想に基づいたものであるほど、達成できない焦燥感は強くなります。


子供じみた例え話ですが、あなたの心の中で行われているのはご自身に対する弾劾裁判です。被告人はあなた自身であり、検事役もあなたです。そして不幸なことに、弁護役と裁判官が存在しない裁判です。


弁護の後ろ盾がない。審判を下す裁判官がいない。存在するのは一方的にあなたを責め続ける検事役としてのあなたと、それを受忍しつづける被告としてのあなただけです。これでは、あなたの心が持つはずがない。



あなたに、世間一般の中での能力が欠如している訳では決してありません。資質や才能がない訳でも適性がない訳でもない。たった一つの、とても大きな違いは「あなた自身を弁護するあなた」の不在です。



今回のエントリータイトル、strike backは「反撃」「逆襲」という意味です。ご提案したい。


どうか、新しい人間関係を探り始めてみてください。あなたの弁護を買って出る新しい友人の声を少しでも多く聞くことができる時間を設けてください。


あなたの身近にいる人を非難する意図はありません。でもあなたの身近にいる人は、あなたがあなた自身を責め始めた時、検事役のあなたに同調したことがあるはずです。

そのこと自体に罪はありません。誤りでもありません。あなたの心の中に弁護人がいないことを、あなた自身も気がつかなかったのだから、周囲の人に気付けと求めることはできません。



それでも、あなたを責めるあなた自身の声に同調した人の中であなたが自分を認めなおすことはとても、とても難しい事です。どうか新たに、あなたの弁護人が座る席を用意してください。



あなたは間違っていない。あなたは歪んでいない。



他の誰にも受け止めきれない叱声を、あなたは今までひとりきりで受け止め続けてきたんです。もう、あなたの応援団の入廷を認めてもいいはずです。あなたの弁護団を大きく迎え入れてもいいと思います。



今のあなた自身を、あなたが理想とするご自身に近づけることが「反撃」ではありません。


あなたがご自身を責めている間中、あなたを弁護し続ける人の存在に気付くことが、今の状況を打ち破る「strike back」になるのではないか。そう思っています。



その弁護団の末席に、役者不足ながらオイラの席があるのなら。オイラは喜んで席につかせていただきますよ。
あなたの「守りぬくもの」教えて! ブログネタ:あなたの「守りぬくもの」教えて! 参加中

言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

こんにちは。管理人のノクです。今日は、いただいたメッセージ(プチメ)のお話。

いただいたメッセージなのだから、メッセージでお返しするのが本来なのだけれども、とても嬉しく思ったのでブログでお話させてください。


また、何かの偶然で初めてオイラのブログを読む、その初回がこのエントリーだったとしたらとても誤解をされやすい内容になるけれども、皮肉や自虐の意図は全くありません。本音でのお話です。



いただいたメールの本題は別の用事だったのだけれども、オイラのブログに関してのコメントが添えられていました。言葉使いなどは意図して変えてあります。


「ノクさんのブログは長くて長くて。途中で読む気が失せて頭に入りません」



あはははは。実はオイラ、このメッセージがすごく嬉しかった。


もちろん、申し訳なかったな。すまないなあという気持ちもあります。それでも嬉しかったのは、「NO」という意思表示をしてもらえた事です。



オイラは別にベテラン宣教師でも新興宗教の開祖でもない。自分の体験を、読む方に文章の下手を申し訳なく思いながらも冗長を改めずに書き散らす、ただのおっさんです。


ブログを読みました。勉強になりました。はもちろん、面映く感じながらも嬉しいご感想です。ただ、オイラが本当にブログを読んで欲しい友人は、ご自身の理想の高さと優しいお気持ちの深さから、誰かの発言に対して異論を唱えることにとても大きな躊躇いを持つことがとても多い。



読みにくかったら「読みにくいなあ、もう」が一番嬉しいんだ。
長かったら「解りづらいよ」と言われるのが一番嬉しい。


そこではじめて、あなたにもう一歩近づいた代案を出す事ができます。例え話を替える事もできる。


オイラは決して、自分の自尊心を傷つけられた。なんて安い事を言ってあなたから立ち去ったりはしません。メッセージはね。真意を伝えきれなかった方にも大きな責任が伴います。「私はあなたの為を思っていったのだから全部諾々と従いなさい」なんて言い放つのは、友人ではない。アジテーターです。


そして、「私も自由に発言ができるんだ」という信頼関係こそが、あなたに守り抜いて欲しい、そしてオイラ自身も守り抜きたい関係です。



だから。NOも、言い直せも、やり直せも、どんどん言ってくれて構わないんだ。そこからが本当に対等の友人関係の始まりになる。そう思っています。


だから、どうもありがとう。



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言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

こんにちは。管理人ノクです。前回はエントリーを書いている最中にどうにも時間切れとなってしまいました。
時間貧乏の悪癖はなかなかに治りません。


自分の存在は全く必要とされていないのではないか。そう思って心を痛めている友人がいます。

その考えは容易く誤解の迷路に入り込みやすい。ご自身を責める言葉でお心を傷つけてしまう前に、道標となる判断の目安を3つご紹介したい。そういう話を前回しました。



相手の方は今、自分以外の誰かを気遣える余裕を持ち合わせているのか。

誰かを必要としているのは、あなたなのか、相手なのか。

あなたが実感できる「必要とされている」という状況は、相手の負担にはなっていないか。



今回は、「誰かを必要としているのは、あなたなのか、相手なのか」。とても冷たいお話となりますが判断材料の一つとしてきいてください。


誰かに必要とされたい。力になりたい。そう願う心に打算はありません。とても崇高な心です。でも打算のない心の中にも、一つだけ落とし穴があります。


誰かに必要とされる自分である事を、ご自身を保つステータスとしたいと願う気持ちです。もちろん、実際に誰かの力になれたという実感は大きな自信を生みます。そしてさらに深い悲しみの底にうずくまる、次の友人のもとへと駆けつける原動力となる。



ただし、それは結果論です。スタートの時点で「誰かの力になれた後」というのを想像することはとても危険です。それは「わたしの望む結果」を相手におしつける事になるからです。


ただし、この話は次回にまわしましょう。



前回、「あなたの大切な人が、あなた以外の人に強い依存を見せるのは、その人が即効性のある鎮痛作用をもっているからです。あなたが否定された訳ではないし、その人にずっと寄り添いたいと願っている訳でもありません」というお話をしました。



誰かに必要とされる、ということは、あなたが誰かの「その人」になる事です。


強い鎮痛作用のある人として求められる人間関係に、あなた自身に対する理解というものは含まれません。



観念的すぎますね。オイラ自身を例えにしましょう。愚痴っぽく聞こえるかもしれませんが、決してオイラの大切な友人を批判するつもりで書くものではありません。ご承知置きください。



とても心が疲弊している。誰かに、ただただ、話を聞いて欲しい。そういう友人がある日、幾つかの条件が重なってふっと心がとても穏やかになる一日があったとします。それは、その人が得たかけがえのないご褒美の1日です。


その日に合せて、例えばオイラが「今日は元気?じゃあたまにはオイラの悩みを聞いてください」と言って。個人事業主の仕事に対する怖れや、世帯主として日々感じている重圧、あるいは20代の頃の自分と比べてあきらかに限界が見えてきている気力や体力への不満や不安などを切々と訴えたとして。



ははは。困るでしょう?そんな事いわれても。答えようがないでしょう?それは、それでいいんです。



誰かに必要とされたい、という事は「必要とされていない部分は自分で抱え込んだままで大丈夫」という自分への余力がどうしても必要になります。


あれもこれも、全部飲み込んだ上での持ちつ持たれつの戦友関係、というのは、お互いに心が晴れやかな日が続く様になった後の話です。



誰にも必要とされない。わずか10文字のこの言葉に心をふさがれてしまう前に、客観的にご自身の心の痛みの大元を見つめてみてください。



誰にも必要とされていないのは、否定されているからではありません。相手も「それどころではない」状況にあり、その「それどころではない」状況に対応する余力が、まだあなたの中に溜まっていないだけ。つまり、一過性の状況にすぎないと思ってください。


あなたの心のあり様が、あなたの存在が、未来までずっと否定されつづけているわけではない。


世の中は本当にままならない事ばかりです。現実は冷徹で、全てのトラブルには解決期限が設けられています。



その解決に携わるだけの余力を、今持ち合わせていないという事はその時の不幸ではあるけれど、あなた自身の尊厳を傷つける理由にはならないと思います。


そのために、大人がいるのだから。


だから、あなたも。誰にも必要とされないと心が塞ぎかけたら。「わたしは必要とされたいと願っています」というSOSをこそ発信してください。必ず、あなたに応える人とのご縁はつながってくると思います。
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言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku

こんばんわ。管理人ノクです。


自分の存在は全く必要とされていないのではないか。そう思って心を痛めている友人がいます。


その考えが迷路の中で行き詰まり、ご自身を酷く責め始めてしまう事がない様にと願い、3つに分けてお話をさせてください。


あなたの存在は必要とされていないのではないか。その事だけに心を囚われる前に。



相手の方は今、自分以外の誰かを気遣える余裕を持ち合わせているのか。

誰かを必要としているのは、あなたなのか、相手なのか。

あなたが実感できる「必要とされている」という状況は、相手の負担にはなっていないか。



一つづつ、注釈をつけさせてください。


大切なご友人が、恋人が、あるいは伴侶が。すぐそばに寄り添うあなたを、まるで無視するように振舞う事があったとします。遠ざける様子な言動をすることや、他の誰かにばかり頼る素振りを見せる事があるかも知れません。

行動は同じでも、原因は二つに分かれることがあります。ここを見誤ってしまうと、その方との信頼関係が全て崩壊してしまいます。


一つめ。はっきりとした意図をもって、あなたを無視したり遠ざけているのならば、それはあなた一人に対する否定です。ただし実際にはそうでない場合の方が圧倒的に多い。


あなたの大切な人は、あなたを否定しているのではなく、自分の抱える痛みや疲労に心が覆い包まれてしまい、誰の干渉からも逃避しようとしている事の方が、実際には遥かに多いケースです。


中には、特定の一人にだけ心を許し、その人との関わりだけに固執する様子を見せることもあるでしょう。自分の友人が、恋人が、そして伴侶が。抱えている苦しみをあなたにではなく第三者にすがる様子は、容易く「自分は否定された」という誤解を生みます。


敢えて結論からいいましょう。それは誤解です。なぜなら、あなたの大切な人はその「特定の人に」に、根本的な問題解決を委ねようとは思っていないからです。


同じ痛みを知る人に解ってもらいたい。同じ経験をしてきた人に共感を覚えてもらいたい。求めているのは一瞬の鎮痛作用です。失礼を承知で言えば相手の人格に対して信頼関係を求めているのではありません。「同じ目にあった事がある」「以前同じ経験の中で同席したことがある」というその人の経験に対して、共鳴や共感を求めているだけです。

それが悪いと言っているのではないですよ。本題に立ち返りましょう。


自分の悩みや痛みで手いっぱいの人に、差し出した手を振り払われたとしても。それは「あなたの人格を否定しようと意図した行動」ではありません。「立場に関係なく全員が関わりを拒まれている」という事の方がはるかに多い。そして「実体験があるから解るよ」という人にだけ訴えているとしても、それは鎮痛剤役の人です。痛みが退いた後も、その人が変わらず特別な人でありつづけるなんてことはありません。


その一連の出来事の中で「鎮痛剤役も自分が勤めたかった」と思うのは当然だと思います。でもどうぞその事で、あなたの大切な人を責めないで下さい。


それは「今、感じている痛みをすぐにやわらげて欲しい」と、痛みを堪えながら周りを見回している人に「あなたは○○に所属している人間なんだから○○社系列の薬を使いなさい」とブランドを強制するのと一緒です。


痛みさえ取れるのなら、その役は誰でもいいんだ。その後はきちんと、元通りの大切な人に戻るのだから。



念のため、拡大解釈が得意な大人の世界にも申し添えます。チャイルディッシュな寂しさを紛らわす方便に同じ論法は当てはまりませんよ。


さて、あと二つ。誰かを必要としているのは、あなたなのか、相手なのか。

あなたが実感できる「必要とされている」という状況は、相手の負担にはなっていないか。については次のエントリーでお話させてください。