友達は可愛い(かっこいい)方がいい? ブログネタ:友達は可愛い(かっこいい)方がいい? 参加中


言葉にしてしまえばたいした問題ではない。-noku
こんにちは。管理人ノクです。

ああ、好き勝手書ける日記はほっとするねえ。

今日は友人のブログを読んで、少し語りたくなった。オイラの少しは容易にコメントの文字制限を越えてしまうから、また自分のブログで語らせていただく事としよう。


式典があり、晴れがましくも重要な役割を担った友人がいた。


その役を担いきった後、同僚がどんびきした態度に急変した。まったく何だっていうんだ。


まあ、そんな話をオイラが聞いたと思ってください。



社会に出れば、日々のルーティンワークの他に、ここ一番という舞台が必ずある。


そこに立つ事がゆるされるのは、場にふさわしい技量を身に付け、またその場にふさわしい人脈を持っている限られた者だけだ、というのはとても簡単な理屈だと思う。


その技量を身につけるのに費やした時間が正しい形で評価された。


さて、その事について技量を持ち合わせていなかった人間がネガティブな感情を持つのもある程度は仕方がない。冷淡なようだけれども、何の取り得もない人間には徒党を組んで妬むくらいしか出来る事がないんだよ。


そして、彼らの水準に併せて自分の実力を封印するのは、そうだな。ケースバイケースではあると思うけれど、オイラはそちらの方が不義理な話だと思うな。


誰か、この役割を担える人はいませんか?そう聞かれた時に、応えたい気持ちがあるのに周りに気を遣って黙って下を向いていても得るものは何もない。

はい、それオイラ得意だよ。任せな。


そう言って舞台に立てばいい。今までルーティンワークをともにしていた集団からは、やっかまれたとしても。自分の実力が誰かの役に立てたという事実の方が余程尊い。そして、その姿がご縁で生まれる人間関係も必ずある。


これはもしかしたら男性の論理なのかもしれないね。けれども、下を向いて誰の求めにも応えない人生というのは不義理な生き方だと思う。自分が実力をだした事でその実力が妬まれたとしても、それは妬んだ方の勝手だ。

悔しければ、違う舞台に立てばいいし、同じだけの努力をどこかで積んでくればいい。どちらの努力も放棄して、やいのやいの言うだけの人間の手元には、何も残らないよ。



さて、それでも実生活でそういった面々とまた顔つき合わせて過ごさなければならないというのはストレスだよな。


厳しい事を言うようだけれども。孤高を保つのもしんどいならば、低きに流れるのではなく実力はあって当たり前の世界を探し始めるべきだと思う。


努力できる才能がある事を隠して、努力を怠る人の中で暮らすのはとても楽だよ。ただし、何かの弾みでその才能が露呈してしまったら村八分にあう。


ならば、努力?そんなもん呼吸と一緒だ。エバるほどのものじゃない、という世界を探し始めるべきだと思うな。
切磋琢磨の間柄は緊張の連続だよ。決して安穏とはしていないと思う。それでも皆で仲良く下向いて日が暮れるのを待ちましょう、という世界よりは余程居心地はいいとおもう。


転職を勧めている訳ではないよ。そういう人間関係を持って、そちらの人間関係に心の主軸を移せばいい。というお話です。


世を渡るにあたり、本当の理解者なんかひとりかふたりで充分なんだ。


ふたり、持てた人は天に愛されていると言ってもいいほどの幸せ者だよ。


狭量な人間関係に埋没することが世を渡るに求められる能力ではないよ。求められた時に、応じられる事こそが生きる醍醐味だよ。


とても素晴らしい経験ができたのならば。少しっくらいチクチクする筵の上に何日か座る事くらい、ご馳走のあとのダイエットだと割り切ればいい。ははは。オイラはそう思うよ。



おっと、ブログネタの「友達はかっこいい方がいい?」だったか。
「カッコイイ」「かわいい」が顔の良し悪しを指すなんて阿呆な前提は無視してな。

生き様がカッコイイ友、ハートがかわいい友、最高じゃないか。ははは。